一章『記憶探しと駆け出し魔女と』

第2話「そして少女はペケになった」

「ねえ、ペケ。何か思い出せた?」

「ううん、まだ、全然」


 ペケと呼ばれた黒髪の少女は、困ったように微笑んだ。少女はベッドに座ったまま、窓の外の景色を眺める。遠くに見える『ソラの森』は、夕焼け色に染まっていた。

 この世界の太陽は、どうやら方向音痴らしい。空でフラフラ彷徨っては、いつも勝手な方角に沈む。道理で、木々も捩れるわけだ。


「ありがと、ニコさん。こんなに、親切にしてもらっちゃって」

「ニコ、でいいよ。感謝されるほどでもないし。だって、放っておけるわけないでしょ?」


 二日前、ソラの森で倒れた少女を偶然見つけ、そのまま家まで連れ帰ったのがこのニコという魔女だった。そしてニコの看病のおかげで、少女はようやく起き上がれるまで回復していた。


「体は、どう? 大丈夫?」

「うん、平気。もう、迷惑はかけないから」


 はぎれ布を縫い合わせたベッドに、簡素な木の椅子、テーブルに置かれた切れかけのランタン。大樹をくり抜いて作られたこの家は、二人で住むにはやや狭い。


 これ以上迷惑をかける訳にはいかないと、少女はよろめきながらも立ち上がる。テーブルに手をつこうとしたが、まだ距離感さえつかめずに、その手は空を切る。


「だめ、ペケはまだ座ってて」


 ニコは少女を座らせると、自分もその隣に座る。ニコは十代前半ほどに見え、背格好も記憶喪失の少女と大差ない。


「こんな世界だもん、困ったときはお互い様だよ。だから気にしないで。ね、ペケ」


 ニコの笑顔に、少女は素直に頷いた。しかし、『ペケ』と呼ばれたときの困惑に気付いたのか、ニコは少女の瞳を覗きこむ。真ん中分けにしたセミロングの金髪と、猫のようなつり目がすぐ近くに迫り、少女は思わずたじろいだ。


「名前がないと、呼ぶにも困るでしょ? 他の呼び名もないんだし」

「……でも」


 どうやら意識を失う直前、ニコの前で少女が呟いたのが『ペケ』と『エクステンド』という単語なのだという。そのため、ニコは勝手に少女のことを『ペケ』と呼んでいるのだが、そのどちらの単語についても少女に心当たりはなかった。


「まあいいや、とりあえず晩ご飯作ってくるね! 青葉コウモリのスープと、噛み付きリンゴのサラダでいい?」


 青葉コウモリと噛み付きリンゴ。どちらも、ソラの森で少女が見たものだ。あの、植物か動物かも分からないモノが食用だと思えず、少女は言葉を詰まらせた。


 返事も聞かずに、ニコは鼻歌交じりで調理場へ向かっていく。少女といる間、ニコはずっと上機嫌だ。笑顔の理由は分からないが、このままニコの好意に甘えるのも申し訳なく思えてしまい、胸の奥が鈍く痛む。


 少女の口から、自然とため息が漏れた。そのときちょうど、噛み付きリンゴの唸り声とニコの悲鳴が響き渡り、余韻はすぐにかき消された。


「さあ、たーんと召し上がれ!」


 満面の笑みを浮かべ、ニコが夕食を運んできた。腕の痛々しい噛み痕が、調理場での激闘を物語っていた。


「三度の飯も魔女の糧、ちゃんと食べなきゃ元気出ないよ?」


 ここまでしてもらって、食べないわけにはいかない。少女は、まずはサラダを恐る恐る口にする。数種の野草に噛み付きリンゴのスライスをトッピングした、一見何の変哲もないサラダだ。だが軽く咀嚼した途端、リンゴのスライスがわずかに暴れ、少女は思わずむせそうになる。


「あははっ! ペケったら驚きすぎ! でも美味しいでしょ? こんな新鮮なリンゴ、なかなか見ないもん!」


 噛み付きリンゴは厳しい共食いを生き延びることで、果肉が引き締まる。軟骨にも似た噛みごたえと、甘みの中に光るスパイシーさ。それが野草の雑味を中和し、あっさりとした味わいに仕上がっている。


「どう? 口に合わなかった?」

「……ううん、嫌いじゃない」

「そっか。よかった!」


 続いて、青葉コウモリのスープに手を伸ばす。青葉コウモリは、木の葉として枝から生え、その後コウモリとして巣立っていく不思議な生き物だ。肉厚で少し渋みのある翼は、塩味の効いた濃厚なスープとよく絡み、自然と食が進む。


「よかった、喜んでくれたみたいで。ペケったら、ずっと少ししか食べてなかったもん」


 ニコは自分の食事もそっちのけで、微笑ましそうに少女を眺めていた。だが、少女はその好意に報いる術を持たない。

 そんな自分がどうしようもなく情けなく、これ以上迷惑をかけないためにもなんとかニコを突き放せないかと、少女は考え込んでしまう。


「……だから、ペケじゃないです。ニコさん」


 感謝とは裏腹に、棘のある言葉が口をつく。そんな自分が嫌になり、少女は目を伏せた。


「ダメなの? 似合ってると思うけどな、ペケって名前」


 そもそも仮の名前で呼ばれること自体、少女にとって嬉しいものではなかった。これは事故による一時的な記憶喪失で、記憶はすぐに戻るに違いない。だから仮の名前も必要ない。少女は、そう思いたかった。

 少女が顔全体で不満を訴えると、ニコは考え込むそぶりを見せる。


「じゃあ、これからなんて呼ぼっか。ペケは何か希望ある?」


 それでも、ニコはいつもの調子で微笑んだ。その明るさが、少女にとっては眩しすぎた。


「ううん。でも、『ペケ』はちょっと……ね。なんだか、よくない意味の響きみたいだし」

「えー、そんなことないよ! なんか応援したくなる響きじゃない? 『何度転んでも負けないぞ』って感じで!」


 ニコは大きくガッツポーズをして、少女にウインクする。ニコの言動はたびたび直感的すぎて、かえって反論が難しい。


「でも、それって本当に私の名前なのかな。もしかしたら、全然違う話をしていたのかも」


 『ペケ』と『エクステンド』。現状では唯一の記憶だが、何を指す言葉なのかもわからない。


「じゃあ、改めて私が命名してあげる。今のペケは、ペケ・エクステンド。自分が誰なのか分かったら、そのとき正しく名乗ればいいんじゃない?」


 言いたいことは山ほどあったが、得意げに鼻を鳴らすニコを見て、少女は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。不本意ではあったが、恩人の心遣いを無碍にするのも躊躇われたのだ。


 こうして、少女はペケになった。

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