第47話「二重螺旋の滝壺へ」

 そろそろ半日ほど経っただろうか。ラクガキになると、身動きも取れなければ言葉も発せない。視覚は機能しているが、折り畳まれて郵便鞄に入れられては意味がない。感じることができるのは、伝書イルカの加速度と、繋いだ手から確かに感じるニコの存在だけだった。


 気を付けなくてはいけないのは、ラクガキでいることを不快に思わないことだ。ペタンコペイントは、嫌がる者をラクガキ化できない。つまりこの状態が嫌だと一瞬でも思ってしまえば、魔法が解けて宙に投げ出されることになる。


 空の旅にもようやく慣れ、ペケがまどろみ始めたときだった。突如、全身を浮遊感が襲った。理解が追いつかないうちに、今度は視界が急に開け、遥か下の樹林が目に映る。

 ペケたちが貼り付いたカーテンは、伝書イルカの鞄から落ち、宙に舞ってしまっていた。


 ニコがカーテンから飛び出し、手を繋いでいたペケも一緒に外へ引きずり出される。空中で、素早く視線を走らせる。地表までは、灯台約三本分。目の前には、天まで昇る二重螺旋の滝。周囲には、泡でできた雷雲。すぐ頭上には、雷に打たれふらふらと漂う伝書イルカ。

 追憶の泉は、挑むものを見定める。ここから先は、ショートカットは許されないのだろう。


「ニコ! 掴まって!」


 ニコがペケの胴に抱きつき、ペケの両手が自由になる。すぐさま鞄から乾燥した風船クラゲを一匹取り出し、水筒の水をクラゲに吸わせる。復活した風船クラゲは、パラシュートのように大きく膨れ上がった。ペケとニコはその触手に掴まって、徐々に減速していく。


 だがそれでも、落下の速度は殺しきれていない。地表まで、もう灯台一本分もない。真下はただの湿地で、クッションになりそうなものもない。


「大丈夫だよ、ペケ! 先に行くねっ!」


 ニコはそう叫ぶと、自分の胸に鍵を突き刺し、風船クラゲから飛び降りた。ニコの体が地表に迫り、そのままぶつかることなく地面の中に潜り込む。そして、着地地点に等身大のニコのラクガキが描かれた。ニコはすぐにペタンコペイントを解除し、地上に飛び出る。


 そういえば、ペタンコペイントはラクガキ化の際に速度がリセットされるのだと以前ニコが言っていた。ニコは今度は地面に鍵を刺し、ペケの落下を待っている。ペケも覚悟を決め、ニコの元へと飛び降りた。そして、ニコと同じように一度ラクガキになることで安全に着地する。


「助かったよ、ニコ」

「へへっ、浮きカボチャのときの教訓だよっ! マナと異界は高いところが好き、ってね! いつ空から落ちてもいいように、秘密で特訓してたんだよっ!」


 笑顔で、視線を交わす。だが、この領域の洗礼はまだ終わらない。辺りは人喰い沼の縄張りだった。遠くに見える小さな沼から泥の触手が飛び出して、二人を引きずり込もうと襲ってくる。十数本の触手は執拗にペケとニコの間に割り込み続け、すぐに二人を分断する。


「なら――テンエンハンス!」


 テンエンハンスで脚を強化し、迫り来る触手を回避する。やはり宙で体勢を崩すが、上体を捻り受身を取る。そのまま地面を転がって、勢いを活かしすぐに立ち上がる。


 どうしても体勢が崩れるなら、せめて転倒のダメージを減らし、なおかつすぐに起き上がればいい。この一か月でテンエンハンスの完全制御には至らなかったものの、多少は速度に慣れてきた。そして反復練習の中で、受身の技術も磨かれた。これが、今のペケの精一杯だ。


 ペケは何度も左右に飛び退き、音もなく地面を転がって、またすぐに加速する。飛び込み前転を繰り返すような奇妙な動きだが、構わない。この方が、かえって動きを読まれずに済む。


 業を煮やした人喰い沼は、一度触手を引っ込めた。そして今度は、沼の中から次々と泥人形が這い出てくる。泥人形はペケと変わらぬ小柄な体格だが、際限なく増えていく。人喰い沼は、大量の泥人形でテンエンハンスの逃げ道を塞ぐつもりなのだ。


 最後のテンエンハンスで、泥人形に突進する。一体の泥人形を巻き込みながら転倒し、そのまま馬乗りになる。喉元に杖先をめり込ませ、数秒溜めたペケプレスを叩き込む。

 相手は泥だ。ならば杖を押し込んで、体内で衝撃を炸裂させた方が威力は上がる。ペケはすぐさま立ち上がり、残りの泥人形に目を向ける。連射特化のペケプレスで視界を奪い、泥人形の間を駆ける。ペケプレスとバッテンバインドで泥人形を転ばせながら、ニコの元へと走る。


 だが、泥人形は突然ペケを追うのをやめた。見れば、沼は干上がって、その周囲には二十匹を超える風船クラゲが漂っている。おそらく、ニコが沼に大量の乾燥クラゲを投げ込んで、水分を奪い尽したのだろう。少しでも潤いを取り戻そうと、泥人形たちは慌てて沼へと戻っていく。

 この隙にペケはニコと合流し、がむしゃらに走る。伝書イルカも無事だったようで、二人を先導してくれた。そして二人と一頭は、ついに二重螺旋の滝の下に辿り着く。


「……きれい」


 地面にぽっかりと空いた滝壺は、霧がかかって底が見えない。二本の捩れた激流が、霧を裂いて天上の海まで駆け上がり、大気さえも渦を巻く。その上昇気流に乗せられて、滝壺の奥からシャボン玉が空へと溢れ、思い思いの色に染まる。

 ここが、追憶の泉に至る道、その入口。ずっと求めていた真実は、この先にある。


 すでに覚悟は決まっていた。伝書イルカに礼を言い、ペケとニコは底の見えない滝壺へと飛び降りる。渦巻く霧が絡み付き、二人の体は綿毛のようにゆっくりと穴の底へ降りていく。


 滝壺の底には、鍾乳洞の横穴があった。歯並びの悪い鍾乳洞を、噛まれないように気をつけながら進んでいく。一時間ほど歩き続けて、ようやく二人は外に出る。


 そこは、あまりに深くあまりに広大な谷底だった。渓谷は森をも飲み込むほどの幅を持ち、どこまでもまっすぐ伸びている。ぱっくりと左右に割れた大地は、海溝を連想させた。

 谷の上部はシャボン玉のドームで覆われて、イルカであろうと行き来はできない。そして谷の遥か先、おそらく谷の終点から、無数のシャボン玉が柱のように湧き出ていた。そこに追憶の泉があるのだと、ペケは心で直感する。ニコも感じ取ったようで、二人で顔を見合わせる。


「ニコ、改めて聞くよ。――準備は、いい?」

「ペケ、改めて言うよ。――もちろんだよっ!」


 目の前には、大木のような蝋燭たちが立ち並んでいた。蝋燭は細かく枝分かれし、枝のそれぞれに火を灯している。揺らめく炎が来訪者を歓迎し、踊るように燃え盛る。


 目指すは、谷の終点にある追憶の泉。ペケとニコは息を合わせて、最初の一歩を踏み出した。

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