第49話「魔法と記憶の水底で」

 魔導士界ロゴスの空が光に満ちて、今日も規則正しい朝が来た。無重力の岩場を泳ぎ、透明氷の迷路を抜け、浮遊石の橋を渡り、シャボン玉の嵐を越え、ついに二人は泉のほとりに辿り着く。


 その絶景に、二人は目を奪われた。氷の大地はどこまでも透き通り、遥か底から淡い光を放っている。大木ほどの石柱が乱雑に大地に突き刺さり、その間をシャボン玉が漂っている。

 そして祭壇にも似た光景の中央に、シャボン玉を生み出し続ける小さな泉が横たわっていた。


「……これが、追憶の泉」


 滑らかな氷上でも、不思議と足元は滑らない。この領域は、ペケとニコを受け入れてくれているようだ。だが、泉を覗き込んでも二人の顔が映るだけで、泉は何も答えてくれない。


「だったらまずは――ていっ!」


 ニコが何かを閃いたのか、泉の水面に指で触れた。すると泉に波紋が広がり、シャボン玉が一気に溢れだす。無数の泡の一つ一つには、ニコの姿が映っていた。


「ニコ、もしかして、これ」


 シャボン玉に映っているのは、過去のニコの記録だった。この谷で奮闘する姿、魔法少女界アリスでの冒険や魔女界グリムスでの日常、そしてペケとニコの出会い。ニコの半生の一つ一つがシャボン玉となり、宙に漂っているのだ。シャボン玉に触れるたび、そのときのニコの想いがペケの中へと流れ込む。中には心がこそばゆくなるものもあったが、なんだか少し嬉しかった。


 なおもシャボン玉は生まれ続け、ニコの半生を遡っていく。魔女の素質に目覚めたとき、初めてクラスで一番になったとき、魔女の絵本を読んだとき、揺りかごで眠っているとき。そして生まれたときのシャボン玉が小さく弾け、泉は静寂を取り戻した。


「あれっ? いろいろぜんぶ見られちゃった? でも、次はペケの番だよっ!」


 ニコは恥ずかしそうに頬を染め、ごまかすように笑みをこぼした。ペケも恥ずかしさを噛み殺し、水面に指を近づける。結果的には、ニコのおかげで不安はどこかへ消えていた。

 そして、ペケは水面に触れた。湧き出るシャボン玉はペケの半生を遡り、冒険の日々を映していく。だが、シャボン玉の発生はすぐに止まってしまった。


「え? あれ?」


 宙に浮かぶシャボン玉たちを慌てて覗き込む。シャボン玉に映ったペケの姿は、どれもがソラの森から今までのものだ。全てペケの記憶にあるものばかりで、それより前のものがない。

 最後に発生したシャボン玉に駆け寄るが、そこに映るのは地下の書斎の風景だ。ときおりシャルノアとラヴィの影が映るものの、なぜかこれだけノイズが酷い。


 まさか、泉は本人の記憶にないものを映すことはできないのだろうか。いや、そんなはずはない。ニコの場合、物心つく前の姿もシャボン玉に映っていた。つまり、その人物の全ての記録を泉は映し出すはずなのだ。なら、これはどういうことなのだろうか。


「でも、まだだ。まだ、何かあるはず」


 ペケは魔女帽を被り直し、一度気持ちを落ち着かせる。そして改めて泉を見ると、その中心が淡く七色に煌めいた。それは、ペケを泉の底へ誘っているようにも見えた。

 己の奥底を覗きたければ泉の水底へ身を投じろ、ということだろうか。光に導かれるように、ペケは泉に入っていく。ペケを歓迎するように、七色のシャボン玉が水面から溢れ出した。


「行ってくるよ、ニコ」


 泉の中央まで歩き、ニコへと振り返る。泉は思ったより浅く、膝上までの深さしかない。

 泉のほとりにいるニコは、一瞬ぽかんと口を開け、すぐにペケの意図を悟り、しばらく迷いの表情を浮かべ、そして顔を何度かこすって、曇りない表情で頷いた。


「待ってるよ、ペケ」

「うん、ありがと」


 ペケは満面の笑みを浮かべ、全身の力を抜く。ペケの心に呼応して、水面で波紋が広がった。

 足場が急に消えたような感覚とともに、ペケは音もなく泉に吸い込まれた。追憶の泉は、望む者には真の水底を見せるのだ。どこまでも深いところへと、ペケは引きずり込まれていく。

 記憶と想いと歩んだ記録が、泉に溶けだし共鳴する。自己の境界すら見失いかねない奔流の中で、ペケは必死に己を保つ。追憶の泉の底を目指し、ペケはまっすぐ落ちていく。



     Ⅱ


 ペケの姿を見送って、ニコはへなへなと座り込む。やれることはすべてやった。あとは、ペケを信じて待つだけだ。過去を知ったペケが、ニコの知らないペケになるかもしれない。もう、一緒に冒険ができなくなるかもしれない。それでも、ペケがどんな答えを出そうとも、その想いを全力で応援しよう。考えただけで寂しいが、ここでワガママを言っても仕方ない。

 いや、違う。そうじゃない。今後どうするかは、二人で決めることだ。泉から戻ったペケが変なことを言い出したら、そのときは思う存分喧嘩しよう。ワガママをまっすぐぶつけ合って、できる範囲で歩み寄って、二人が納得できる答えを見つけよう。きっと、それが一番いい。


 ひとまず、心の方針は決まった。喉が渇き水筒を手に取るが、中身はもう空っぽだった。そういえば、追憶の泉の水は飲めるのだろうか。試しに、泉の水を水筒に汲んでみる。


 そのときだった。突然大気が激しく震え、真紅の稲妻が降り注いだ。辺りを漂うシャボン玉たちは驚いて、一斉に弾けて消えてしまう。慌てて空を見上げると、谷を覆うシャボン玉のドームも割れていた。魔女の本能が警鐘を鳴らし、ニコはすばやく立ち上がる。


 直感が告げていた。これは稲妻ではない。空間に入ったヒビだ。そして、こんな芸当ができるのはニコが知る限り一人しかいない。答えに辿り着いた時、ニコの視界の端あたりに、何かが降ってトマトのようにぐちゃりと潰れた。潰れた何かは寄り集まり、人の姿に、いや、魔法少女の姿に戻っていく。


「クソが、無駄に一回死んじまった。間に合っただけ良しとするしかねえな、こりゃ」 

「そんな、うそ、でしょ?」


 なぜ居場所がばれたのか。いや、そもそもなぜ魔導士界ロゴスに来ることができるのか。通報の手紙は確かに中枢に届いたはずだ。例え罪を隠しきっても、ゲートはまだ自由に使えないはずだ。

 だが〝♡〟の魔法少女、ラヴィ・ペインハートは、ニコの前にその姿を現した。


「あ? つーか、てめえだけかよ。あの失敗作ペケは、おおかた泉の中ってところか?」

「なんで? ねえ、なんで? なんであなたがここにいるのさ! ちゃんと、通報したのに!」

「てめえの脳はわたあめか? いったい、何のことを言ってやがる。こちとら揉み消す準備はあったのに、通報すらなくて拍子抜けしたんだぜ?」


 その言葉で、ニコは真相を直感する。ラヴィを告発する手紙は、シャルノアに代筆してもらった。そしてシャルノアのココロコーリングは、書いた文字をテレパシーに変える魔法だ。それは心の声を届ける魔法であると同時に、文字を消す魔法でもある。枢機摩天楼へ送った手紙は、封筒の中で白紙にされてしまったのだ。だから、通報自体がなかったことになっていた。


 だがそうなると、やはりシャルノアは二人を騙していたことになる。でも、シャルノアの瞳はいつも真実を語っていたはずだ。魔女の洞察力を持ってしても、とても嘘をついているようには見えなかった。

