第54話「異界巡りのさがしもの」


     ×××


 自分が崩れていく。心が空虚になっていく。信念の根底が揺らいでいく。

 記憶などなかった。過去などなかった。生まれた意味は、実験のためだった。


「キミがいなくなった後は大変だったよ。いくら事情を説明しても、ラヴィは信じてくれなくてね。協力の礼をしたいのだけれど、あれから一度も連絡が取れずに困っているのさ」


 楽しい過去を懐かしむかのように、シャルノアはなおも語り続ける。


「あと、迷子のキミをこうして魔導士界ロゴスへ呼び戻すのも大変だった。居場所はボクの第五魔法ですぐにわかったのだけれど、まずはキミの自然な成長が見たくてしばらく見守ることにしたのさ。ただ、早くボクの元に来てほしい気持ちが抑えられず、つい何度もキミの心に呼びかけてしまったけどね。キミがいるべき場所はここじゃない、ってね」


「……え。あの、心の声。……まさか」


「すまないね、少し迷惑だったかい? もちろんボクのココロコーリングによるテレパシーさ。実はこの魔法、筆跡によって声色を変えることができてね。いきなり知らない声で脳内に語りかけたら驚かせてしまうだろう? だからせめて、エクセリアくんの筆跡を真似た文章をテレパシーに変えたのさ。どうやら、そこまで違和感がなかったようでよかったよ」


 頭が働かない。シャルノアの言っている意味が、この現実が、何一つ理解できなかった。

 だが、シャルノアは悪びれる様子もない。いつものように、ペケに言葉を投げかけ続ける。


「そんなに呆けてどうしたんだい? ああそうか、大魔導祭に向かったはずのボクが、キミより先にここにいるのが不思議なんだろう? 答えは非常に単純だよ。記憶を持たないキミは、遅かれ早かれ追憶の泉を目指すとボクは考えた。だから回帰ゲートでいつでも泉に向かえるように、あの日キミが迷子になってからの三十日ほど、ボクは泉の中に籠ったのさ。しかもこの泉の中は、まるで走馬灯のように、外界より時間の流れが速い。外界時間で三十日が経過する頃には、ボクのココロの居場所は無事に泉の中へと上書きされたよ。後は簡単さ。キミたちが泉に向かったことを知ったボクは、大魔導祭で手早く目的を済ませた後、すぐに枢機摩天楼にある水晶の門で魔導士界ロゴスを離れ、そして回帰ゲートを開いたのさ。他に何か質問はあるかい?」


 そんなこと、今さらどうでもよかった。辺りを漂うペケのココロのシャボン玉が、次々と割れて泉に溶けていく。泉の水に冷やされて、心と体が途端に熱を失っていく。


「キミもよくわかっただろう? キミという存在は、異界にとってきっと新たな一歩となる。さあ、早く帰って一緒に研究の続きをしようじゃないか。お互い、何も損はないだろう?」


 こんなこと、知りたくなかった。もう、何も考えたくなかった。ココロのシャボン玉は、気付けばすべて割れていた。

 言葉を失ったままのペケに、シャルノアは優しく手を差し伸べる。


「記憶も居場所もないキミに、このボクが最高の存在意義を与えよう。さあ、被験体第一号。いつまでも空っぽの存在ではいたくないだろう?」

「…………空っぽ?」


 その言葉に、ペケの心が反応した。

 確かに、ペケは空っぽだった。だがそれでも、ペケの隣にいてくれる魔女がいた。ペケにしかできないことがあると知った。いつの間にか、大切な居場所ができていた。いつの間にか、自分を好きになれていた。


 ニコと一緒に旅をした。毎日が新鮮で、毎日がヘンテコで、ただ毎日が楽しかった。悩んで迷って、それでも笑った。好きなものが増えていった。できることが増えていった。やりたいことが増えていった。

 ニコとの冒険の記憶が、譲れない想いが、いつしかペケの胸を満たしていた。


「……ある」


 そうだ、簡単なことだった。ペケは、とっくの昔に答えに辿り着いていた。


「記憶ならある! 居場所ならある! もう貰った!」


 自分が何者だとしても、ニコと歩んだこの冒険は本物だ。この冒険で生まれた、ペケの想いも本物だ。これまでの旅は、何一つ無意味ではなかった。異界巡りの旅の中で、ペケは『自分』というさがしものをすでに手に入れていた。


 ――ダメなの? 似合ってると思うけどな、ペケって名前。

 ――自分が誰なのか分かったら、そのとき正しく名乗ればいいんじゃない?

 ――ペケはペケだよ。実はペケじゃなかったとしても、ペケは私にとってのペケだよ。


 ニコの言葉が蘇る。胸の奥が熱を持つ。元の由来は関係ない。答えはすでに決まっていた。


「私はペケだ! ペケ・エクステンドだ!」


 想いのシャボン玉が溢れ、ペケの体を包み込む。無数の泡に押し上げられ、ペケの体が急浮上する。シャルノアが驚愕で目を見開き、歓喜で頬を緩ませた。その伸ばした手はペケに届かず、シャルノアはなおも泉の底へ落ちていく。ニコの元へと戻るため、ペケの体は加速する。


 真実は、直視し難いものだった。まだ、受け止め方がわからない。しかし、どう足掻いても過ぎた事実は覆らない。きっと、時間をかけて受け入れていくしかないのだろう。だが、さがしものは見つかった。自分の本当の正体は、自分の中で見つかった。もう、泉の底に用はない。



