第二幕 蒼き世界の果て

第1話 港にて

「お兄ちゃん……」

「……何?」

 鳥が一羽、上空を横切っていく。

「大陸って……どんなとこだったんだろ……」

 照りつける日射し。

 聞こえるのはただ、舟を揺らす波の音。

「……ネリア?」

「私ね……」

 少女はゆっくりと目を閉じる。

「……いろんな所に行きたかった……。外の、世界を……自由に……」


       *          *


 白い帆を持つ船が、所狭しと港に並んでいた。

 聞こえるのは、威勢の良い船乗りたちのかけ声。積み荷を降ろしたり、出航の準備に追われたりと様々だ。

「船長ー!」

 部下の声に、船内へ下りようとしていたディルは振り返る。

 ディルミナ=アルシュロイレ。女性で、しかも若干二十歳の若さながら外洋船『暁の竜』号の船長を務めている。

 くすんだ赤毛に、鋭い榛色の瞳。精悍な顔立ちはそこらの男よりも凜々しく、年上ばかりの船員たちからも一目置かれる存在だ。

「何だ?」

 彼女の問いに、十歳以上も年上の部下は緊張した面もちで答える。

「先ほど、港の連絡員から一報がありまして……」

「あ?」

「サロワ海域に停泊中の『南海の鷲』号なんですが、実は」

 皆まで言い終える前に、ディルは思い切り不機嫌な顔になった。

「凪か」

「はっ? ……え、なぜお分かりに?」

「バカかテメエは!」

 きょとん、としている部下を、ディルは容赦なく怒鳴りつける。

「えっ?」

「停泊中といま自分で言っただろうが!」

 その言葉と相手のいる海域名と季節を鑑みれば、容易に答えは出せるというもの。

 ああ、なるほどと呑気に納得している部下に、彼女は苛立ちも露わに告げた。

「航海は延期だ。皆にも伝えておけ」

「はっ、はい」

 慌てて敬礼をする部下から視線を逸らし、ディルは目を細めて海を見やった。

(凪……か)

 それは船乗りたちの間で、もっとも恐れられているもの。

 嵐でさえ、凪に比べればよほどマシだ。船が動かないまま、ただじりじりと日が過ぎていく。二、三日で済めばまだいい。けれど、凪は長ければひと月以上にも渡るもの。

 いつ来るのか分からない風を、じっと待つしかないのだ。食料も水も減っていくなかで、その先に迫る死を感じながら、何も出来ず……。

 『南海の鷲』がそうならないことを祈った。ある程度の凪対策はしているだろうが、長引けばそれでは保たなくなるはず。

「あれ?」

 ふと、ディルは呟いた。

 身を乗り出し、水平線の先に目をこらす。それから甲板の上を、舳先の方へ歩きだした。

「どうしました?」

 不審に思ったのか、部下も着いてくる。彼女は舳先に立ち、沖合に停泊する大型船の間を漂っているそれを見つめた。

 古ぼけた、小さなボートだった。粗末な帆を一枚だけ立てているが、ロープが切れてしまったのか、力なくだらりと垂れ下がっている。

 小さいながら、難破船という風情だった。波に流されてきたのだろうか。

「人が乗ってる?」

「ですかね。……子供?」

 いつのまにか双眼鏡を手にして、部下はのぞき込んでいる。

「子供が、二人……ですね。生きてるんでしょうか」

「……どこから来たんだろう」

 言うなり、ディルはすとん、と海に飛び込んだ。

「わあ、船長!?」

を下ろせ。あと一応、自警団の連中にも知らせるんだ」

 驚く部下に海中から叫んで、それから泳いでボートに近づいていく。

 あっという間にそこまで辿り着くと、縁をつかんで中をのぞき込んだ。下手に力をかけると転覆させてしまいかねないので、慎重にだ。

 部下の言ったとおり、ボートの上にいたのは二人の子供だった。女の子がひとりと男の子がひとり。意識を失い、寄り添うようにしてボートの底に倒れている。

 けれどその容態を気にかけるより先に、ディルの目は鮮やかな色彩に吸い寄せられる。

 陽光に透ける金髪と、輝く炎のような赤毛。

 どちらも美しく、珍しい外見と言える。

(……”純血種”……か?)

 ちらりと思ったが、そうしたことに詳しいわけではないディルには、よく分からなかった。まあ、今どき人身売買の奴隷商人しか使わないような言葉なのだが。

 大陸で様々な民族と文化が混淆する以前の、古い血筋を残している人々、とりわけそのことが見た目ではっきりと分かる特徴を備えた人々のことをそう呼ぶのだ。大陸の色んな地域に、少数ずついることはいる。

 炎のような少女の赤毛は、とりわけ珍しいように思えた。ディル自身も赤毛だが、くすんだ茶に近い色合いで、少女のものとはまったく違う。

 こんなに鮮やかな赤毛の持ち主は、ディルは見たことがない。

「船長ー!」

 呼ぶ声がして、一艘のボートが近づいてきた。

 帆船に備え付けられている、救難や整備に使うための手漕ぎボートだ。先ほどディルが端的にチビと表現したのはこれである。

「せ、船長……。どうなさるおつもりで?」

「放っておく気か」

 間抜けな問いを発する部下に苛立ち気味の声で応じて、ディルはに積まれていたロープの端を、子供たちの乗るボートに結びつける。

 頬のあたりに張り付く髪をうるさそうに払いのけて、部下に命じた。

「運べ」

「はっ!」

 部下はすぐさま櫂を握り、えっちらおっちらと漕ぎ始めた。船長命令は絶対とはいえ、なんだかんだ素直な奴ではある。

 ディルはそのままボートの側を併走して泳ぎ、ほどなく元の場所に帰り着いた。桟橋へあがる彼女に部下が尋ねる。

「……で、どうします?」

「決まってるだろうが。運べ」

「はっ!」

 すぐさま部下はかがみ込み、まずは少女を抱え上げた。彼女はぐったりとして、動かされても全く反応しない。

 ボートが流されていきそうになったので、ディルは慌てて少年の方を抱え、桟橋の上に乗せた。ついでに簡単に様子を見る。生きてはいるが、ひどく衰弱しているようだった。

 何気なく船を見上げ、

「……って、ちょっとまてルビン!」

「なんです?」

 少女を肩に担いで船へのはしごを登りかけていた部下が、不思議そうに振り返る。

 その間抜け面に向かって、ディルは思い切り怒鳴った。

「病人を揺れる船なんかに乗せる奴があるか! 陸につれてけ、陸にっ!!」

 へいぃぃっ! と、間抜けな部下の声があたりに響きわたった。



 海に面した道沿いにディルの家はある。

 港の外れの位置ではあるが、海を目前にしたこの場所に家を持てるのは、それだけ腕が良く組合ギルドに認められた権威ある船乗りの証だ。勿論ディルがではなく、元々この家を許されたのは彼女の父親なのだが。

 自室のベッドにふたりの子供を寝かせ、できるだけの処置をした後、することがなくなって彼女は外を眺めていた。

 窓からは行き交う人々の動きと、並んで停泊する船の白い帆が見える。その向こうには青い海……その果てを、まだ誰も見たことがない。

(こいつらは、一体どこから来たんだろう……)

 頭のなかに、完璧に叩き込まれた海の地図を思い描く。

 ボートはおそらく、西から波と風に流されてきたのだろう。けれど向こうの大陸は、あんな小さなボートで来られるほど近くはない。絶対無理とまでは言い切れないが、想像しにくい話だ。とすれば、可能性が高いのはレジィ島。

 レジィか。ディルはため息をつく。

 あのあたりは魔の海域と呼ばれている。岩礁が多く、船で進むのは至難の業なのだ。

 多くの船乗りが……そして父が、そこで命を落とした。

 あれだけ世界の海を飛び回り、どんな遠い海からも必ず帰ってきた父でさえも。

(でも、ボートなら岩礁なんて関係ないしな)

 父の船のように、他のたくさんの船のように、沈んでしまうことはないだろう。

「う……」

 小さな声が聞こえて、ディルは振り返った。

 少年の方が、わずかに身動きした。ディルはベッドに近づく。

 ゆっくりと、少年が目を開く。

「大丈夫か?」

「!」

 ディルの姿を見、少年は驚いたようだった。とっさに跳ね起き、正面からディルに対する。

「誰だ!?」

 ……なんだこの態度は、とディルは少々むっとした。少年はまるで親の仇にでも対するかのように、鋭い瞳でディルを見上げている。

 警戒されているのだろう。

 そう気づいたディルは、内心のむかつきを抑えて素直に名乗った。

「……ディルミナ=アルシュロイレ。二十歳。パラシック大陸ラントニア王国サヌマ街の住人。『暁の竜』号船長。以上、質問は?」

 少し、素直とは言い難かったかもしれないが。

「……大陸……?」

 少年はその言葉に驚いたようだった。

 もう一度、確かめるようにディルを見上げる。

「ここが、本当に……大陸なのか?」

「そうだけど」

 ディルは不審に思う。何か、不都合でもあるのだろうか。

 一度視線を落としかけた少年は、不意にはじかれたように顔を上げた。

「ネリアは!?」

「はっ?」

 突然叫ばれて、ディルはぎょっとした。

「ネリア?」

「ボートに、もうひとり……」

「だったらそこに寝てる」

 ディルが指さして、少年はようやく隣に眠っている少女の存在に気づいたようだった。

「……なんだ……」

 呟いて、ほっとしたように息をついた。

「そいつはネリアって言うのか? おまえの名前は?」

「ルージア=クイス」

「ルージア」

 ディルはオウム返しにした。変わった発音だ、と感じた。

 音を延ばす形のアクセントがこのあたりではあまり使われないからだろうか。ディルの耳には、内陸地方の姓のように聞こえる名だ。

 どこから来たんだろうな、と考えながら、ディルはひとまず立ち上がる。

「なんか食事持ってくる」

「待て」

 すかさず、少年に呼び止められる。

「何だ?」

「ここはどこなんだ?」

「ああ。私の家だ」

 その答えは、少年には少し意外だったようだ。

「……何のために?」

「え?」

「何が目的で、オレたちをここへ連れてきた?」

 なんだその言い方は、とディルは少しむかついた。

 まるで人を奴隷商人か何かのように。

「助けるために決まってるだろうが。死にかけている人間を放っておけというのか?」

 彼女としては、ごく当然の答えを返したつもりだったのだけれど。

 少年は一瞬、なぜかひどく戸惑った顔でディルを見あげた。

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