夏の終わり
椎名美閑
第1話 夏の始まり
今年の夏は順番通りにやって来た。春が終わり梅雨が来て、紫陽花が枯れ始めたと同時に彼はやって来た。前の年と同じように、彼はうんざりするほどの熱と薄情さで私を包んだ。
7月29日、恋人は電車に三時間ほど揺られて私の元を訪れた。私はその日、途方もない恐怖に打ちひしがれてバイトを休んでいたから、少し早めに小雨の中を黒い傘をさしながら歩いて駅まで向かっていた。
彼女は当然、時間通りに改札を抜けて私を見つけた。
けれど今日は抱きしめてはこない。なぜなら私が事前に抱きつかないようきつく言っておいたからであり、今回こそは私から抱きしめてみようと心に誓ったからでもある。
しかし情けないことに私の体は持参した水筒に入った麦茶を押し付けるだけでその動きを止めていた。
私たちは黙って手を繋ぎ、私は静かに来た道を進んだ。
私たちが家に着いたのは午前1時を過ぎていて、もう7月29日ではなくなっていた。恋人は私の部屋に荷物を投げた。いつもそうやって雑に物を置くのである。けれどそれは許せないことじゃないので私は黙っている。そんな私の横をさっさと通って、恋人はシャワーを浴びる。シャワーを浴びる時、恋人は必ず私を浴槽に入れる。お湯が張ってあっても、お湯が張ってなくても。
彼女はまず始めに髪を洗う、一番水圧を強くして、上を向いて髪を洗う。その次に体を洗う。スポンジは使わないでボディーソープを手に取って、そのまま洗う。リストカットの傷痕がいつも見える。足の指の間までは洗わない。家では洗ってるかもしれないけれど。
最後に顔を洗う。彼女はどの体の部位よりも顔を洗う時が一番丁寧で、石鹸は必ずふわふわに泡立てるし、余分なものの入っていない、いい石鹸を私に買わせる。それを丁寧に顔に乗せて、決して強くはこすらない。剥がれかけのカサブタを取るみたいに、熟れすぎたトマトを切る時みたいに顔を洗う。そんな様子を見て私は静かに笑う。泡を流し終わるまでに笑うのはやめる。
恋人は自分をすっかり洗い終えると、今度はまるで自分の仕事をするように私を前に座らせて、私の体を隅々まで洗う。本当に隅から隅まで洗う。頭の先から足の先まで、別人の手つきで私を洗う。耳の裏も脇の下も膣の中も、もちろん、足の指の間も。
私はそれが彼女の愛し方だと知っているから、黙って受け入れる。指の腹がしわくちゃになる頃にそれは終わり、私が洗濯したふわふわのタオルで体を拭く。彼女はまだ身体が濡れているのに構わず服を着る。下はいつも下着だけ。ボクサーパンツが多いのは、可愛い下着に興味がないからではなくて、似合わないと決め付けているからだと言う事を私は知っている。丁寧に私を拭いて服を着せた後は、丁寧に私の髪を乾かす。その間に彼女の短い髪は乾いてしまっている事も私はちゃんと知っている。それでも私は一言、ありがとうとお礼を言う。
夏の終わり 椎名美閑 @Shi_na_
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。夏の終わりの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます