遠くの世界のあなたへ
椅子に腰かけて窓の外へと視線を向ける。
ゆっくりと流れる雲の動きが、時間の経過を実感させてくれる。
メガネをはずして机の上へ置く。目頭付近を軽くつまみ、眼球にかかった疲労をもみほぐす。実際に効果があるのかどうかは分からないけど、こうするとやっぱり気持ちいい。
改めて目を開きメガネをかけて、先ほどまでしていた作業を再開する。
うっすらと光を放つ画面に向かい、キーボードをたたく。自分の思いを言葉にするように、気持ちが伝わるように。
黙々と、時に言葉選びに悩み、時に内容に悩み、私は数十分の時間をこの作業に費やす。書きたいことはたくさんある。書かないといけないこともたくさんある。ただ、文を綴るということに不慣れな私は思っていたよりも時間がかかってしまうのだ。
本日の分を書き終えて、私は大きく伸びをする。全身に溜まった力を世界に逃がすように、ある1つの課題を終えたことを確認するかのように、大きく伸びをする。
一息ついたその時、聞きなれた小さな音がなる。目の前にあるパソコンからだ。それはメールの受信を知らせる効果音だった。
こんな私にメールを送ってくる人間なんてそう多くはない。両の手、いや、片手で数えられるくらいだろう。
どちら様からかしら、と差出人を確認し嬉しくなる。そもそも片手で数えられる程度の人数しかいないのだ。誰から来ても嬉しいのは当然だった。
あと1時間くらいで到着するよ、という連絡だった。
メールを見てあわてて立ち上がる。そういえば家族が1週間前に遊びに来ると言っていた。その日にちは今日だったのか。
1人での生活が始まってまだ1カ月。そんな私を心配してくれているのかもしれない。
とりあえず1時間の猶予はある。その間に少しでも片づけをしておこう。部屋の中を一瞥して、私はそう考えた。
久々に掃除機を取り出し、掃除も結構おろそかになっていたことを自覚する。隅に貯まる埃がそれを表している。日々を暮らす空間に自分以外の目があるというのは、やはり気が引き締まるということなのか。
掃除機を終え、次ははたきで棚の上を簡単にはたく。やってから気づいたが、順番が逆だった。……まあいいか。
全体的に終えたので次を最後にしておこう。
とはいえ、こちらは掃除ではないんだけど。
とある部屋の一角を占める仏壇を前にして、私は一礼する。
蝋燭に火を灯し、それを用いて線香にも火をつける。
手であおぎ線香の火を消したのち、香炉に1本立てる。
最後にもう一度一礼し、蝋燭の火も消す。
1カ月も経てばこなれてしまう。当然夫に対しての気持ちが薄れたわけではない。
「今日はね、久々にあの子たちが家にくるんですって」
生涯私を愛してくれたあの人に話すように、気づけば口を開いていた。
最近はあんまり家からもでなくなり、変化のない毎日を送っていた。だからかこうやってあの人へお話するのも久々だった。
相槌のない一方的な会話だったかもしれない。でも、やっぱり私の気持ちは届いていると確信できていた。なんていったって、うん十年と一緒に生きてきた間柄なのだから。
来訪者を告げる音が家に響きわたる。
「どうやら着いたみたいね。それじゃあ、また後で」
言って扉に向かおうとして、ふとパソコンのことを思いだす。そういえば、あのデータを保存するのを忘れている。
慌てて自分の寝室へと向かい、マウスを握る。
あの人が私にくれたポエム集を読み直して気づいた大切なこと。
もう届かないかもしれないけれど、気持ちは形に残さないとね。
別名を付けて保存する。
「お父さん、あなたが死ぬまで私を愛してくれたように、私の愛もまだまだ健在ですよ」
どこに向けて放った言葉ではない。
どんなに小さく呟いても、あの人なら気づいてくれるはずだから。
外の雲は気づけば姿を消していた。
「おかあさーん! いるー?」
青天の下、私とあの人との幸せが、新たな幸せを連れて私の元にやってきた。
徒然掌編集 みつかん @mitukan1028
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