脱出編
また、夜が来た。
少年は闇の中、大木に背を預けてじっと座っていた。
最近は眠っていない。今の状態で寝たら、敵が来ても起きられないほど深く眠ってしまうと自分で分かっていた。
幸い、今のところは眠くない。疲れすぎて逆に目が冴えているのだ。
それでも少しでも横になったら、きっとすぐに眠ってしまうのだろうが。
傍らでは少女が眠っている。寝る前に、今日は私がみはりをするから、と言われて驚いた。即座に断った。
少女に気を遣わせているようではだめだなと思う。
(もう少しだから……)
そう、あと少し。あと少しで森を抜けて……。
* *
足元に気をつけろと、少年に幾度となく言われた。
罠があるそうだ。木と木の間に細い糸がとおっていて、それに引っかかると矢が飛んでくるとか。原始的だけど効果的な罠が。
だから歩きながら、少女はたいていうつむいている。
けれど彼女が見ているのは自分ではなくて、少年の足元だった。なぜなら、自分が歩くのは常に少年の後ろだからだ。
そして少年は兵士たちの気配を探るだけで精一杯で、足元まで見ている余裕はないのだ。
「ねえ」
少女が呼びかける。
少年は聞こえていないのか、反応を返さない。ここ何日かで、こういうことが増えた。
心配だったが、どうしたらいいのか分からなくて結局何もできないままだ。
ふと、少年が立ち止まる。
「どうしたの?」
声をかけると、黙るようにと合図された。彼はじっと、木々の間を見つめている。
「……?」
同じ方角を見たが、何もなかった。
ただ鬱蒼と生い茂る木々があるだけ。
「なにもないよ?」
少年は黙っている。
やがて、がさごそと木々の葉が揺れた。少女は驚いて少年の服にしがみつく。
木々の中から、背の高い青年が出てきた。銃はもっていなくて、代わりに服にたくさんナイフをつけている。
「イーリー……さん……」
少年が驚いたように呼ぶ。
「気づかれてしまうとは。さすがだねえ、収容所からフェリア人を連れ出すだけのことはある」
青年はにっこり笑った。鋭いその目は、笑っていなかったけれど。
少年は服のポケットからナイフを取り出した。青年の物に比べると小さくて、細い。
「……見つかったのがあなたで、幸運だったと言うべきでしょうか」
少年の言葉に、青年は一瞬眉を上げる。が、すぐに納得したように頷いた。
「なるほど、ライフルがないのか。そりゃたしかに『ナイフ使い』の俺でよかったな」
だが、と青年は続けた。あざ笑うような声だった。
「そんな細いナイフで、俺に勝てるか?」
「さあ……」
少年がナイフを構える。
青年が応えるように一本のナイフを抜き――。
「走れ!」
不意に少年が叫んだ。
少女がびくっとする。
だが、すぐに駆けだした。まっすぐに、少年の示した方角へ。
「っ! 待て!!」
青年が追おうとする。
その前に少年が立ちふさがった。
「ちっ!」
青年は舌打ちし、ナイフを構えなおす。
少女は走っていた。
まっすぐに、ただ前だけを目指して。
すぐに息が切れた。はあはあと耳障りなほどの自分の呼吸を聞きながら、それでも走り続けた。
「っ!」
何かにつまずいた。
バランスを崩したのと、ちょうど同じ瞬間に微かなビンッという音。
転びかける少女の頭すれすれを、何かが通り抜けた。
地面に倒れ、それから振り返った少女は息をのんだ。木の幹に突き刺さっていたのは長い槍。
少年から聞いていた罠だ。
勢いよく転んだのと、背が低かったのが幸いして当たらなかったようだが……。
「や……」
少女は震えだした。
怖かった。
あちこちに仕掛けられた罠も、どこに兵士がいるのか分からない森も、すぐそこにあるかもしれない死も。
なにより、ひとりでいることが怖かった。少年がいないことが怖かった。
怖くて怖くて、震えが止まらなかった。
「やだ……っ」
震えながら呟いた。
けれど、少女は立ち上がる。ゆっくりと、やがて速度を上げて走り出す。
あしがもつれて、転びそうになった。また罠にかかってしまうかもしれなかった。兵士に見つかるかも……。
それでも前に進み続けた。もうそれしかできなかった。
走れと、少年に言われたのだから。
「っ――」
背後から貫いた衝撃に、青年は息を詰める。
細いナイフが、青年の背に深く刺さっていた。すぐに死に至るほどではないにしろ、かなりの傷だ。
