第40話「一生分のワガママを」

 魔導士界ロゴスの空は海原だ。いや、どちらかといえば、空の上に海がある。途切れることなき海原が、雲の向こうに広がっているのだ。


 ここは海と石盤と魔導士もじの世界、魔導士界ロゴス。川は大地を気ままに這って、飽きたところで天へと昇り、雲の向こうの海へと注ぐ。逆さまの滝は魔導士界ロゴスの日常。空へと落ちる滝を見ながら、ペケは長く息を吐いた。


 ここ数日で体の痛みも引いてきたが、まだ万全には程遠い。そして心を癒すには、体以上に時間がかかる。ペケはベッドに腰掛けて、丸い窓からぼんやり景色を眺めていた。


「ペケ、どうしたの? ずっと外ばっかり見て」


 いつのまにか隣にニコが座っていた。ニコは身を乗り出して、瞳を覗き込んでくる。いつもの距離感が、少しだけ心をなごませた。

 今ペケとニコが暮らしているのは、樹氷と石柱だらけの渓谷に位置する、五階建ての石造りの家だ。塔にも見えるこの家は、数年前にシャルノアが釣ったものらしい。

 そして家主のシャルノアは、毎朝野外探索に出かけているようで、今日も昼過ぎまで帰ってこない。二人が心を落ちつかせられるよう、二人の時間を増やしてくれているのだろう。


「……いいのかな。こんなに、平和で」


 窓から流れ込む風は暖かい。どうやら、外の樹氷たちは好きで凍っているだけのようだ。


「いいんだよ。もう、きっと、ぜったい大丈夫だよ。あの事件は、ぜんぶ終わったんだから」


 自分に言い聞かせるように呟いて、ニコはペケの手を握る。手の温もりが、心強かった。


 ペケの意識が戻ってから、今日で三日。魔導士界ロゴスでの日々は、不気味すぎるほど平和だった。

 ペケが目覚める前、ニコは魔導士界ロゴスの中枢機関・枢機摩天楼に一通の手紙を出していた。もちろんその内容は、ラヴィの行いを告発するものだ。しかもニコの機転により、手紙はシャルノアが代筆し、サインまで添えてもらったのだという。確かに、シャルノアほどの著名魔導士の名を借りれば、ただのいたずらと勘違いされる心配もないだろう。


 そして、手紙は回遊中の伝書イルカに託された。魔導士界ロゴスのイルカは弾丸だ。川を駆け、大地に潜り、空をも泳ぐ。伝書イルカの速度なら、手紙はとうに枢機摩天楼に届いたはずだ。そろそろ魔法少女界アリスにも話が伝わり、枢機風車城を主体とした調査が始まっている頃だ。


「でも、さ。本当にもう安全なのかな」


 魔導士界ロゴスの中枢を経由した通報ならば、いくらアリスカルテットとはいえ完全に揉み消すことは不可能だ。それに三界それぞれの中枢には、事件捜査に長けた魔法使いが多数いると聞く。

 現に魔法少女界アリスには、脳波や声紋から嘘を見抜ける〝~〟の魔法少女、チルダ・ウェイブがいた。そんな魔法少女たちの手にかかれば、真実が明らかになるのは時間の問題だろう。そうなれば、ラヴィの身柄は人間界に引き渡され、法で裁かれることになる。

 だが、それでもペケの不安は拭いきれなかった。あのラヴィが、何の準備もなく取調べを受けるはずがない。どんな手段で隠蔽工作を図るか、見当もつかない。


「でも、今が安全なのは本当だよ。あとは、信じるしかないよ」


 ニコの言うとおりだった。すべての固定式ゲートは、政府の管理下にある。異界間を繋ぐゲートはすべて枢機施設内に集められ、異界内を繋ぐゲートも枢機施設と支部施設を繋ぐように設置されている。つまり、ゲートの利用はすべて枢機施設を経由することになり、そこで記録と監視が行われる仕組みなのだ。そして容疑者となった魔法使いは、捜査が終わるまでゲートの利用が禁じられ、仮に無罪と認められても最低三、四か月間は動きを厳しく監視される。

 だからこうして魔導士界ロゴスにいる限り、しばらくの平穏は約束されていた。


「そう、だね。成り行きを見守るしかないのかも」

「急いては魔女のカボチャ損、今はゆっくり休まないとねっ!」


 ニコは優しく微笑むと、ペケの手を力強く握り直す。ペケもつられて笑みをこぼすと、その手を握り返そうとした。

 だが、ペケは気付いてしまった。ニコの手が、かすかに震えていることに。


「……ニコ」


 平和に浸って弛んだ思考が、瞬時に塗り替えられていく。胸の奥から、痛みが溢れだす。


「……ニコ、ごめんね」


 自分が傷付く覚悟も、どんな事実も受け入れる覚悟もできていた。だけれども、ニコを巻き込むことへの覚悟が足りていなかった。何が『何度挫けても構わない』だ。何が『どんな失敗も受け入れる』だ。ふざけるな。これはあくまで、ペケの勝手な信条だ。その失敗に、誰かを巻き込んでいいはずがない。ペケの想いを通すために、ニコが傷付いていいはずがない。


「……ニコ、私は」


 ペケは間違いなく狙われている。ペケが忘れてしまった過去に、原因があるに違いない。

 考えたくはないが、他人の恨みを買うような人物だったのかもしれない。それどころか元のペケが犯罪者で、それに気付いたラヴィが正当な理由でペケの身柄を拘束しようとしていた可能性すらあり得る。ラヴィの言動からしてその線は薄いが、絶対にないとも言いきれない。


 しかもこのような状況下では、中枢に身を預けるのが安全なのかもわからない。ラヴィがアリスカルテットである以上、他の異界とはいえ下手に中枢に近づくのも危険に思えた。それに、枢機時計塔の調査でもペケの身元は未だに判明していないのだ。中枢に駆け込んだところで、事態が改善するとは限らない。


「……ニコ、あのね」


 思考ばかりがぐるぐる回り、うまく声が出せずにいた。何を話せばいいのかも、わからない。

 とにかく、これ以上ニコを巻き込みたくない。だが、ここでニコを突き放しても、ニコはきっと付いてくる。そしてペケは、ニコの優しさに甘えてしまう。それでは、駄目だ。


 でも、仮に突き放した場合、ニコの想いはどうなるのだろうか。ニコだって、覚悟を決めてペケの隣にいてくれた。どんな危険が迫っても、二人でともに乗り越えてきた。お互いにとって、お互いが居場所になっていた。二人での日々は、そうやすやすと否定できるものではない。


「……ニコ、でもね」


 だけれども、これ以上ニコに傷付いて欲しくない。でも、ニコの想いも尊重したい。それに、一人は心細い。いや、それこそただのワガママだ。やはり、ニコとはここで別れるべきだ。

 それに、万が一ラヴィが自由の身になったとしたら、証人であるニコもまた狙われる。なら、せめてニコだけでも人間界へ逃がすべきだ。いや、むしろ二人でいる方が安全だろうか。


「……ニコ、おねがい」


 頭の中でいくつもの想いが行き交い、渋滞を起こす。どうすればいいかわからず、息をするのも辛く感じられた。それでもなんとかニコを突き放そうとして、ペケは声を絞り出す。


「……いやだ。まだ、ニコと一緒にいたい」


 それは、無意識にこぼれた呟きだった。そして、あまりに単純なペケの本心だった。ペケ自身、その言葉が出てきたことに驚いていた。


「大丈夫だよ、ペケ。私はちゃんとここにいるよ」


 震える声で、目にうっすらと涙を浮かべながら、それでもニコは強気に笑う。


「いいの? ニコは怖くないの? だって、ニコだってボロボロなのに。だって、私が誰なのかもわからないのに。なんで狙われているか、何に巻き込まれているかだってわからないのに。ラヴィのことだって、このまま終わるかもわからないのに」

「もちろん、怖いよ。怖くないわけがないよ」

「なら!」

「でも、ペケがいなくなっちゃうのはもっと怖いもん」


 それに私は魔女だから、と冗談まじりに付け加え、ニコは照れくさそうに頬を掻く。何だかごまかされている気がして、ペケはじっとニコを見つめる。


「ねえ、ペケ。私だって悩まないわけじゃないんだよ。こうやってペケが目覚める前も、ううん、そもそもこの旅に出る前も、いつもずっと考えていたんだよ。だけどね、難しすぎてどうやっても答えが出なかったの。だから、心に従うことにしたんだよ」


 震える声には、いつしか熱が帯びていた。ニコの言葉は、止まらない。


「私は、ペケともっと一緒にいたい。だから、ペケともっと一緒にいることにする」


 そう言って、ニコは胸を張る。その胸元では、〝Ⅱ〟の鍵が誇らしげに輝いていた。


「それ、だけで?」

「だって、これが私の想いだもん。感情の問題を、感情論で考えないでどうするの?」


 ニコはいつもそうだ。何だかよくわからなくて、だからこそ直接心に響く。


「どうして、そこまで」

「だって私は魔女だもん」

「理由に、なってない」

「ううん。これが私の理由だよ」

「……ニコ、訳わかんないよ」


 そう言いながらも、ペケは涙目で笑う。


「訳わかんなくて当然だよ。だってただのワガママだもん。だからペケも、もっとワガママでいいんだよ。それでお互い様でしょ?」

「ずるいよ、ニコは」

「ずるくてもいいよ。それでペケが納得するなら」


 それにね、と呟いて、囁くようにニコは続ける。


「覚えてる? ペケが言ってくれたんだよ。何度でも、好きなだけ強がっていいよって」


 頬を染め、くすぐったそうにニコは笑う。ペケは魔女帽を被り直すふりをして、涙をぬぐう。


「何度も言うけど、本当にいいの? 私、ボロボロのニコなんて、もう見たくない」

「だったら、一緒に強くなろうよ。二人で一緒に傷付きながら、ボロボロでもへっちゃらなくらい強くなっちゃえばいいんだよ! それでこそ私たち、でしょ?」


 何度傷付いても構わない。ニコの言葉が、いつかのペケの決意と重なった。もしかすると、ペケがニコに毒されてきたように、ニコもどこかしらペケに染まってきたのかもしれない。


 そんなことを考えているうちに、何だか肩の力が抜けた。結局のところ、答えはペケの中で最初から決まっていたのだろう。やはり、一人だと単純なことほど見落とすものだ。


「ニコ、ありがと。でも、最後にひとつだけ、確認」


 ニコの好意に甘えている自覚はある。いまさら、心をごまかすつもりもない。

 だからこそ、ペケは自分自身の意思で、好意を真正面から受け止める。その責任と葛藤も、ひとつ残らず受け入れる。それがニコへの最大の礼儀だ。それが、ペケの在り方だ。


「私は、何があってもニコを守る。それが、私なりのけじめだから。どんな手を使っても、何を敵に回そうと、最悪ニコの鍵を折ろうとも、絶対にニコを守ってみせる。それでも、いい?」


 迷いと決意を全部込めて、ペケは言葉を紡ぐ。迷いのない表情で、ニコは頷く。

 ペケは小さく笑みをこぼし、呼吸を整えた。ここから先は、一生分のワガママだ。


「ニコ、これから何があるかもわからないけど、私の隣にいてほしい。ここから先は楽しいだけの旅じゃないかもしれないけど、それでも一緒に傷付いて、それでも一緒に笑っていたい」


