Lion

@ichiuuu

第1話

揺らして、くすくすと声を立てた。その整った顔立ちが、今でも懐かしく思い出される。

「殺して、早く、殺して……」

 その恋人を、自分は苦しめて殺した――。


 ここはフェイアード国、花の都にあるさるカフェ。煉瓦造りのアパルトマンの一階にある外観は、日射しの射し込むテラス席もあって洒落ている。クリイム色の壁紙に、ところどころ無名の画家たちのイラストや書き物が残されているのもこの美の都らしい光景だ。このカフェは花屋もギャラリーも併設されていたから、一般人から芸術家志望の老若男女までが昼夜ともなく集まってくる。或る時は百歳を超えた老画家も訪って、しわしわの手でサインを残していった。サインは生きたあかしのようなものだ。自分は客に出される水のように消えていくのだろうが。

(自分は到底長生き出来ないであろう)

 サインを書く画家の小さな背中を見つめ、男はそんなことを思った。

 カフェ【サンダルフォン】、その名はあまりに大きな天使であったため、みなが足先しか見えなかったという天使の名を冠していた。 

男はサンダルフォンで働いてもうじき二年になる。毛先を風に遊ばれる黒の髪、よく整えられた顔だちにくすみのない白い肌。カフェで働くみなにも客にもよく言われたものだ。

「あとは、声さえねえ」

と。

声ならあった。かつての恋人も褒めてくれた。深くて優しい、甘い声音があった。

(その恋人を、苦しめて自分は殺した――)

 男は常に自責の念にかられていたから、その容姿にはどこかミステリアスな、危うい香り立つ魅力があって、のめりこむ女はのめりこんだ。けれどどの女とも長い付き合いにはならなかった。彼のこころには常に、彼女の姿があったからである。二十五を迎えた男には、女の残り香はあっても影はなかった。

 今日もサンダルフォンには、不思議な客ばかりやってくる。今朝は老主人と二人での仕事を受け持った。ブルマンのコーヒーを丁寧に淹れて、一人客の客席に運ぶと。

「テソウ、見てあげる」

 と、客が言った。目元の涼しい、白いドレスに謎を纏った美女、リンカはよくこうして人を驚かせる。リンカに言わせれば、気配を感じさせない男の方が異常だと言うが。

「私の国に伝わる占いよ。人の寿命からなにから、運命は全部この掌の線に刻まれているの。見てあげるわ」

 男は、しげしげと己が掌を眺めるリンカを、何も言わず見つめている。リンカはややあって、

「んま!」と言い放った。

「あんた、結婚してたのねえ。それも運命の相手と。もう二度と出会えないってくらいの女と、結婚してたのねえ」

 ちょっとリンカは苦笑して、男を見つめた。

「あら、でもまた運命の出会いがあるみたい。だけどそれは悪縁ね。あんたを地獄に導くようだわ」

男は掌を引き抜いて、彼女の顔を一瞥もせずに立ち去ろうとした。少し腹が立ったように、リンカがその背中に向けて説く。

「あんた、自殺なんて考えちゃダメよ。自滅には苦しくて、むごたらしい死が待ってるわ」

 男は変わらず美しい顔を背けて不愛想に給仕を続けた。

 午後には一段と不思議な客がやってきて、人の目をそばだてた。時代遅れのパニエをはいて、ピンクのふりふりドレスを纏った少女。まだ十三歳くらいであろうか。大きな青い瞳に、高く整えられた鼻。林檎の如くに紅い唇は、彼女の将来の大変な美貌を今から約束していた。

とにかく、この年を重ねた文化人の多いカフェには、その貴族趣味は不釣り合いだった。帰ってもらいましょうか。男が言いたげにカウンターの老主人を見つめるが、マスターは入れておやりと白いひげの下から微笑んだ。

「……」

男が無言で、入口に手持無沙汰で立っている少女へ近づいた。彼女は一目で男をバーテンと分かったらしく、気難しそうな顔をより険しくして、こう言った。

「ここは、これに名前を書かなくちゃいけないの?」

 彼女が指をさした先は、白い紙が一枚、台に石の重しで繋ぎ留められていた。名前を書いてもらって、のちのち席が用意出来たら呼ぶシステムになっている。それが、このいかにも貴族然とした少女には気に染まないらしい。