 動揺を無理やり押し殺し、後ずさりながらラヴィを睨んだ。そんなニコの様子を見て、ラヴィは合点が行ったかのように舌打ちをする。


「おいおい、まさかシャルノアの奴の仕業かよ。私を嵌めやがった癖に、今更何がしてえんだ?」

「仲間じゃ、ないの?」

「奴が何をしたいかも、どこにいるかも知らねえよ。だけどよ、そんなことはもう関係ねえ」


 〝♡〟の鍵がラヴィの左手に差し込まれ、ボウガン付きのグローブが召喚される。射抜いた精神ココロ魔法ココロを自在に操る最凶の魔法、エンゼルアロー。それがニコへと向けられていた。


「ま、お喋りもここまでだ。失敗作ペケやシャルノアの前に、まずはてめえから仕留めてやるよ」


 魔導士界ロゴスの大気が身震いし、ニコの肌をも震わせる。それでも必死に恐怖を飲み込み、ニコは〝Ⅱ〟の鍵を構えた。ここで逃げれば、ラヴィはペケを待ち伏せするだろう。何も知らずに泉から出てくるペケは、無防備な的になってしまう。それだけは、させるわけにはいかない。

 いや、それだけじゃない。この魔法少女が、ペケの心を傷付けた。ペケの心を追い詰めた。


「ペケの身に起こった全部、ひとつ残らず聞かせてもらうよ!」


 一切根拠のない推測だが、ラヴィはきっとどこかの滝に乗って天へと昇り、そこからずっと天上の海をイカダで渡り、そしてこの谷めがけて落ちたのだ。行く手を阻む雷雲やシャボン玉のバリアを、ヘンテコ殺しのマジカルハート・ブレイカーで粉砕し、泉の試練をすべて無視してここへ降り注いできたのだ。予備の命を一つ使ってまで、ラヴィは二人を追ってきたのだ。

 その執念は、並大抵のものではない。ここでラヴィを止めなければ、今度は何をしでかすかわからない。だから、ここでけりをつける。全部、ここで終わらせる。


 無謀だ、と理性が叫んだ。勝ち目はない、と本能も叫んだ。それでもやる、とニコは叫んだ。

 ここから先は、魔女の意地だ。ニコは氷の大地を踏みしめて、ラヴィに向かって駆け出した。

 そして、身の程知らずの〝Ⅱ〟の魔女に、〝♡〟の矢が降り注ぐ。



     ×××

     

 水中を、ただどこまでも落ちていく。心をしっかり保ったまま、泉の引力に身を委ねる。

 不思議と呼吸は苦しくない。その気になれば声も出せる。体の周りでシャボン玉が生まれては、すぐに弾けて消えていく。ペケの想いが泉に溶けだし、泉の意思がペケの中へと流れ込む。


 時間の感覚もとうになくなった頃、周囲の景色に変化が起きた。視界を埋め尽くす程の大量のシャボン玉たちが、真下に現れたのだ。これがペケの奥底に眠る、過去の記録なのだろうか。

 覚悟を決め、シャボン玉の大群へと飛び込んだ。すれ違う泡に映る光景は、どれもペケの知らないものだ。しかし奇妙なことに、どこにもペケの姿はない。

 映っているのは、まったくの別人。そう、ペケもよく知る魔導士だ。


「違う。これ、私の過去じゃ……」


 気付いた瞬間、シャボン玉が全て弾けた。そして、泡のベールの向こうから、何かが姿を現した。

 泉には、先客がいた。だが、理解が追い付かない。ここにいるはずがない。ここにいる意味がわからない。何がしたいのかわからない。だけれども、この魔導士はここにいる。


「どうしたんだい? ずいぶんと遅かったじゃないか」


 折れそうなほど細い手が、ペケの手首を捕まえて、さらなる底へと引きずり込む。節ばった指が深く食い込み、いくらもがいても振り払えない。二人の体が、底なき底へと加速する。


「キミをずっと待っていたよ。さあ、最初で最後で最高の、答え合わせを始めよう!」


 魔法と記憶の水底で、〝C〟の魔導士・シャルノアは、無邪気な笑みを浮かべていた。

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