 もちろんだよ、とニコはかすれた声で呟く。そして、ペケに勢いよく抱きついた。

 こうなると、ニコは加減を知らない。いつもであれば諦めて抱きつかれたままでいるのだが、今はそういうわけにもいかない。ニコを何とか引きはがし、その両肩に手を乗せる。そして、ニコをまねて身を乗り出した。


「それと、ワガママついでにもうひとつ、いい?」


 きょとんとするニコの瞳を覗きこみ、ペケは言葉を続ける。大切なのは、ここからだ。


「私、追憶の泉に行きたい。私の過去を、そこで見たい」


 追憶の泉は、魔導士界ロゴスの果てにある秘境。その水面は、覗きこんだ者の半生を映すという。どれほど危険な道のりなのかも不明だが、泉にさえ辿り着ければ、ペケの過去は明らかとなる。


 結局のところ、事態の全貌が見えていないから手の打ちようがないのだ。だったら、すべて解き明かしてしまえばいい。そうすれば、解決策を導き出せる。落とし所を模索できる。

 それに、自身の中身を知ることは、ペケの元々の目標でもあったのだ。ならば、やるべきことは見えてくる。


 目的地は、追憶の泉。必要なのは、泉の情報収集と、そこに辿り着くための魔法の鍛錬。タイムリミットは、万が一ラヴィが捜査の目を完全に騙しきった場合を想定し、三か月。それ以上は、ゲート利用の監視が解かれてしまう恐れがある。

 得られるものは、ペケの正体。そして、ペケが巻き込まれている事件の真相。


「二兎を追うのが魔女の性。……だったよね、ニコ!」


 いつかのニコの言葉を借りて、強気な笑みを浮かべてみせる。それに返事をするように、ニコも白い歯を見せる。


「そうだよ、そうこなくっちゃ! せっかく魔導士界ロゴスにいるんだよ、もしかしなくてもチャンスだよ!」


 ニコは鍵を手に取って、えいえいおー、と突き上げる。オレンジ色の〝Ⅱ〟の鍵は、差し込む日差しを反射して、一点の曇りなく煌めいた。


「溺れる魔女は海をも穿つ、ってね! 私たちの底なしの底力、思う存分見せちゃおうよ!」


 ペケは無言で頷くと、〝X〟の鍵を握りしめる。そしてそのままゆっくりと、ニコの鍵に触れ合わせた。言葉よりも、この方がいい。ペケが思いつく限り、これ以上の返事はない。


 ニコと目が合い、自然と頬が緩んだ。ベッドに並んで座ったまま、無言で窓の外を眺める。

 小さな窓の向こうでは、伝書イルカが逆さまの滝と戯れていた。イルカはこちらに気付いたのか、滝から宙へと飛び出して、上に向かってリング状の泡を吐く。伝書イルカのバブルリングは、手紙を無事に届けたサイン。役目を果たした伝書イルカは、空中を泳いで去っていった。


 どうやら、今のところは何事も順調に進んでいるようだ。安堵を言葉にする代わりに、ニコの手のひらを指でなぞる。心地のよい静寂が、二人を包み込んでいた。


「ええと、そろそろ入っていいかい? キミたちの邪魔をする気はないのだけれど、せっかく作った昼食が冷えるのも避けたいからね」


 申し訳なさそうに頭を掻きながら、シャルノアが扉を開けて入ってくる。どうやら野外探索はとうに終わり、昼食もすでに作り終えていたようだ。ニコと一緒に小声で謝り、やや早足で階段を降りてリビングへ向かう。少々ばつが悪かったが、その足取りは軽かった。


 三度の飯も魔女の糧、ニコから最初に教わったことだ。きちんと食べて、少しでも早く体を治す。追憶の泉に行くために、何度転んでも負けないために、もっともっと強くなる。

 胸の痛みも糧にする。何もかもを受け入れて、全部自分の武器にする。不格好でも構わない、手段も選んでいられない。やれることは、すべてやる。立ち止まっている暇はない。

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