「私は貴族なのよ。ミミ・デ・ヴァン・ガーヴァルトというの。私、初めてこんなお店に来るの」

 何も言わず眼を眇め、で? といった風の男へ、ミミが噛み付く。

「聞こえなかったの? だから早く案内してと言ったのよ。私、待つのなんていやよ」

何も言わずにこちらを見据える男に、ミミはますますいらだちを募らせていく。

「何か言ったらどうなの? 私の話が聞こえないの?」

「お嬢さん」

 ここで、酔った客の一人が苦笑いを噛み殺して告げる。

「彼はしゃべれないんだよ」

 ミミははっとした。男が呼ばれる名を待つ紙に、さらさらと書き綴る。

【貴族のお嬢様、これは失礼しました。順番が来ましたらお呼びしますので、少々お待ちを】

「……ごめんなさい」

 赤い頬をしてミミは素直にこうべを垂れた。

 ミミはマスターの優しさで、カウンターの席に通された。細長いカフェに詰め込まれたテーブル席には、酔った文士が大勢いて、とても落ち着けないと思ったのだろう。ミミは一人で足の長い椅子に座ってキャラメル入りのホットミルクを飲んで、何か思案にくれているようだった。

「まるであの年で誰か待ち人を待っているようだね」

 マスターがコーヒーを淹れに来た男に静かに囁く。午後一番に来た客も日が暮れたのを見てとって、帰っていく。ミミはまだ思案にくれている。

男もミミのその様子が気になって、何とはなしに近づいた。

〖誰か、待っているのか〗

 ナプキンに記して持っていくと、ミミは力なく首を振った。

「もしそうだったとしたら、どんなにいいでしょうね」

 それから少し急いた様子で、ミミが男に話しかけた。

「ね、あなたお名前は何ていうの? 教えて頂戴」

 男が新しいナプキンをとって、さらさらとそれに書く。

〖L on〗

 LとOの間、小文字が判別できないのか、少女は

「まあ、ライオン?」

と訝し気に訊いた。

〖違う違う。L onだ〗

何度書いても、小文字が流れるようで判読できない、しまいにはあのむっつりしていた少女はくすくす笑って相好を崩してしまう。

「まあ、あなたライオンなのねえ。ライオン、ライオン、いい名前だわ」

 その笑顔を見ていると、レオンはかつて手にかけた恋人のことを思い返して、胸が詰まりそうになった。

「殺して、早く、殺して」

「じゃあ私、あなたをライオンと呼ぶわ。ずうっと、そう呼ぶわ」

けれどミミの笑顔には、そういった辛い記憶を洗い流してくれるような、華やかなものがあった。

 それからミミはこのカフェによく来るようになった。来てはホットミルクを飲み、たまにチョコレートケーキを食んで、決まってマスターに、

「ねえ、ライオンさん今日はいないの?」

と尋ねるのであった。

「可愛い恋人が出来てよかったじゃないか」

とレオンが出勤したのちマスターが眼を細めた。レオンはカウンターで仕事をしながら、 やはりむっつりと黙っていた。

「どうして、こんなことをした」

 それははるかかなたのことのようであり、二年前の出来事だった。海にほど近い、砂塵舞う倉庫で、レオンはある男と対峙していた。その足元には自分の恋人が血にまみれて倒れ伏している。

「もう一度聞く。なぜこんな真似をした。答えろ、ルシフェール!!」

激したレオンが金髪をゆらめかせた男に短銃を向ける。男はまったく歯牙にもかけず、心底嬉しそうに笑っている。ややうねった肩まである金の髪、残酷なまでに清々しい青い瞳。深紅の唇。男は美の極致にいた。その男は短銃を向けられていながら、なおも微笑みを絶やさない。ややあってこう口を切った。

「君が至上に美しいからだよ。レオン」

 朝、出勤のため郊外のアパルトマンで身支度をしている最中も、その悪夢はしきりにぶり返した。どうしてだろう。どうしてあの悪魔のことを思い出すのだろう。

【きっと悪縁よ】

 あの謎めいたリンカの言葉も脳裏をよぎった。

 その日は都に雨が降っていた。雨の日の客足は悪い。みんな貧しい家にこもっているか、詩人は晴れ間を探していずこへか去ってしまう。殺し屋はこんな日が嫌いだ。陰鬱な雲に閉ざした窓に、殺した男女の顔が浮かび上がるから。カフェの外観、赤煉瓦は雨を浴びてますます血の色を濃くしている。

