第48話「追憶に至る六日間」


 それからの六日に渡る冒険は、何もかもが劇的だった。

 二人の遥か頭上では、クジラ並の大きさはある帝王クラゲが何匹もひしめき合っていた。帝王クラゲは、体の十割が水分だ。つまりはただの水の塊なのだが、それが好き勝手に動き回るから手に負えない。もしもクラゲに見つかっていれば、二人の旅はそこで終わっていただろう。


 蝋燭の森では囁く霧に惑わされたが、話せば意外と分かりあえた。ハチミツ沼では人魚熊の逆鱗に触れ、ハチミツまみれで逃げ出した。浮き輪の群れにニコが攫われたときは、テンエンハンスで助け出した。常に闇夜の雪原では、ニコの直感に助けられた。

 時には地中に引きずり込まれ、時には霧の中を泳ぎ、時には飛び交う流氷の上を飛び移り、二人は前へ進んでいった。


 だが、こんなものは序の口だ。この谷は、領域自体があまりに自由奔放だった。

 谷が大きなくしゃみをすると、重力が一瞬ひっくり返る。日に一度はこれがあるから、どんな時も気が抜けない。谷がご機嫌斜めだと、上下左右から大粒の雨が降り続ける。谷が歯ぎしりをするたびに、地形が崩れて再構築される。

 たまに地面からつららが突き出ることもあるが、原因はよくわからない。銀のオブジェが枕元に生えることも多いが、これもよくわからない。


 そして先に進むにつれ、酷い眩暈や頭痛とも戦うことになった。この領域はマナが極端に濃いせいで、魔法使いでも稀に代謝が追い付かず、マナ酔いを起こしてしまうのだ。心身が致命的に変質することはなかったが、それでも体が適応するまで何度も立ち往生するはめになった。

 だが、それでも二人は前に進んだ。



 そして六日目の夕方に、二人は穏やかな湿原に辿り着く。空へと昇るシャボン玉の群れも、だいぶ近くに見えてきた。このペースなら、上手くいけば明日には追憶の泉を拝めるだろう。

 つい胸が高鳴るが、まずは寝床の確保が先だ。川のほとりで荷物を広げ、乾燥済みの風船クラゲを水で戻す。その触手を近くの石柱に括り付け、簡易テントは完成した。風船クラゲの体内は、テント代わりに最適なのだ。雨風を凌げる上に、重力が突然ひっくり返っても安全だ。


 残りの準備はニコに任せ、ペケは川へ薪狩りに向かう。遊泳中の野良イカダをテンエンハンスで強化して、川からコースアウトさせる。地面でもがくイカダに近づき、帆柱の付け根のわずかな隙間にナイフを突き刺し手早く仕留める。そして帆を剥ぎ取り、丸太同士を繋ぐロープを切り、イカダを解体していく。

 野良のイカダは、貴重な布と木材だ。心が痛まぬわけではないが、こちらが生きるためにも容赦はしない。


 イカダを解体し終えたところで、丸太を切るためニコを呼ぶ。ニコはペタンコペイントで丸太を帆に押し込んで、帆をナイフで細切れにする。そして魔法を解除すると、帆の切れ端から丸太の破片が飛び出した。

 二人で木片を拾い集め、それを薪にして火を起こす。モグラナマズとマイマイガエルの串焼を頬張りながら、二人は静かな星空を見上げた。


 魔導士界ロゴスの夜空はプラネタリウムだ。天を覆う海原は、星座を映すスクリーン。浮かび上がった星座たちは一分周期で切り替わり、夜空を彩っていく。

 ついに明日、ペケの正体が明らかになる。不安はある。恐怖もある。緊張もする。だが、心は確かに熱を持っていた。全身が脈打つような感覚も、今ではどこか心地よい。

 そういえば、前にもこんなことがあった。そうだ、煙突島に行く前日もこうして胸を高鳴らせ、こうしてニコと星空を見ていた。思えば、ずいぶん遠くまで来たものだ。


「ついに明日、か。なんだか、実感わかないかも」

「今度こそ、ホントに全部わかっちゃうんだもんね。ペケ、怖くない?」

「大丈夫。ちゃんと、覚悟はできてるから」

「やっぱりすごいな、ペケって。少し、憧れちゃうな」

「……へっ?」

「ううん、なんでもないよ。夜の魔女のひとりごと、だよ」


 ニコはからかうように微笑んで、クラゲのテントに駆け込んだ。ペケも慌ててテントに入り、意味もなく笑いあう。少し落ち着いた後、毛皮の毛布を被ったニコが、恥ずかしそうに呟いた。


「私も、怖かったんだよ。なんだか、ペケが遠くに行っちゃう気がして」

「……ニコ」

「笑っちゃうよね。あんなにペケを励ましておいて、ホントは私が一番怖がってたの」

「……笑わない。それでも、ニコはニコだから」


 どうやら、本格的にニコに毒されてきたようだ。言葉の意味が、ペケ自身でも分からない。


「へへっ。だったら私も、私とペケを信じるよ。そうじゃなきゃ、昔の私に笑われちゃうもん」


 それから二人は、しばらく旅の思い出話に花を咲かせた。そしてニコが寝静まった後、ペケは一人で伸びをする。谷の夜は危険も多く、交互に見張りが必要なのだ。

 風船クラゲは透明だ。テントの中から周囲を見回し、危険がないことを確認する。交代までの四時間半をどう過ごすか考えて、ペケは冒険道具の手入れをすることにした。


 魔女界グリムスのナイフは努力家だ。自分磨きを欠かさないから、切れ味が落ちることがない。ニコが植木鉢で育てたお手製サバイバルナイフは、旅の必需品だった。

 魔法少女界アリスの毛皮は寂しがり屋だ。人肌に触れていないと縮こまるから、持ち歩くときかさばらない。魔法少女界アリスで衝動買いしたヤマタノパンダの毛皮は、今はニコが毛布にしている。

 魔導士界ロゴスの水筒は欲張りだ。小さな体に似合わずに、大量の水を無理やり溜めこむ。シャルノアの私物を勝手に持ってきたものだが、非常事態なので仕方ない。


 冒険道具を眺めていると、これまでの旅が脳裏に浮かぶ。本当に、ニコにはいつも助けられてきた。だからこそ、自分の力不足がもどかしい。魔法の二重発動を大きく伸ばしたニコと比べて、ペケの成長はやや遅い。できることは広がったが、それでも天井が低いのだ。それに谷でのマナ酔いも、ニコはすぐに適応できたがペケは未だに頭痛に悩まされている。


 駆け出しの二人がここまで来られたのは、きっと奇跡に近いのだろう。やはりペケは魔導士で、魔導士界ロゴスに愛されているのだろうか。だが、それも明日になればわかることだ。

 とにかくここまで来たからには、やれることをやるしかない。たとえ何があったとしても、ここまで付いてきてくれたニコを、絶対に守りぬいてみせる。


 ニコの寝息を聞きながら、ペケは静かな決意を固めた。そして、夜が更けていく。

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