三章『魔法少女にサヨナラを』

第21話「アリス・イズ・ワンダーランド」

 それは自由落下にも似た浮遊感だった。鏡の門は、魔法少女界アリスへと繋がるゲート。巨大な鏡面に触れたペケとニコの体は、光とともにその向こうへ吸い込まれていく。

 ゲートとは、世界と世界を繋ぐ門。元いた世界から自分の存在を引き剥がし、新たな世界へ飛び込むためのもの。この瞬間、ペケという存在は世界のしがらみから解き放たれていた。


 だが、この感覚はペケにとって初めてのものではない。

 そうだ、以前にもペケはここを通ったことがある。

 世界の狭間の無重力が、ペケの記憶を呼び起こしていった。


 そこは確か、薄暗い部屋の中だった。〝X〟の少女は、石造りの冷たい床に座りこんでいた。目の前には、少女を覗きこむ二つの人影。どうやら少女に話しかけているようだが、その内容はところどころしか聞き取れない。


「なあ、おい! 無事か? しっかりしろよ、死ぬんじゃねえぞ!」

 一人の魔法使いが、少女の肩を荒々しく揺さぶった。


「やめたほうがいい。今の彼女に必要なのは、何より安静と休息だよ」

 なだめるように、もう一人が割り込んだ。


 少女の意識は朦朧としていた。目もまともに開かず、体の感覚もどこか遠い。ひどい耳鳴りの合間に、断片的な単語だけが少女の耳に飛び込んでいく。


 ――魔法、鍵、計画、クロス、ペケ。

 ――魔女、魔導士、魔法少女、クロス、エクステンド。

 飛び交う言葉の意味は、少女にはわからない。


「おいてめえ、ふざけたこと言ってんじゃねえ! ……ったく、どういうことだよ、こりゃ」


 呆れたような、怒りのやり場を失った様な口調で、一人が吐き捨てる。その人影が苛立たしげにドアを蹴り飛ばし、部屋の外へと出ていくのがぼんやりと見えた。

 そのとき、少女の胸元で鍵が輝いた。溢れ出した光は渦巻き、少女の体を包み込む。残った一人が動揺し、少女へと必死に手を伸ばす。だが、その手は届かない。

 ついに体の全てが光に呑まれ、部屋も人影も、何も見えなくなった。視界と意識が白銀に染まり、ぷつんと途切れた。


「……ん」


 そして魔女の世界の片隅で、ソラの森の最奥で、〝X〟の少女は目を覚ました。


     ×××


 ペケが記憶を覗きこんでいたのは、きっと数秒にも満たない時間だったのだろう。

 地に両足が着く感触で、ペケは我に返った。視界を覆っていた光は晴れ、目の前には煌びやかな大広間が広がっている。隣では、ニコが何度も目を瞬かせていた。


 振り向けば、二人の背後やその周囲には、いくつもの水晶の門がそびえ立っていた。水晶の門は、魔女界グリムスに繋がるゲート。二人は魔女界グリムスを旅立って、このゲートから飛び出てきたのだ。


「夢みたい! 夢じゃないよね? 私たち、ホントに魔法少女界アリスに来たんだよ!」

「……ニコ、私の頬をつねらないでよ」


 頬を左右に引っ張られながら、ペケは呆れたように呟いた。こういうときのニコは、好きにさせておくのが一番だ。ペケは両頬をつねられたまま、視線を周囲に走らせる。


 霞むほどに高い天井、くるくる回るシャンデリア、壁一面のステンドグラス。広間を囲む幾何学模様のガラス細工と鏡細工は、見る角度によってその模様を変え、万華鏡を連想させる。

 その荘厳さと優美さは、枢機時計塔に勝るとも劣らない。ここが魔法少女界アリスの中枢機関だということは、何も知らないペケにも感じ取れた。

 ふと、広間の中央にいる小柄な魔法少女と目が合った。魔法少女はペケたちに気付いたのか、二人の元に駆け寄ってくる。フリルとリボンをあしらった紫のドレスが、ふわりと揺れた。


「ようこそお越しくださいましたー。ここは猫もまどろむ魔法少女きごうの世界。わたくし、案内役を務めさせていただきます〝~〟の魔法少女、チルダ・ウェイブと申しまして」


 チルダと名乗る魔法少女は、間延びした声でそう言った。

 そしてペケは、頬をつままれたまま会釈した。



 チルダに渡されたパンフレットによると、どうやらここは魔法少女界アリスの中枢機関・枢機風車城という場所らしい。手書きのパンフレットには、城近辺の地図や見所などが丁寧にまとめられ、その表紙には城の外観が写実的に描かれている。枢機風車城は宮殿にも似たつくりの城で、白塗りの壁と青のとんがり屋根、そして至るところにはめ込まれたステンドグラスが特徴だ。また、城の上部には巨大な風車が取り付けられ、その姿はまさに風車城と呼ぶにふさわしい。

 魔法少女界アリス中央街セントラルに位置するこの城は、魔法少女の世界の象徴ともいえる建造物だった。


「しかもですねー。風車の羽は、どれもが全面ステンドグラスとなっていまして」

「ペケ、聞いた? 見に行こうよ、見なきゃ損だよ!」

「だから、いま向かってる最中だってば。……ほら、もう着くみたいだよ」


 いくつかの入界手続きを終えたペケとニコは、城の最上部へと案内されていた。ここは、風車の軸のちょうど真上に位置する展望台。色鮮やかなガラスの羽を間近で見ながら、同時に魔法少女界アリスの風景を一望できる、枢機風車城の人気観光スポットだ。


「左手に見えますのは、かの有名なヒノデ火山。魔法少女界アリスの空に太陽を毎朝打ち上げる、魔法少女界アリスきっての名所でして」


 今日は火山が勝手を間違えたのか、三つの太陽が空をぐるぐる回っていた。道理で、少し暑いわけだ。ペケは空を見上げて、その眩しさに目を細める。

 魔法少女の世界でも、空はやっぱりヘンテコだ。空に散らばる雲たちは、ときおり地表に落ちてきて、ポンと弾んで空へと戻る。


「ねえねえ、あの雲かわいくない?」


 ニコの指差す方を眺める。街の外れの平原で、小ぶりな綿雲が元気よく跳ねまわっていた。


「まあ、わからなくも……」


 そのとき、目に映る景色に強烈な違和感を覚え、ペケは言葉を詰まらせた。平原の向こうには断崖絶壁が横たわり、その下には海がある。ここは小さな島のようで、近くにいくつか別の島も見える。

 だが、どうにも海面が異様に低いのだ。ペケはもう一度目を凝らして、直後に息をのんだ。


「……あれ? この島もあの島も、浮いてる?」

「ええ、もちろんですー。これが魔法少女界アリスの醍醐味でして」


 ひとつの巨大な大陸からなる魔女界グリムスとは違って、魔法少女界アリスは無数の島からなる世界だ。島の大きさはバラバラだが、島同士の距離はどれもそこまで遠くない。そして全ての島が、少しだけ宙に浮いている。島底が海面に触れない程度に浮遊し、海に巨大な影を落としている。それが当然であるかのように、何の理屈もなく浮かんでいるのだ。


 世界一面に散りばめられた浮遊島と、それらを繋ぐ虹の橋のネットワーク。そして島々の下に広がる底なしの海。それが魔法少女界アリスという世界だった。


「わっ、ホントだ! ペケ、見て見て! ホントに海から離れてる! 本で読んだ通りだよ! 島が飛んでる、浮いてるよ!」


 ニコは窓から身を乗り出して、鼻息を荒くする。そしてチルダの解説がひと通り終わると、ニコは得意げに胸を張った。


「へへっ。ダメだよ、ペケもちゃんと予習しとかないと! 魔女もおだてりゃ落ちて死ぬ、平常心が大事だよっ」

「ニコの方が、よっぽど興奮してたくせに」

「あれ、バレちゃった?」


 なぜだか嬉しそうに笑うニコを見て、ペケは頬を膨らませる。


「……なんでそんなに上機嫌なのさ」

「そりゃもちろん、ペケと一緒にいるからだよ」


 こういうとき、ニコはあまりにまっすぐだ。ペケはわざと大きく息を吐くと、再び景色に目をやった。好意を受け取ることにも少しは慣れてきたものの、やはりどうにもこそばゆい。


 ここは雲と鏡と魔法少女きごうの世界、魔法少女界アリス。その鮮やかすぎる風景は、端々に原色が混じるほどで、絵画や塗り絵を彷彿とさせる。ガラス細工の風車の羽は風を受け、二人の視界を横切っていく。

 案内役のチルダ・ウェイブに急かされるまでの少しの間、二人は肩を並べて窓の向こうの極彩色を眺めていた。

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