「今日は閑古鳥だねえ」

 マスターがカウンターのうちから苦笑を浮かべる。雷雨が降って、都は観光客以外人気もない。そうだ、かつて愛しい人を殺した日もこんな雨が降っていた。フルーツナイフで林檎をむいていると、あの日の感触がよみがえってくる。レオンはあやうくフルーツナイフを取り落としそうになった。これよりもっと鋭いもので、自分は恋人の首を切ったのだ――。

「殺して、早く、殺して」

 亡き恋人の声が、どこまでも追いかけてくる。その様子を、知ってか知らずか。

「今日は早めに店じまいにしてもいいな」

と、マスターが優しい声で言った。レオンが驚いてそちらを見やる。

「今日の予報は嵐だ。早めに終わってもいい」

そう言われると、レオンも頷くほかない。レオンは白い腰に巻いたエプロンをはためかせ、テラスの看板を取り下げようとした。そこで。

「ライオンさん」

 と、聞きなれた声が響いた。顔を上げる。そこにはミミがいた。とても嬉しそうに、ニコニコと笑っていた。

「……私ね、愛人の子なの」

 今日の雲に似て、重たい話をミミから切り出した。曇天を映すギャラリーは外壁がガラス張りになっていた。赤やら青やら、多彩な絵具を使った抽象画が向かいの壁にたくさん並んでいる。それを見るとも見ないで、ミミは語りだした。

「ママは早くに亡くなって、私はおばあちゃまに育てられたの。ママは舞台の女優だった。おばあちゃまはしがない御針子で、私は貧しかったけれど幸福に育てられたわ。だけど、あの男が来た」

「……」

 レオンの頷きを少しも気にせず、ミミは語り続ける。

「あの男はママを愛人にした男の知り合いだったの。あの男は言ったわ。君のパパたちが羨ましくは、憎くないかい、って。何も言えなかったわ。そうしたらパパのおうちが燃えてしまった。お屋敷にいたパパも、パパの奥さんも子供も、みんな燃え死んだ……どうしてあんなことをしたの? 私があの男に会った時訊いたの。震えながら。そうしたら、あの男はこう言った」

〖君が至上に美しいからさ〗

 レオンはそれを聞きながら、怖気が立つ思いだった。あの男だ。あの男が、地獄から地獄へと呼びに来た。自分から恋人を奪った男が、また俺に顔を見せにきた。とびっきりの笑顔を。

「やがておばあちゃまも突然、失踪してしまった。そうしたらあの男が私をお屋敷に引き取ることになって……。異常だったわ。私があの男の理想とする美しさから、少しでも外れるふるまいをすると執拗に殴ってきて。それも、顔は絶対にやらないの。見えないところに……私はもう、体中傷だらけよ。だから、ドレスも大げさなものにしたの。今時の薄いドレスなんか着て、傷が目立たないように。あの男の恐怖に、屈しないために」

 そうまで語って、腕の黒い腫れを見せたのちに、ミミがほうと嘆息する。

「さらわれたのは二年前だった。私は怖くなって何度も逃げ出そうとしたわ。けれどそのたびに見つかって、連れ戻されて監禁されて、殴られて……ある時、あの男の監視がゆるまったの。きっと他の美しい子を見つけたのね。その隙を見て、必死の思いで逃げてこの都に来たわ。このカフェに入ったのも、人のいない場所よりは安全かと思ったから。そうしたらライオンさんと仲良くなれた。私、すごくすごく、嬉しかったわ」

〖その男の名を覚えているか?〗

 レオンが紙に書き綴る。ミミは言うのも辛いように、絞り出すように告げた。

「ルシフェール……よ」

〖ルシフェール、俺はお前を、決して許さない〗

 それはまさに、自分の恋人を奪った男の名に違いなかった。

「……ライオンさん、どうしたの?」

 ミミが不安げに顔を覗きこむので、レオンは首を振った。大丈夫だ、と言うように。

〖花束でも作るか〗

 紙にしたためられたこの優しさに、ミミの打ち沈んだ顔が晴れ間のように明るくなる。

「うん!!」

 悪縁はえてして悪縁を引き連れてくるものだ。その日は風の強い日だった。数日後、カフェ・サンダルフォンにレオンが裏口より出勤すると、店内が騒がしいのが見てとれた。

〖どうしたんだ〗

 カウンターにいる給仕の女に尋ねると、どうも酔っぱらった文士たちに、一人の男が絡まれているらしい。その男を一瞥して、レオンは寒気がした。あれは、あの金の髪は、あの青き瞳は、あの禍々しいまでに赤い唇は――。

