ホワイトフィールド
沙倉由衣
第一部 蒼き世界の果て
第一幕 翡翠色の闇を抜けて
逃亡編
ルルーク族とフェリア族。
森に覆われたこの島で、対立するふたつの民族。
足音が追ってくる。
「ちっ……。もう見つかったのか」
藪の中に伏せたまま、少年は小さくひとりごちる。
真っ青な瞳が、じっと辺りの様子をうかがう。髪の色は金。典型的な、ルルーク族の少年だ。
バラバラと追ってきていた複数の足音は、彼に気づかずにそのまま通り過ぎる。
それが遠ざかり、完全に聞こえなくなり……さらにかなりの時間が経つまで、少年はじっと息を殺していた。
「ね……」
小さな声がする。
彼は黙るようにと素早く合図を送る。そしてなお、微動だにしないままあたりの様子に耳を澄ませている。
「ね……」
少年は動かない。
強い風が上空を渡って、ざあっと大きな音を立てて森が揺れる。
「ねえ……」
少年の背後で、小さな声がもう一度言った瞬間。
彼はいきなりすくっと立ち上がった。
「よし。もう大丈夫だ」
「……ホント?」
彼は振り返る。
幼い少女が座り込んだまま、茶色い瞳でじっと彼を見上げていた。髪の色は鮮やかな赤。これも典型的な、フェリア族、である。
「多分な」
そっけなく答えて、彼は前方に視線を戻す。肩のライフルを担ぎなおして、歩き出す。
少女は動かない。
少年はちらりと振り返る。怯えたような茶色の瞳で、少女は彼を見ていた。
どこか不安げな、哀しそうな表情が一瞬、少年の顔によぎったが、おそらく少女は気づかなかっただろう。
「来ないのか?」
訊ねた口調はそっけなかった。
少女は黙っている。
「……なら、行くぞ」
少年は再び歩き出す。
ためらうような気配があってから、背後で草の動く音がした。
草をかき分けながら、少女が自分のあとを追いかけてくる。そのことを音で確認しながら、少年はゆっくりと歩き続ける。
少女はすぐに彼に追いつき、黙ったまま、その後ろをついて歩いた。
もしも誰かが彼らを見たら、奇妙に思っただろう。
肩にライフルを担いだ、十五歳程度のルルーク族の少年と、ぼろぼろの囚人服を着た、さらに幼いフェリア族の少女。
少年は兵士であり、少女は脱獄囚だった。
兵士といっても強制的に軍へ入れられただけの子供であり、脱獄囚といっても敵に捕まっただけの無罪のフェリア人だ。
少年は森の中をゆっくりと進んでいく。
その眼差しは鋭く、常に周囲の様子をうかがっている。
張り詰めた緊張感が伝わってきて、少女はぎゅっと自分の服の裾を握る。
怖かった。
少年の雰囲気はナイフのようで、近くにいると息が詰まりそうで怖かった。
なにより、彼は対立するルルーク族の少年……敵であり、彼女を捕らえて閉じこめた側の人間だ。
「……疲れた?」
ふいに振り返って少年が訊ねる。
反射的に少女は首を振った。
疲れたなんて言ったらもっとひどい目に遭う。殴られる。ナイフで切られる。殺される……。
「じゃあ、休むか」
「……え?」
何が「じゃあ」なのか、少年はさっさと決めて木の根元に座った。
少女の方を見もせずに告げる。
「ここはもう牢獄じゃない。そんなに怯えるなよ」
……そうだった。
この少年は、少女をあの場所からこっそり連れだしてくれたのだ。
たくさんのフェリア人が捕らえられ、働かされたり殴られたり殺されたりしていたあの場所から。
なぜそんなことをしてくれたのか分からない。
何か目的があるのかも知れない。信用は出来なかった……彼はルルーク人なのだから。
だけどこちらを向いた少年の瞳は、森の中を見ている時みたいに怖くはない。
座れよ、と促されて、おそるおそるしゃがみこむ。
(なんなんだろう、このひと)
分からないままだった。
* *
幾度めかの月が昇る。
夜は地面に横になって休む。けれど、眠っている間におそわれるんじゃないかと少女はいつも思っていた。
そう言ってみたら、少年は心配ないと首を振った。オレはたとえ寝ていても、敵の気配がすれば起きられるから大丈夫なんだと言った。
少年の言葉の意味は少女にはよく分からなかった。
ここはルルーク族の領域だから、ここにいるのは少女にとっての敵ばかりで、少年にとっての敵なんかいないはず。
なのに彼は敵と言ったのだ。
「……どういうこと?」
訊ねたら、少年にはちゃんと質問の意味が分かったようで。
相変わらずそっけない口調で答えた。
「オレはフェリア族の女を助けた、ルルーク族の裏切り者だ。だから、みんな敵なんだ」
兵士たちの足音がする。
二人は草の中に伏せていた。
ルルーク兵と遭遇するのも幾度目かだ。今まで、兵士たちが探しているのは自分だと少女は思っていたけれど、それだけではないのだと昨日教えてもらった。
少年も同じように、彼らに追われている。裏切り者だから。
隠れている間は絶対に喋ってはいけないと少年は言う。
音を立てて気づかれたら大変なのだということは、少女にも分かる。だから喋らないし、草の音も立てないように注意する。
だけど少年のようにはいかない。
少年はぴくりとも動かない。息づかいさえ聞こえない。
死んでるんじゃないかと思うけれど、死んだ人間はもっとぐったりしているから違うと分かる。
けれど不安になるから、人の気配が遠のいたとたんに呼びかける。
「ね……」
すぐに、黙るようにと無言の合図が返る。これももう何度も繰り返してきたことだ。
兵士が遠ざかっても少年は動かない。
ずっとずっと時間が経ってから、ようやく彼は立ち上がるのだ。
分かっているから少女は待った。
長い間待っていた。
けれど、いつまで経っても彼は動かない。
「ねえ……?」
とうとう、少女が呼びかけて動いた瞬間。
パーン!
