四章『魔法と記憶の水底で』
第39話「異界巡りの探究者」
また、あの日の夢を見た。二つの人影、冷たい石畳、力なく座り込む自分。この光景を思い出すのは、いったい何度目なのだろうか。
いつものように、人影たちが言葉を紡いでいく。意識は霞み、耳は遠く、まるでチューニングを猫に任せたラジオのように、うまく会話を拾えない。
幾度となく繰り返されてきた、ペケの最も古い記憶。だが、いつもどおりの夢の中で、ペケの脳裏には単純な疑問が浮かんでいた。
――なぜ、思い出すのはこの日の記憶ばかりなのだろうか。
その答えに辿りつく前に、ペケの意識は再び闇へ沈んでいった。
×××
いつ目覚めたのかもわからない。しばらくの間、ただぼんやりと天井を眺めていたのは覚えている。陽光の眩しさを人ごとのように感じながら、ペケは徐々に意識を取り戻していった。
体のあらゆるところが痛む。なぜだろう、と少しだけ考えて、自分たちの身に降りかかったことを思い出す。突然の襲撃、沈んだ島、そして〝♡〟の魔法少女。
「そうだ、それで……」
起き上がろうとして、痛みで呻いた。無意識にシーツを握りしめ、そこでようやく自分がベッドに寝かされていることに気付く。
「下手に動かない方がいい。今のキミに必要なのは、何より安静と休息だよ」
小さな部屋の隅から、柔らかい声が投げかけられる。なんとか首から上を動かし、声のする方を向くと、大人びた魔導士と目が合った。色白で酷くやつれた顔立ち、藍に染まった瞳、肩より下で束ねられた藍色の長髪、〝C〟と刻まれた藍色の鍵。猫背の長身をゆったりとしたローブで包み、藍色の魔導士は近くの椅子に腰かけていた。
「……あの、ええと」
「ん? ああ、もう一度ちゃんと名乗っておくべきだね。ボクは〝C〟の魔導士、シャルノア・クルール。ただのしがない異界巡りの魔導士さ。そうだね、キミたち相手だと『新米魔女の
聞き覚えのある名前だとは思ったが、『
シャルノア・クルール。『魔法属性論』『異界変質学』を始めとする各種専門書から、異界入門書の三大ベストセラー『猫でもわかる
とにかく異界の探索と研究に全てを捧げてきた異界発展の功労者なのだと、クロスの屋敷でニコが熱く語っていたのは覚えている。
「……そうだ、ニコは」
靄のかかった思考が晴れ、同時に焦燥が押し寄せる。意識をなくしたニコを抱えて、ペケはここへ逃げてきたのだ。周囲に視線を走らせるが、ニコの姿は部屋のどこにもない。
「あれから、何が? ここは、いったい? ニコは、どこに?」
痛みを無視して体を起こし、噛みつくように問いかける。だが、乾いた喉では掠れた声を出すのがやっとで、ペケは何度も咳き込んだ。それを見て、シャルノアは困ったように頭を掻く。
「キミの気持ちはよくわかる。だけれども、少し落ち着いてくれないかい? 色々と聞きたいのは、どちらかと言えばボクの方でね」
その言葉で、ペケは我に返る。シャルノアにとってペケたちは、突然転がり込んできた素性の知れぬ魔法使いだ。確かに、まずはシャルノアの疑問に答えるのが筋というものだろう。
「そう、ですね。まず、助けていただき、ありがとうございます」
「なに、礼は不要さ。だってボクらは魔法使いじゃないか。異界を愛し、異界に愛される者同士、助け合うのは当然だろう?」
頬を緩ませたシャルノアは、数歳は若返って見える。血色も悪く痩せこけた顔と、瞳の奥からときおり覗く活力。そのアンバランスさのせいで、どうにも外見から年齢がわからない。
「まずはこれを飲むといい。蜜入りクラゲを絞ったジュースさ。口に合うといいのだけれど」
大きめの銀のコップには、ぷるぷると揺れる蜜色の液体が入っていた。ストローを刺すとジュースが激しく震えたが、それもすぐに収まった。活きのいいジュースはストローの中を駆け上がり、ペケの口へと飛び込んでいく。ゼリーのような喉越しと少し粘つく甘さが、痛んだ喉には心地よい。喉が十分潤うのに、時間はかからなかった。
ペケが落ち着きを取り戻した頃を見計らって、シャルノアはゆっくりと切り出した。
「さて、さっそく聞かせてほしいことがある。キミたちの身に起こったことを、できるだけ遡って、できるだけ細かく、できるだけ主観的に教えてくれないかい?」
「ええと……。客観的に、じゃなくてですか?」
「もちろんさ。だってボクは、他ならぬキミに問いかけているのだからね。だからキミの言葉で、キミの感じたことを、キミの心のままに答えてほしい。そうでなければ意味がないだろう?」
シャルノアは、肩をすくめておどけて見せる。大人びた出で立ちにも関わらず、その仕草はどこか無邪気さを感じさせた。
そして、ペケは一から語り始めた。ソラの森で目覚めてからここに至るまでの旅、つまりはペケの記憶すべてを、感情のままに吐き出した。そしてその間、シャルノアはずっと熱心に万年筆を走らせていた。藍色の瞳を少年のように輝かせ、やや食い気味に相槌を打ちながら、ペケの話に聞き入っていた。その好奇心に満ちた目は、深く刻まれた隈さえなければ本当に少年にしか見えなかっただろう。
シャルノアの手元に文字だらけのメモ用紙がどんどん積み重なっていくのに困惑しながら、ペケは言葉を続けていった。
「そうか、うん、なるほどね。キミ自身のことも、辿ってきた道も、ただただ興味深いとしか言いようがない。キミの言葉で聞いたからこそ、いっそう探究欲をくすぐられたよ。その魔法特性はもちろんのこと、キミの回帰ゲートについてはサンプルケースとして非常に価値があると言わざるを……ああ、すまないね、話が横道に逸れてしまった」
シャルノアは咳払いをしてごまかすと、万年筆をくるくると回しながら考え込む。
「それにしても何より信じがたいのは、ラヴィ・ペインハート、彼女の行動だよ。何かの間違いだと思いたかったのだけれども、どうやらそうもいかないらしい」
「自分で言うのも変ですけど……。信じて、もらえるんですか?」
一介の魔法使いに過ぎないペケの言い分は、ただでさえ突拍子もない上に証拠もない。初対面の魔法使いにいきなり信じてもらえるなど、期待すらしていなかった。
「ああ、もちろんだとも。それと、キミさえよければ事態が収束するまでここに住むといい。ここの安全は、他ならぬボクが保証するよ」
唐突な提案に、頭が疑問符で埋め尽くされる。何と答えればいいか、わからなかった。
「訝しむ必要なんてないさ。第一、何も見返りを求めていないわけじゃない。ボクが動くのは、好奇心と探求欲のためだけさ。ボクだって知りたいんだよ。キミという存在のことを、もっと、ずっと、深くまで。キミはただの正体不明の魔法使いなんかじゃない。バッテンバインドという
顔のやつれを感じさせぬほどに無邪気な表情を浮かべ、シャルノアは意気揚々と語る。
その熱意に気圧されて思わず納得しそうになるが、心の奥ではまだ疑念が燻っていた。なにせ、あまりにも話がうますぎる。それに、どうも引っかかることがある。
――キミをずっと待っていたよ。
シャルノアの書斎に辿り着いた時、確かに彼女はそう言っていた。その言葉が聞き間違いでないのなら、シャルノアは過去のペケと面識があるのではないだろうか。それに、ペケの回帰ゲートがここに繋がったということは、ここはペケにとって大切な場所だったのではないだろうか。ラヴィの一件で神経質になっているだけかもしれないが、警戒せずにいられなかった。
「もしかして、シャルノアさんって。……私のこと、何か知っているんですか?」
意を決して、問いかける。シャルノアは考え込むようなそぶりを見せ、頭を掻いた。
「その質問に答えるのは難しい。知っているとも言えるし、知らないとも言える。とにかく、キミの求める答えをボクが持ち合わせていないのだけは断言するよ。そもそも、この問題はキミ自身が突き止めることに意味がある。ボクはただ、そんなキミを応援するだけさ」
言葉に熱が入りすぎて少し疲れてしまったのか、シャルノアは椅子の背もたれに寄りかかる。そして少し呼吸を整えてから、節ばった手をペケへと差し伸べた。