「ルシフェール……奴が、来たのか」

 レオンがあらんかぎりの憎悪を込めて吐き出す。文士と白いスーツを纏ったルシフェールの諍いはやむ気配を見せない。

「お前、何さまだあ? さっきから俺たちを見てはにやにやしやがって、馬鹿にしてんのか?」

「いいや?」

 ルシフェールが媚態をつくろうように顔を傾ける。それから嘲るように言った。

「醜いものはなんて面白い動物かと思ってねえ」

 ルシフェールは自分で言った言葉が面白かったのか、静まり返るカフェに嘲笑をふりまいた。馬鹿にされた文士たちが憤り、グラスをたたき割ってルシフェールに突っ込んでいく。

「きゃああ」

 女たちがみな悲鳴を上げて眼を覆う。しかし。ルシフェールはそのグラスを華麗によけては、男たちの眼を潰し、あるいは腹部に奪い去ったグラスを刺し込んだ。男たちは呻きにならない声を漏らして地に臥せる。

「俺はさ、俺のやりたいことを妨害されるのが一番腹が立つんだ。さあ、警察が来る前にとどめとしようかな」

「待て」

 ルシフェールがにやりとしたのちに、恐怖と緊張で静まり返る店内に、はきとした声が響いた。レオンの声だった。みなが初めて聞くレオンの声は、甘く、低く、重苦しくこの場に響いた。

「おやあ! 君はレオンじゃないか。ここで働いているって噂は聞いていたが、まさか本当に会えるとはね。俺たちの運命を信じたくならないかね」

「ああ、俺たちには運命の糸があるよ。真っ黒な糸、悪縁だろうがな。何をしにきた」

「何をしにきたって」

 ルシフェールが実に妖艶に微笑む。

「探し物を二件ほどね。ああ、もしかして妬いているのかい? 大丈夫その一件というのは君のことだから。もう一つはあくまでスペアだよ。俺の中では君が不動の一位さ。信じてくれるね」

 そう言ってルシフェールがなんとレオンの手の甲にキスを落とした。それを思い切り殴って、椅子から叩き落すレオン。

「ふざけるな。お前のせいでシオリは死んだんだ。だが、シオリはこと切れる前に、俺に言った。恨みにのまれるな。幸せになれ、と」

 レオンはなおも激したまま、息を整えんとする。

「だからこそ、お前を殺したいという衝動をこらえて静かに暮らしていたんだ。今更何の用だ」

「だーからー探し物だってば。君のことはもう見つけたけど、もう一件がね」

 ルシフェールは白いスーツをぱっぱっとはらうと、すぐに立ち上がった。そうして入口のあたりで茫然としているミミを認め、にやりと口の端を上げた。

「やった。もう一件ゲット」

 そうして床に臥す男たちの身体を優雅に踏みつけ、彼は入口の少女の震える手をとった。

「ミミ、まったく君は悪い子だねえ。俺から逃げるなんてねえ。困っちゃったよ。お前のスぺアなんて三日で死んじゃってさ。ああ、今回はむち打ち十回で許してあげる。だから、戻ってくるよね? じゃないとどうなるか、わかってるよね?」

 ルシフェールの歪んだ笑みが、一層口角が上がって禍々しくなっていく。ミミはあまりの恐怖で顔も青ざめ、何も言えないでいる。

「待て、ルシフェール」

そこで、震えるミミの前に、レオンが立った。

「ルシフェール、お前への恨みを、シオリの言葉でもっておさえてきた。だがもう我慢ならん。ミミは渡さん。お前も生かさん。俺たちは殺し屋同士だ。決着のつけ方はわかっているだろう」

 これを聞くなり、ルシフェールは有頂天になって手をたたいた。

「おお、果し合いってやつ? いいねえ、最高だよ。では今日の夜十一時に、あの倉庫で、ね」

 レオンのアパルトマンから見える木々の青葉が、突然の雨にさらされる。レオンは昔の仕事道具をそろえていた。一番使い勝手のよいのは短銃だが、弾切れになる恐れもある。それに、あいつはシオリを刺して痛めつけた。その痛みを、あいつにもとくと味わわせてやりたい。