「おまえ……なぜ」
口の端から血を流しながら、青年は少年を見る。
信じられないと言うような様子だった。……当たり前かもしれない、実力で言えば少年は青年に遠く及ばないのだから。
「レーンという少年をご存じですか」
少年が唐突に問いかける。
青年はその顔に少しだけ驚きを浮かべた。どうやら、知っているようだ。
「ナイフ格闘が好きな……オレの友人でした。あなたに憧れて、ナイフさばきをいつも観察していた」
少年は淡々と言葉を紡ぐ。
「あなたのナイフの細かい癖や……弱点、なんでも彼は知っていました。ひとつひとつ、見つけるたびに彼はうれしそうにオレに教えてくれましたよ」
「そうか……」
青年は呟く。
「それで、負けたのか。弱点を知られていたのか……」
「もう一つ理由があるとすれば、あなたは焦っていた。早くオレを片付けて彼女を追いたかった、そうでしょう」
「……冷静なんだな、おまえは」
少年は静かにナイフを引き抜く。
「命がかかっていますから」
血に染まるナイフを投げ捨て、身を返した。
衰弱しているとは思えない素早い身のこなしで、少女の後を追った。
* *
木々が途切れていた。
枝の絡みあう暗い森が、小道の先で唐突に消えていた。その向こうにさす明るい日差しに、少女は思わず足を止める。
(出口……?)
しばらく呆然として、それから一気に駆け出す。
そして……。
少女はついに森を出た。
「……あ……」
声を上げ、ゆっくりと立ち止まる。
茶色い瞳をいっぱいに見開いて、目の前の光景を見つめた。
そこにあるのは蒼だった。
白い砂浜の向こうに広がる蒼。光が踊って、まぶしいほどキラキラと輝いている。
「う……み……?」
呟いて、確信する。そう、これは海だ。
生まれて初めて見る、遠い昔に母に教えられた『海』というもの。
信じられなかった。こんなにも鮮やかで広大な……。
風が吹いて、少女の赤い髪をくすぐった。真っ白な日差しの熱が、穏やかな波音とともに彼女を包みこむ。
「綺麗だろ?」
いつの間にかすぐ後ろに、少年が追いついていた。
急だったので少し驚いて、それからこくりと頷く。
本当に綺麗だった。
見たこともない蒼の輝き。空と重なるところまで、まっすぐに広がる……。
「父さんと母さんは、よく人目を忍んでここで会っていたらしい」
少年の唐突な言葉に、少女は彼を見上げる。
彼はポケットから何かを取り出した。
それはペンダントだった。半透明に光る、淡い青い石をあしらった。
「これは、父さんから。君に渡してほしいと……頼まれてた」
少女には訳が分からない。彼の父親が、どうして自分にそんなものを。
差し出されて、戸惑いながらそれを受け取る。
「ねえ」
透き通るような青の石を見つめて、それから真っ青な海を見て、少女は訊ねた。
「どうして……私をたすけてくれたの?」
少年は少女の視線を追うように、海を見つめる。
まぶしそうに目を細めて。
「……君は、オレの妹なんだ」
少女の瞳が驚きを込めて少年を見上げる。
「だって……民族が」
「父さんはルルーク族で、母さんはフェリア族だ。だからオレたちも、別の民族のような外見になった」
少年はゆっくりと歩き出す。白い波打ち際を、海から、目を離さないまま。
少女が小走りに追いかける。
「どこへ行くの……?」
「この先に小さな船があるんだ。昔父さんに教えてもらった」
「ふね……?」
「ああ」
立ち止まり、少年は振り返る。
彼が笑うのを、少女はこの時初めて見た。
「島を出よう」
少女は目を丸くする。
「海流に乗っていけば、大陸まですぐに行けるはずなんだ。どんな場所か分からないけれど……、そこならきっと、ルルーク族もフェリア族も関係ないから」
少女はこくりと頷いた。
それだけじゃ足りない気がして、なんどもなんども頷いた。
「うん……、行きたい」
少年がまた、笑った。
嬉しくなって、少女も笑った。少年に飛びつく。
「一緒に行こうね、お兄ちゃん!」
それから二人は歩き出した。手をつないで、光の差す海辺を。
蒼い蒼い海が、二人のそばにどこまでも広がっていた。
翡翠色の闇を抜けて 完
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます