第XX話「いま、ここから始めよう」

 待合室の扉を開けると、ニコが勢いよく飛び出してきた。どうやら結果が気になって、いてもたってもいられなかったようだ。ニコをなだめながら、ペケは手短に要点を説明していく。


「ねえ、これからどうするつもりなの?」


 調査結果が出るまでの間、ペケには一切の行動制限が設けられなかった。どうやら窓口の魔女にしてモモカの姉、チサトがうまいこと手回しをしてくれたらしい。


「うん、そのことなんだけどさ」


 こんなときでも、ニコは当然のように隣にいてくれる。例えどんなペケであっても、ニコはきっと受け入れてくれるのだろう。でも、だからこそ、歩き出さなくてはいけない。そのための勇気は、もう十分すぎるほどに貰ってきたのだから。


「ニコ、今までありがと。私、魔法少女界アリスに行くよ」


 その言葉に、ニコが目を丸くする。別れの決意は、はっきりと伝わっていた。


「安心して。なにも、前みたいに自暴自棄になったわけじゃないから。ただ、最近ずっと考えていたんだ。私は、何がしたいのかって」


 ニコは、どんなときでも夢に向かってまっすぐだった。モモカは、大切な過去があるからこそ前を向いて歩き始めた。だったらペケはどうだろうか。ペケには、何ができるのか。


「魔女の世界で目覚めて、ニコに拾われて、この世界のヘンテコをいろいろ見てまわって。私、すごく楽しかったんだ。ニコといて、すごく楽しかったんだ」


 ニコの瞳をしっかりと見つめ返して、ペケは言葉を紡いでいく。


「きっと、それが答えだったんだ。記憶を失う前の私のことはわからないけど、今の私はこんなにも幸せだから。……そう、気付いちゃったんだ。『過去の私』も『今の私』も、今はもう同じくらいに大切だって」


 ニコと過ごした日々を、否定などできやしない。過去のペケにだろうと、否定させやしない。


「過去の私が見つからなくても、今の私はここにいる。だから私は、今のことも大切にしたい」


 記憶が戻った時に、自分が誰か分かった時に、今このときを笑って思い出にできるように。今の時間を、無駄にしないために。


「だから私は、前に進むよ」


 ペケの身元は、枢機時計塔も調べてくれている。だからペケは、ペケにできる努力をする。


「冒険するんだ。いろんな世界のヘンテコに、もっともっと触れてみる。魔法を磨いて、私のことをもっと知る。異界を巡って、楽しみながら記憶探しをしていきたいんだ」


 ――ねえ、ペケ、考えたことある? 魔女界グリムスにも他の異界にも、見たこともない不思議なものが、まだまだいっぱいあるんだよ。

 ――どうせわからないなら、今を楽しまなきゃもったいないよ!

 ――テンリの道も、百歩から。やれることからやるまでです!


 ニコの言葉が、モモカの生き様が、ペケの想いに交差する。いくつもの想いを、心に宿る〝X〟が次第に熱を帯びていく。

 魔女界グリムスの太陽は気まぐれだ。明日がどうなるかなんて、魔女にも猫にもわからない。だからこそ、今日を精一杯生きていく。それがペケの決意だった。


「それで、まずは魔法少女界アリスに行こうかと思って。ほら、私ってたぶん魔法少女だし」


 困ったように笑いながら、ニコから貰った魔女帽を深く被りなおす。

 もう、迷うことをためらわない。何度挫けても構わない。弱さを全部受け入れて、何度も何度も間違って、迷って悩んで揺れながら、それでも前を向いてやる。


「でもこんな、当てもなければ果てもない旅に、さすがにニコを巻きこめないや。だから、ここでお別れ」


 たとえ別の世界に行っても、この絆が壊れるわけではない。心配事も厄介ごともすべて終わらせたら、ニコの元に戻ってくる。それがニコとの約束だ。


「私の中身を見つけたら、きっとまた戻ってくるから。そのときまで、少しの間さよならだね」


 寂しさと胸の高鳴りが入り混じったまま、ペケはニコに微笑みかけた。だがニコは、もの言いたげにじっとペケを見つめている。


「……え? ニコ?」

「ペケのしたいこと、よくわかったよ。私だって、応援したい。だけど、一つだけ言わせて」


 ニコは少し考え込む仕草をした後、たしなめるように口を開いた。


「ペケ、私に気をつかいすぎ」

「へっ?」


 ニコは拗ねたように頬を膨らませ、上目づかいでペケを見つめる。


「だってペケったらいつもそうやって、私に迷惑をかけたくないって、そればっかりなんだもん。最近、やっと少なくなってきたと思ったのに」

「ニコ、ええと、私そんなつもりじゃ……」


 予想外のニコの言葉に、ペケは思わず慌てふためく。


「違うよ、そうじゃないんだよ。迷惑だなんて、思ったことないんだよ。それどころか、私のほうこそ感謝しかないんだよ」

「……ニコ」


 今まで、ペケは何度も聞きそびれていた。一体何が、ニコにここまで言わせるのか。ニコにとってのペケとは、何なのか。


「――だって」


 その悲しげな笑顔が、いつかのあの日と重なった。


「私も一人だったから」


 あの日と同じ台詞から、ニコは静かに語り始めた。



 ニコ・パラドールはごく普通の家庭で生まれ育った。

 持ち前の明るさと面倒見の良さで、ニコはいつも皆の人気者だった。


 そんなニコが魔女の素質に目覚めたのは、九歳のとき。何の変哲もない日曜日の夜、胸の奥から光が溢れ出し、気付いた時には〝Ⅱ〟の鍵がその手に握られていた。

 その鍵が魔法使いの証だということを、今や知らない者はいない。両親も友人も、皆が祝福してくれた。自分が魔女だということが、ニコにはとにかく誇らしかった。


 だって私は魔女だから。いつしかそれが、幼きニコの自信の源になっていた。


 しかし異界渡航支援制度には、当然ながら年齢の下限が設けられている。当時のニコが異界に行くには、あと四年は待たなくてはいけなかった。

 それなら、行ける歳になったらすぐにでも魔女界グリムスに行く。魔女の世界で魔法を楽しむ。いや、それだけで終わらせたくない。魔女の世界も、他の世界も、異界全部を巡る大冒険をする。そして、凄い魔女になってやる。そんな夢を思い描いて、ニコは人間界での日々を過ごしていた。


 そして十三歳の誕生日、ニコは魔女界グリムスへと足を踏み入れた。


 確かにそこは魔法の世界だった。しかし、ニコが最初に感じたのは孤独だった。

 たった一人で見知らぬ世界に来て、不安だった。怖かった。

 今までの根拠の無い自信は、臆病の裏返しなのだと気付いてしまった。いつも皆の中心に居たのは、誰よりも寂しがり屋だからなのだと気付いてしまった。望んでいたはずの世界で、孤独の辛さを初めて知った。元の世界に置いてきたものの価値を、魔女界グリムスに来てようやく知った。


「モモカも言ってたでしょ、すぐに人間界に帰っちゃう魔女も多いって。私も、同じなんだよ。ただひとつ違うのは、私はちょっと意地っ張りだったってこと」


 両親や友人の期待を背負って渡航した手前、すぐに戻れるはずもない。

 だって私は魔女だから。その想いは、いつしかニコを縛るものになっていた。


 それから半年が経ち、ニコは魔女界グリムスでの暮らしに慣れていた。この世界は優しくて、いつの間にか交友関係も広がった。それでも、胸の寂しさは埋められなかった。そして臆病さが足枷となり、思い描いていた夢に対してもいつしか消極的になっていた。気付けば、何のために異界に来たのかもわからなくなっていた。


 そんなとき、ニコはペケに出会ったのだ。


 誰かの役に立てることが、どうしようもなく嬉しかった。いいところを見せようと頑張ることが、なぜだか楽しかった。誰かのためになら、臆病さを乗り越えられると知った。


 そして何より一人の辛さを知った今、ペケを放っておくことなどできなかった。

 それが、ニコ・パラドールという魔女だった。


「こんなこと言ったら怒られちゃうかもしれないけどね、こうしてペケが来てくれて、ホントのホントに嬉しかったの。私のほうこそ、ずっとペケに支えられてきたんだよ。ペケがいて、ようやく〝Ⅱ〟になれたんだよ。目を背けていた夢に、もう一度向き合えたんだよ。だからね、迷惑だったことなんて、ただの一度もないんだよ」


 人も魔女も、一人では生きていけない。それはかつて、ニコが放った言葉だった。その真意を、ペケは今になってようやく理解した。ニコのことを気遣うつもりが、ペケは見当違いの自己満足をしていたのだ。


「ペケ、ごめんね。私って実はぜんぜん強くないんだよ。全部ただの強がりなんだよ。ワガママで自分勝手な、ただのお調子者なんだよ」


 語り終えたニコの目には、涙が浮かんでいた。その震える肩に両手を乗せて、ペケはまっすぐニコを見つめる。


「そんなこと、ない。例え強がりだとしても、そんなニコの強がりに、私は元気を貰ってきたんだ。だからそれは、ニコの立派な強さだよ。ニコの強さに、私は救われたんだ」


 本心を、包み隠さず曝け出す。それがどれほど難しいことか、知らないペケではない。今のニコの姿こそ、ペケには輝いて見えていた。


「そっか、うん、そうだよね、ありがとね。……恥ずかしいな。隠したかったこと、ぜんぶ言っちゃった」


 ニコは自分の魔女帽のつばを引っ張り、必死で顔を隠す。そしてその隙間から、ちらりとペケの表情を窺った。


「だから、あと一回だけ強がらせてよ」

「うん、いいよ。何度でも」


 ニコは涙をぬぐうと、何度か大きく深呼吸をした。そしていつもと変わらぬ笑顔で、ぐいと身を乗り出した。


「ねえ、ペケ。異界巡りの旅に、私も連れて行ってくれない?」

「……ニコ!」


 自分でも驚くほどに、その声は喜びに満ちてしまっていた。


「そもそもペケが遠慮することじゃないんだよ。だって、私が付いていきたいだけだもん。……それでも、ダメ?」


 ここまで言われてしまっては、拒む理由はどこにもなかった。ペケは満面の笑みで頷くと、ニコの手をしっかりと握りしめる。


「うん、わかった。一緒に行こう、ニコ」

「うん、これからもよろしくね、ペケ」


 そのまますぐに待合室を出て、二人は三号塔の二階へと足を踏み入れる。そこは魔法少女界アリスへと繋がるゲート、鏡の門がある場所だ。

 元々、照合結果によっては魔法少女界アリスへ旅立つことも視野に入れていたのだ。最低限の身支度は、すでにできている。簡単な手続きを済ませると、すぐに渡航の順番はやってきた。


 二人は笑顔で視線を交わすと、それぞれ鍵を手にとった。そのまま無言で、鍵の先端同士をちょこんと触れ合わせる。

 魔法の鍵は、ココロの結晶。それを触れ合わせる行為の意味は、いまさら語るまでもないだろう。

 くすぐったそうに笑うニコに、ペケはゆっくりと問いかける。


「準備は、いい?」

「うん、もちろんだよ!」


 手を繋いだ二人は、鏡の門の前に立つ。この先に広がっているのは、新たな魔法の世界。この先に待っているのは、果てなき魔法の旅。それでも、ニコとならばどんな困難でも乗り越えられる気がした。


 二人は同時に踏み出すと、そのままゲートを通り抜ける。意識までもが光に包まれ、浮遊感が体を満たしていく。二人の体は鏡の門に吸い込まれ、ついに魔法少女界アリスへと旅立っていった。


 こうして、果てなき魔法の大冒険が始まった。

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