第38話「魔法少女にサヨナラを」

 二人は、その場に力なくへたりこんだ。元々、気力だけで動いていたのだ。そして今、心も折れた。だが、ラヴィの意図がわからない。魔法少女界アリスの海は底なしで、マナも魔力も無尽蔵に喰い尽くす。海に引きずり込まれれば、ラヴィといえども抜け出すことはできないはずだ。


「ハッ、飛べない猫を憐れむような目はよせよ。トキメキバルーン、ちゃんと見せただろ? 私は最初から、アレに乗っておさらばする算段だぜ? ここから出たけりゃ、私に従う以外ねえ」


 折れた心が踏みにじられる。二人の抵抗は、そもそも意味がなかった。ラヴィは勝利と安全が約束された舞台で、道化を演じていただけだ。虹の橋はすでに壊されていた。鏡の門はいつでも壊せる状況だった。出口など、最初からどこにもなかった。二人が自ら鍵を折らないようにラヴィはいくつも小さな希望を演出し、二人はそれにまんまと騙され続けたのだ。


 ペケの手は、気付けば〝X〟の鍵へと伸びていた。もう、二人とも鍵を折って逃げるしかない。ラヴィの思惑は不明だが、このまま捕まるよりはずっとましだ。悔しさで、指が震えた。


「逃がすわけがねえだろうが。こちとら、顔も魔法も晒しちまってるんだよ」


 大槌が振るわれ、余波だけでニコが吹き飛ばされた。異界は、空間そのものにマナが満ちている。マジカルハート・ブレイカーは空間さえも歪ませて、周囲に余波を振りまくのだ。ニコは崩れた煙突の上に落下して、そのまま動かなくなった。それを見て、ペケは鍵から手を離す。


「さあ、どうする? まさか自分だけ鍵を折って逃げたりなんてしねえよな? もう諦めて、この私に身を委ねろ。お互い楽になろうぜ?」


 ラヴィは大槌を引きずりながら、しゃがむペケへと近づいてくる。震えが、止まらなかった。


 ――なんで私が、こんな目に。


 そう言いかけて、やめた。そもそも、魔法少女界アリスへ来たのはペケ自身の意思だ。傷付くことが怖いなら、正体探しは枢機時計塔にまかせて魔女界グリムスでじっとしていればよかったのだ。


 何が『こんな不条理は望んでいない』だ。甘ったれるな。全部自分で決めたことだ。全部ペケのワガママだ。何度くじけても構わないと、自ら不条理に飛び込んでいったのだ。

 あのときの想いや覚悟を、否定していいわけがない。今のペケにできるのは、覚悟を貫くことだけだ。こんなペケに付いてきてくれたニコに、少しでも報いることだけだ。

 ならば、やるべきことは一つだった。震えは、すでに止まっていた。


「――テンエンハンス」

「あ?」


 つま先、足首、ふくらはぎ、膝、ふともも。それらを両脚分で、計十か所。十回分の強化を一度に全部使い切り、目にもとまらぬ体当たりを叩きこむ。ラヴィが呻き、大槌を手放した。ペケとラヴィはもつれ合い、傾いた地面をバウンドしながら転がっていく。


 ――ラヴィの弱点は、おおよそ見当がついている。それは、魔法の切り替えだ。


 ラヴィは基本的に胸元に鍵を刺して魔法を使うが、エンゼルアローのときは左手に、マジカルハート・ブレイカーのときは右手に鍵を刺している。故にこれら二つの魔法は、他の魔法との併用ができない。現にラヴィは、ココロマグネットとトキメキバルーンの組み合わせでしか同時に魔法を使っていない。ラヴィの複数魔法行使には、大きな制限があるのだ。


 それだけではない。鍵を別部位に刺し替えてから次の魔法が発動するまでのラグもやや大きい。演技がかった口調や仕草も、隠しきれない隙をただの余裕に見せかけるための演出なのだろう。ラヴィはあえて隙だらけに振る舞うことで、真に致命的な隙から目を逸らさせていた。


 つまりこうして取っ組み合いに持ち込めば、ラヴィは自由に鍵の位置を刺し替えられない。そして、右手に鍵を刺しておきながら大槌を手放してしまった今のラヴィは、鍵を刺し替えないかぎり一切魔法が使えない。壊れかけの体でようやく手にした、最大最後の好機だった。


 無茶な強化の反動で体中が悲鳴を上げるが、無視をする。ペケは必死に馬乗りになり、ラヴィの右手から〝♡〟の鍵を引き抜いた。そして、ためらわずに折り砕く。他の脱出方法を探すためにも、いざというときニコの分まで鍵を折るためにも、まずはラヴィを異界から追放する。


 だが、ラヴィは消えなかった。代わりにラヴィの胸の奥から光が溢れ、新たな〝♡〟の鍵が生みだされる。大きな誤算だった。〝♡〟のルビーによる蘇生は、鍵にさえも及ぶのだ。


 他者の魔法素質をまるごと奪い、ルビーとして固定するのがラヴィテイカーという魔法だ。つまり、ルビー自体は魔法で作られた完全自立型のアイテムなのだ。鍵が体のどこに刺さっていようと、たとえ体から引き抜かれて折られようと、おそらくラヴィの意識が失われていようと、その命が断たれようと、本人の魔法行使の可否とは無関係にルビーはラヴィを蘇らせる。


 戦慄が脳を駆け巡る。魔法の切り替えに隙があるのも、ラヴィがそれを隠していたのも間違いない。しかしやっとのことでそれを見破っても、いくつあるかもわからないラヴィのライフをひとつ削るだけに終わった。結局は、ラヴィの手のひらの上で踊らされていただけだ。


「でも、まだ!」


 ならば何度でも鍵を折ろうと、ペケは再び手を伸ばす。しかし、ラヴィはそれを許さない。

 新たな鍵がラヴィの胸元にねじ込まれ、密着した二人の間に岩より大きなトキメキバルーンが召喚される。弾力のある風船に柔らかく押し出され、ペケは宙へと跳ね上げられた。

 空中で必死にもがきながら、視線を走らせる。地面からは、魔女三人分ほど浮いている。そしてペケの周りには、大小さまざまなサイズのトキメキバルーンが漂っていた。ラヴィは弾む風船を足場にして、周囲を立体的に跳ね回る。その姿を、目で追うことはできなかった。


 振り下ろされたラヴィのかかとが、ペケの腹部に突き刺さる。かかとと腹部にココロマグネットの魔法陣が展開され、その反発でペケは弾き落とされる。鈍い衝撃が、胴を貫いた。地面に背中から叩きつけられたペケは、呼吸もできずにのた打ち回る。


「おいおい、呆けてんじゃねえぞ。てめえに付けたマグネット、まだ生きてるぜ?」


 宙に漂う〝♡〟の風船たちが、いっせいにペケへと迫ってくる。ココロマグネットによる引力で、トキメキバルーンが引き寄せられているのだ。バルーンは連鎖的に破裂して、衝撃波の嵐を巻き起こす。何の抵抗もできずに、ペケはまたしても地面を転がった。


「……なら、せめて、ニコ、だけでも」


 もう、脚は動かなかった。視線の先に転がるニコへと、ペケはなりふり構わず這っていく。

 背後で大気が震えた。振り返る余力もないが、きっとラヴィがエンゼルアローを構えたのだろう。杖を握りしめるが、もうペケプレスも出なかった。波の音は、すぐ近くまで迫っていた。


 そして、それは突然起こった。前触れもなく、地面が激しく傾いたのだ。狙いが逸れた閃光の矢が、ペケの脇を掠めていく。ラヴィの大きな舌打ちが聞こえた。

 大地は急斜面となり、下にはすでに海面が見える。散らばる瓦礫が海へとなだれ落ちる中、ペケはニコの姿を探す。ニコの体は、海のすぐ手前にあった。幸運にも、折れた煙突の根元に支えられ、海には落ちていない。ペケは地面を転がり落ちて、ニコの元へと飛び込んだ。


「バカな、魔法少女界アリスが奴に味方しやがった! 魔法少女の頂点たる、この私には目もくれず!」


 ラヴィはエンゼルアローを解除し、トキメキバルーンを足場にして浮いていた。ペケはニコを抱きかかえ、ラヴィを睨む。そのとき、心が小さく脈打って、〝X〟の鍵から光が迸った。


 ――目を覚ませ。いるべき世界は、ここじゃない。


 これで何度目になるかも分からない、心の声が吼え叫ぶ。それに相槌を打つように、白銀の光が何度もまたたく。ペケは導かれるように、輝く鍵を手に取った。そして、宙で三度回した。


 それはまさしく、回帰ゲートを開くための手順だった。

 鍵先から白銀の光が溢れだし、ペケの前に円形のゲートを作り上げる。弱りきったはずの体に、熱と希望が微かに灯る。ペケは心に従って、回帰ゲートに手を伸ばす。


「何が起こった? 何を起こした? いったい何をしでかした?」


 あり得るはずのない事態に、ラヴィの余裕が剥ぎ取られる。ペケは、第三魔法を覚えたばかりの駆け出しだ。当然、回帰ゲートが発現するはずもない。だが現に、光の門は開いている。


 ラヴィがトキメキバルーンを蹴り飛ばし、その弾力で跳び出した。歯を剥き出しにして叫びながら、二人に向かって落ちてくる。猫も逃げ出す形相で、ラヴィは必死に手を突き出す。


 上からは絶対的な脅威、下には底なしの海、目の前には得体の知れないゲート。もう、迷う余地はなかった。ニコの胴に左手を回し、右手の指先でゲートに触れる。光の門は渦巻いて、二人の体を吸いこんだ。そして、視界と思考が白に染まった。


「そういうことかよ、クソが」


 最後に聞こえたのは、搾り出すような悲痛な声だった。こうして、未知なるゲートにいざなわれ、二人は魔法少女界アリスに別れを告げた。


     ×××


 とある異界の片隅に、小さな光の門が開いた。回帰ゲートから放り出されたペケとニコは、折り重なるように石造りの床に倒れた。役目を終えた回帰ゲートは光の粒子となって溶け、辺りが静寂に包まれる。首から提げた〝X〟の鍵は、なおも脈打つように輝いていた。


「おや、来客とは珍しいね。どこから迷い込んできたんだい?」


 薄暗い部屋の向こうから、穏やかな声が投げかけられた。ペケは必死に上体を起こし、声のする方を見る。書斎のような部屋の壁際に、背の高い女性が立っていた。おそらく魔導士なのだろう、ゆったりとしたローブを纏った女性は、二人を興味深く見つめている。


「……どなたか知りませんが、助けて、ください。魔法少女に、追われてるんです。島が沈んだんです。ニコが……目を、覚まさないんです」


 腰まで伸びる藍色の髪を揺らしながら、魔導士はゆっくりと近づいてくる。


「まずは落ち着いてほしい。ここは魔導士もめったに寄りつかぬ、魔導士界ロゴスの最果てさ。そして、ボクの隠れ家でもある。ここの安全は、他ならぬボクが保証するよ」


 どうやら二人は、無事に魔法少女界アリスを離れることができたらしい。しかも、ちょうど助けを呼べる場所に回帰ゲートは繋がったようだ。


「そうだ、まず、ニコを――」

「その心配は無用だよ。見たところ、そこの彼女は魔力の枯渇がひどいだけのようだね。確かに外傷も酷いが、魔法使いの治癒力を甘く見ない方がいい。幸いにも、ここは非常にマナが濃い。放っておいてもいずれ治るさ」


 緊張の糸が切れ、そのままばたりとニコの上に倒れこむ。もう、指一本動かなかった。


「それより、問題はキミだよ。自分がどれだけ重症だかわかっているのかい? その脚、動かないんだろう? その体、すでに痛みすら感じないんだろう?」


 藍色の瞳が、じっとペケを覗きこむ。


「だが、適切な処置さえ施せば後遺症は残らないさ。キミがボクの元に来てくれてよかったよ」

「……ありがとう、ございます。あの、あなたは、いったい?」

「ボクはシャルノア。〝C〟の魔導士、シャルノア・クルール。キミをずっと待っていたよ」


 壁一面を埋め尽くす本棚を背景にして、藍色の魔導士は微笑んだ。その名を以前どこで聞いたか思い出すより先に、ペケは眠るように意識を失った。

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