森の中に銃声が響き渡った。
目にも留まらぬ早さでライフルを構えた少年は、少女を狙って撃った。
弾丸は少女を外れて、わずかに頬をかすめていった。
「……え……?」
茫然と少女がつぶやく。
少年はびっくりしたように身を起こして、大丈夫か、と問いかけた。
撃たれたのにそう訊かれた理由が分からなくて、少女はキョトンとしている。
「悪いタイミングに身動きするな、おまえも……」
頬以外に怪我はないと知って、少年はほっとしたようにつぶやく。
それから少女の背後の地面に視線を落とした。
つられてそちらを見た少女は思わず後ずさる。
そこには兵士が倒れていた。心臓をきれいに撃ち抜かれ、死んでいる。
そして少女は気づく。少年が狙ったのは自分ではなかった。敵が、いつのまにか背後から忍び寄っていたのだ。
「レーン……?」
少年の声がきこえた。
見上げると、少年は青い瞳を見開いて死んだ兵士を凝視していた。自分が撃った兵士を。
(れーん? ……)
少年のつぶやいた言葉を少女は心の中で繰り返す。それから、死んでいる兵士に視線を移した。
このひとのなまえ?
少年は震えてるみたいだった。
「どうしたの……?」
そう言ったら、少年はハッとしたように少女を見て。すぐに首を振った。
「なんでもないよ。……行こう」
少女の手を引いて、歩き出す。
それでも一瞬だけ、後ろを振り返った。
少女が彼を見上げる。少年はなんだか、痛いような顔をしていた。
私のせいなのかな、と漠然と思った。
それから少年はライフルを捨てた。
今まで以上の注意を払って、少年は少しずつ森を進んでいく。
兵士たちに見つからないように、見つかる前に気づけるように、あちこちに仕掛けられた罠にかからないように……。
一番怖いのは狙撃兵だ。こちらが気づきようもない遠くから撃ってくる。
ずっと神経を張り詰めているから、ひどく疲れる。最近は時々、知らずに集中が切れていることがある。
太陽の位置から方角を見る。進む方向は間違っていないはず。
「あと少しだから」
少年は背後の少女に告げる。
少年の服の裾を握ったまま、少女はこくりと頷く。見なかったが、気配で分かった。
後少し。一日か二日か三日か……それくらいには着けるはずだ。
(オレが失敗しなければ、だ)
もう一度太陽を仰いで、進む方角を確かめる。
真っ白な太陽の光。
「……っ」
軽いめまいを起こして、少年は思わず額に手を当てる。
……本格的に体がおかしくなってきたかも知れない。森の中の行進は、予想以上の負担を彼に与えていた。
こんな所で死ぬわけにもいかないのに。
「……じょうぶ?」
急に、少女の声が耳に飛び込む。
少し視線をずらすと、少女の茶色い瞳とぶつかった。心配そうな。
「ねえ、大丈夫なの?」
ああ、平気だって。これくらいで慌てるなよ、うるさいな。
……と、それだけ喋るのも面倒だったので、ただ単に頷いておく。
それにしても、なぜこの少女はこうも元気なのだろう。彼は少々恨めしく思った。
緊張の度合いが違い、おまけに食料も水も優先的に少女に渡していればそれも当然なのだが。
「……疲れてないか?」
少年は少女に問いかける。
少女は首を振りかけ、思い直してこくりと頷いた。
それが、本当は疲れているのは彼自身の方だと知っていての少女の気遣いだとは、少年は気づかない。
「じゃあ、休もう」
こんなやりとりももう何度目か分からない。
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