 想いがペケを運んでいく。浮上を始めてすぐに、泉に混じったラヴィの想いを感じ取る。泉の外の状況は、理解できた。無数のシャボン玉を生み出しながら、ペケはニコの元へと急ぐ。



 無限に思える時間を経て、ペケは泉から飛び出した。そして、泉から数十歩ほど離れた場所で、無傷で鍵を構えるラヴィと、その足元に倒れるボロボロのニコを発見する。


「私の、勝ちだよっ!」


 シャボン玉とともに現れたペケを見て、満身創痍のニコが笑う。ニコはあのラヴィを相手にして、ペケに危機を伝えた上、ペケが戻るまで時間を稼ぎ切った。ニコは、間違いなくラヴィに勝ったのだ。だから、とどめはペケの役目だ。泉を昇る間に、ラヴィを倒す手は思いついた。


「チッ、もう出て来やがっ――」

「――ペケプレス!」


 鍵を生み出し直したばかりだったのだろうか、ラヴィは手に鍵を持っていた。だからペケは、ペケプレスでラヴィの手から鍵を叩き落とした。そしてペケプレスの連射によって、鍵を何度も真横に弾き飛ばしていく。ソラの森で谷の上まで鍵を打ち上げた時に比べれば、造作もない。


「だが、無駄だぜ? 自壊しろ!」


 ラヴィが鍵を自壊させ、胸の奥から新たな鍵を生み出した。だが、問題ない。一瞬でも魔法を封じられれば、ペケの勝ちだ。ペケは〝X〟の鍵を宙で三度回し、回帰ゲートを開いた。


「は? まさかてめえ、こいつを置いて逃げ――」


 その声は、最後まで続かない。ニコがラヴィの足首に鍵を刺し、ツインウイングを発動したからだ。光翼の魔法のことは、ラヴィの記憶を通して知っている。そしてニコならペケの意図を読み、この魔法を使ってくれることも知っている。ラヴィの体が、回帰ゲートへ飛んでいく。


 ペケが開けたのは、魔法少女界アリスへの回帰ゲートだった。ペケは、魔女テンリと魔導士エクセリア、そして魔法少女クロスを掛け合わせた存在だ。そしてペケの回帰ゲートは、この三人のココロの居場所に繋がるようだ。

 テンリの回帰ゲートは、ソラの森。エクセリアの回帰ゲートは、シャルノアの家の地下書斎。なら、クロスの回帰ゲートはどこに繋がるのだろうか。


 ラヴィはすぐに気付いたようだが、もう遅い。〝♡〟の魔法の発動は、間に合わない。


 クロスの回帰ゲートの行き先は、煙突島にあるクロスの屋敷だ。ココロがそう告げていた。しかし、煙突島はラヴィの手により底なしの海に沈んでしまった。そして建物が動けば回帰ゲートの行き先もそれに合わせて動くのは、夢遊病の家のおかげで確認済みだ。つまり今、クロスの回帰ゲートは、底なしの海の遥か深部へ繋がるのだ。


 魔法少女界アリスの海は腹ぺこで、マナも魔力も島も太陽も、あらゆるものを無尽蔵に喰らい尽くす。出した魔法もすぐに喰われ、魔力も瞬時に吸い尽くされてしまうため、トキメキバルーンの中に籠るなどして身を守ることもできやしない。もしマジカルハート・ブレイカーを何とか発動できたとしても、周囲の海水のヘンテコを打ち消したところで、ただの水圧に押し潰されるか溺死するだけだ。


 そして命がいくつあろうとも、深海で死に続けるから意味がない。しかも魔法少女であるラヴィは、魔法少女界アリスでは回帰ゲートを使えない。

 ラヴィに残された選択肢は、鍵とルビーを全て自壊させ、異界から排除されることだけだ。


「……してやられたぜ、クソが」


 回帰ゲートを通り抜ける直前に、ラヴィがそう呟いた気がした。そしてラヴィは、ゲートの向こう側に消えた。光のゲートは役目を果たし、消滅する。追憶の泉が、静寂に包まれた。


 ラヴィに対してどういう感情を抱けばいいのか、ペケはまだよくわかっていない。ラヴィは、この計画の首謀者の一人だ。だが、この計画がなければクロスはあのまま死んでいただろう。ペケとクロスはすでに別人ではあるが、この計画は見方を変えれば、テンリとエクセリアを人間に戻す代わりに一人の命を救ったともとれる。もちろん許すつもりもないが、考えなしに憎むのも何か違う気がした。

 だが、その後の所業については話が別だ。どんな事情があろうとも、何度もペケとニコを襲ったことを当然許せるはずもない。ただ、この後のことは統一政府の司法機関に任せるしかないのだろう。結局のところ、ペケはただ自分とニコを守っただけだ。


 ペケはボロボロのニコへと駆け寄って、簡易な応急処置をする。そして、ニコに微笑んだ。


「ねえ、ニコ。私、ペケだったよ」

「そっか。おかえり、ペケ」


 ニコはきっと全てを知ったうえで、それでもいつも通りに笑ってくれた。そんなニコとずっと一緒にいたからこそ、ペケはこうして『ペケ』になることができたのだ。


 だが、まだ最後の試練が残っている。応急処置が終わるのとほぼ同時に、追憶の泉からシャボン玉の滝が昇った。そして泡のベールを掻き分けて、シャルノアが姿を現した。

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