「キミはキミの中身が知りたい。ボクもキミの中身が知りたい。つまり、ボクたちの利害は一致しているというわけさ。なら、拒む理由はないだろう? さあ、ボクと友好関係を結んではくれないかい?」
澄んだ藍色の瞳を向けられ、ペケは短く息を吐いた。これ以上問答を続けても、きっと何の意味もない。それに、シャルノアには命を救ってもらった恩がある。それより今は、早くニコの安否が知りたい。ペケは無言で頷くと、差し伸べられた手をとった。
シャルノアは満足げに何度か頷くと、猫背をさらに曲げ、ペケと目線を合わせる。
「さて、キミはボクに応えてくれた。次は、ボクがキミに応える番だ」
話が長くなってすまないね、と自嘲するように付け加え、シャルノアは言葉を続ける。
「先に、キミの置かれた状況について整理しようか。まず、ここはボクの家さ。
道理で、やけに体が重いわけだ。蜜入りクラゲのジュースを口に含んだまま、ペケは頷く。
「キミの場合、比喩抜きに全身が壊れていてね。どれだけの無茶をやればああなるのか、問いただしたいくらいだよ。だがここは幸いにも、
暴れるジュースを飲み込んで、ペケは肩の力を抜く。だが、シャルノアの表情は固かった。
「それより、問題はキミの友人だよ。彼女の場合、キミと違って肉体の損傷は少なかった。だけど代わりに、魔力の消耗が酷すぎてね。キミも無謀だが、彼女も大概だよ。どれだけ身の程知らずの魔法行使をすればあそこまでココロを酷使できるのか、呆れを通り越してむしろ興味が湧いたくらいさ。とにかく、初見ではただの魔力の枯渇症状かと思ったのだけれど、予想以上に酷かった。ここに来た段階では、キミ以上に危険な状態だったと言えるだろうね」
「……それで、今のニコの容体は?」
震える声で、問いかける。シャルノアは、首を横に振る。
「それが、どうも困ったことになっていてね。こればかりは、ボクの見立てが甘かったとしか言いようがない」
シャルノアは窓の外を眺め、首筋を掻く。ペケとは、目を合わせようとしない。
「ここから先は、ボクの口からではとてもじゃないが言いにくい。それに、言ってもとても信じてもらえるような状態ではないんだ。キミの目で直接見た方が、キミも納得できると思う」
四角い小さな部屋に、静寂が満ちる。最悪の事態が脳裏をよぎり、ペケはつばをのみ込んだ。
そのときだった。部屋の扉が勢いよく開け放たれ、耳に痛いほどの音を立てる。
「シャルノアさん、書庫の整理終わりましたっ! あと、ペケのタオルの替えもバッチリです!」
ペケは思わず息をのむ。慌ただしく飛び込んできたのは、あまりに見慣れた魔女の姿だったから。
「…………ニコ?」
ペケの手から銀のコップが滑り落ち、中のジュースが床にこぼれる。ジュースはすばやく寄り集まると滑るように床を這い、ドアの隙間から逃げて行った。
「ペケ? …………ペケ!」
ペケの意識があるのに気付いて、ニコが目を丸くする。そしてすぐに目を潤ませて、ベッドに飛び込んできた。ニコに抱きしめられた体中が痛んだが、ペケはそのまま受け入れた。
「痛いよ、ニコ」
「遅いよ、ペケ」
一拍置いて、二人で笑う。二人の様子を横目で見ながら、シャルノアはあきれ声を出す。
「ははっ、つまりはご覧のとおりさ。元気すぎて、こちらが困る。キミと同じく一週間は目を覚まさぬものと想定していたのだけれど、まさか二日で目を覚ますなんてね。さすがのボクも意表を突かれた。……おっと、そんな目をしないでおくれよ。嘘はついていないだろう?」
シャルノアが、わざとらしく肩をすくめる。つまりは、ペケはいいようにからかわれたのだ。
「うん、でも……ニコが無事でよかった」
「それはこっちの台詞だよっ。ペケったら全然起きなくて、すっごく心配したんだから!」
ニコがぐいと顔を近づけ、頬を膨らませる。いつも通りのニコを見て、体の力が抜けていく。
二人とも、あの地獄から助かった。その実感が、ようやく湧いた。
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