異界巡りのさがしもの

朝乃日和

【魔女×魔導士×魔法少女の冒険譚】

プロローグ

第1話「魔女の世界の片隅で」


 魔女の世界の片隅に、小さな光の門が開いた。

 ゲートから無造作に放り出されたのは、一人の少女。身の丈ほどの杖を抱き、ボロ布のマントを纏った少女に、意識はない。華奢な体はそのまま地面に転がり落ち、力なく数度跳ねた。

 役目を終えたゲートは光の粒子となって溶け、少女だけが森の静寂に取り残される。倒れた少女の胸元では、首から提げた白銀の鍵が、脈打つように輝いていた。


 そして、魔女の世界が今日も賑やかに動き出す。

 魔女界グリムスの太陽は気まぐれだ。早朝なのに勝手に空を駆けあがり、木々の隙間から少女の姿を覗き込む。

 魔女界グリムスの森は噂好きだ。葉擦れの音は、木々の囁き。来訪者を珍しがって、森のあちこちで木の葉がざわざわ揺れ始める。

 魔女界グリムスのリンゴは獰猛だ。枝に実った真っ赤な果実は裂けた口を大きく広げ、地面に転がる少女に向かって吠え続ける。


 魔女の世界のあらゆるモノが、思い思いのやり方でひとりの少女を歓迎していた。

 だが、それでも少女は目を覚まさない。何も知らずに、ただ静かに眠り続ける。



   ×××



 気付いた時にはそこにいた。土の感触を頬に感じながら、少女は意識を取り戻した。いつから倒れていたのだろうか。手足はすっかり冷え切っており、ろくに力も入らない。


「……ん」


 乱れた黒髪を弄りながら、ぼんやりと辺りを見回す。霞む視界を埋め尽くす緑と、わずかな木漏れ日。どうやらここは森の奥深くのようで、近くに人の気配もない。

 だが、なぜ自分は森にいるのだろうか。なんとか記憶を辿ろうとする。


「……え? あれ?」


 驚愕が、口から漏れる。少女の記憶は、空っぽだった。

 どうしてここにいるのかわからない。それどころか、自分が誰なのかさえわからない。自分の名前も思い出も、元から何もなかったように、きれいさっぱり抜け落ちていた。


「なんでさ。どうしちゃったのさ、私」


 そのとき、戸惑う少女を笑うかのように、周囲の木々が一斉にざわめいた。風に揺られた木の葉たちは、次々とコウモリになって枝から飛び立っていく。その近くでは、たわわに実ったリンゴ同士が共食いを始めていた。そして一匹のコウモリが運悪くリンゴに噛みつかれ、枯れ葉のように萎びていった。


「なに、これ」


 その光景に、思わず息をのむ。いったいここはどこなのか。自分は何に巻き込まれているのか。何もかもが理解できず、冷たい汗がにじみ出る。

 何でもいいから手がかりが欲しい。すがるように服をまさぐり、持ち物を確認する。しかしポケットの中は空っぽで、身を守る物どころか、水や食糧も一切ない。近くには木製の杖が転がっていたが、他に荷物もなさそうだ。


「あとは、これ、鍵? ……でも、なんか、きれい」


 少女は、首から提げていた白銀の鍵を手に取る。鍵は手に収まるほどの大きさで、丸い持ち手の部分には大きく〝X〟と刻印されている。また〝X〟の周囲にも細かな彫刻が施され、上端に開いた穴にはペンダントのように鎖が通されていた。

 そして不思議なことに、白銀の鍵はその全体が淡い光に包まれていた。光は今にも消えそうだったが、その輝きを見ているだけでなぜだか心が落ち着いた。少女は鍵を握りしめ、呼吸を整える。


「……ん、よし」


 結局、わかったことはひとつもない。だが、いつまでもこうして座り込んでいるわけにもいかない。まずはとにかく日が暮れるまでに森を抜けるか、せめて水場を見つける必要がある。

 少女は身の丈ほどの杖を拾うと、よろめきながらも立ち上がる。そしてボロ布のマントを翻すと、力ない足取りで歩き始めた。



 木々の幹は飴細工のように捩れ、枝は立ち昇る煙のように渦巻いていた。風もないのに森がざわめき、少女の不安を煽っていく。胸元で揺れる白銀の鍵も、すでに光を失っていた。

 杖をついてもすぐに転んでしまうほどに、少女は衰弱しきっていた。少女が躓きよろめくたびに、辺りの木の葉がざわざわと揺れる。木々が少女を笑っているのか、心配してくれているのかはわからなかった。


「あれ? 行き止まり、か」


 少し歩くと、深い谷に行き当たった。暗い谷底からは、唸るような重低音が絶え間なく鳴り響いている。吠え叫ぶ谷に慌てて背を向け、少女は来た道を戻り始める。


「とにかく、はやく、ここを抜けないと」


 そう遠くない場所で、見上げるほどの大樹が悠々と徘徊していた。大樹は根を触手のように動かして、地面を揺らしながら歩く。あんなものに踏み潰されては、ひとたまりもないだろう。

 ここがどんな場所なのか、まるで見当もつかなかった。自分が誰かもわからず、体もまともに動かない。方角もわからず、このまま歩いて森を抜けられる確証もない。

 涙を堪え、必死に息を潜めながら、泥だらけの少女はなおも歩みを進めた。



 どれほど歩いただろうか。辺りでは、細い蔓が蜘蛛の巣のように木々の間に張り巡らされ、あちこちで少女の行く手を阻んでいた。


「……喉、乾いた、な」


 声にならない声だけが漏れる。もはや蔓を掻い潜るだけの気力もなく、少女はついに立ち止まった。もう、このまま倒れてしまおうか。ついに諦めて目を閉じたとき、木々の向こうから草を掻き分ける音が聞こえた。それどころか、陽気な鼻歌も聞こえてくる。


 この先に、人がいる。少女の心臓が跳ね上がる。だが、声を出そうとしても掠れた息が漏れるだけで、木々のざわめきにも負けてしまう。絡み合う蔓はカーテンのように木々の間を塞いでおり、そのせいで音の主の姿も見えない。待って、行かないで、と心の中で叫び続けた。しかし、音の主は徐々に遠ざかっていく。


 そのときだった。胸元で揺れる〝X〟の鍵が、またしても白銀に煌めいた。

 〝X〟の鍵は少しだけ宙に浮くと、ひとりでにくるりと回った。その瞬間、何かがカチリと噛み合って、心の中でひとつの単語が紡がれていく。

 少女は身の丈ほどの杖を掲げ、最後の力でその言葉を絞り出す。


「――ペケプレス」


 一瞬の静寂があった。そして、杖先から〝X〟型の衝撃波が放たれた。小さな波動は直進し、蔓のカーテンに直撃する。


 〝X〟が意味するものは、否定や反発、拒絶や追放。

 撃ち払う魔法、ペケプレス。それが、少女に宿る力だった。


「…………あ、れ?」


 だが、斜め十字の衝撃波は、蔓を二、三本だけちぎって消えた。〝X〟とは、失敗作ペケを意味するシンボルでもある。少女に宿ったこの魔法は、あまりに微弱で無力だった。

 最後の気力も使い果たし、少女は地面に崩れ落ちる。しかし、少女は幸運だった。音の主が、蔓を掻き分けまっすぐこちらに向かってきたのだ。放った魔法こそ何の意味もなかったが、鍵のまばゆい煌めきが、蔓の向こうまで届いたのだろう。

 安堵と疲労が一気に押し寄せ、少女の意識が遠のいていく。その混濁する意識の中で、ひとつの記憶がぼんやりとだが蘇る。


 ――二つの影が少女を見下ろし、わずかな言葉を交わしている。


 ただそれだけの場面が、走馬灯のように何度も何度も少女の脳裏を駆け巡る。繰り返されるノイズだらけの会話からは、断片的な単語を拾い上げるのがやっとだった。


 ――魔法。

 ――鍵。

 ――ペケ。

 ――エクステンド。


「……ペ、ケ? ……エクス、テン……ド?」


 言葉の意味は、今の少女にはわからない。


「え? あなた、ペケっていうの? えーと、私はニコ! ただの魔女だから安心して!」


 霞む視界の隅で、黒いとんがり帽子がぴょこんと揺れた。その勘違いを訂正する前に、少女の意識は途切れてしまった。

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