ジャックナイフを手にとって、じいと見据えているレオンの隣で、ミミが不安そうに膝をかかえている。

「黙っていてすまなかった」

「それは」

 ミミが尋ねる。

「声が出せること? それとも殺し屋だったってこと?」

「どっちもだ」

 レオンがアタッシュケースをしまわんとして、立ち上がった。

「客と話したくなかったんだ。俺は殺し屋という名の殺人鬼だ。だから、極力、まっとうな生き方をしている奴らとは、距離を置いた方がいいかと思ってな」

大きくて広くて寂しいその背に、ミミが問いかける。

「行く気なの?」

「ああ」

「やめなさい。死ぬわよ」

 レオンが振り返る。ミミは涙を浮かべていた。

「死ぬわ、あの男は化け物だもの。行ってはダメよ。私と逃げましょう」

「あの男とはいつか対峙しなくてはならないんだ」

 それに、もし俺が逃げたらミミは一生をあの男の監視下で生きていくことになる。そうまでレオンが言うと、ミミの涙はいよいよとめどなくなった。

「レオン、ごめんなさい……ごめんなさい」

「初めてそう呼んでくれたか。そう呼ぶのは俺の恋人以来だな」

「そう、なの?」

 ミミが小さく問うた。アランが頷く。

「シオリと言ってな、優しくて、穏やかで、いい女だった。出会った時俺はまだ殺し屋で、そこから足を洗わせようとしてくれたのは、シオリだけだった。だが、そのシオリも」

 殺された――。そう聞くミミが打ち沈んだ表情を見せる。

「俺が殺し屋をやめたくなったのはシオリのせいだとあの男が思い込んで、倉庫に呼び出され行ってみたらシオリは既に瀕死で。あの男は笑顔で言ったんだ。お前の美しさを邪魔するものはすべて奪い去ったよ、と」

「そんな……」

ミミの声音が悲痛を極めた。

「俺はあの男を何発か撃って、あの男を撃退したのちに、シオリのそばに寄った。シオリは喉を切られて重傷だった。この出血量では助からない……早く殺してくれ、とどめを刺してくれと、せがまれた俺は、悩んだすえナイフを、持って……」

「もういいわ!」

 レオンの背に、ミミが思わず抱き着いた。そのまま腕を回して、ミミが嗚咽を漏らしながら囁く。

「あなたはもう十分苦しんだわ。あなたのせいじゃないわ」

「ミミ……」

 レオンが小さく笑む。

「俺は今度は必ずお前を守ってみせる。俺はお前のライオンだからな」

「必ず生きて帰ってきて……」

 泣きじゃくるミミの頭を撫で、レオンは決意をあらたにした。

 ミミを駅まで送り届け、当座の金と食料を渡してやった。ミミは別れる間際まで泣いていた。

そうしてレオンは再び、あの倉庫の土を踏んだ。倉庫は広々として、砂塵が舞っている。そこに、ルシフェールは既に立っていた。

「こんばんは。早いね」

 ルシフェールはまるで屈託なく笑って声をかける。レオンがそれを苦々しく思い睨みつけて、毅然とした態度で言い放った。

「ここまできたら、お前を殺すほかない。ミミを自由にし、シオリの無念を晴らすのは」

 こういうやり方しかない。

レオンがナイフをかまえ、ルシフェールは短剣を抜いた。

 二人の死闘は当初互角の戦いだった。レオンがルシフェールの首筋を切ろうとすると、ルシフェールの腕が伸びてきて、その二の腕を掻っ切ろうとした。しかし、二年間人を殺めず珈琲だけを淹れてきた男が、殺すのを日課としている殺し屋に勝てるはずがなく、レオンはやがて足の腱を切りつけられ、砂に臥した。

「く、そ……」

なんとか立ち上がろうとするも、足に力が入らない。ふらり、とすぐによろめいてしまう。

だが、闘わなければならない。シオリのため、ミミのため、そして自分のために。

「あーあ、やっぱり君、ダメになっちゃったねえ。昔の君はそりゃあ素敵だったのに。人を殺す時の恍惚とした表情、最高だったのに。なまっちゃったねえ」

 あ、そういえば、とルシフェールが手をたたく。

「ミミがいないねえ。どこいったの?」

「いる訳が、ない」

「えーでも」

ルシフェールの笑いさざめく声が弾んでいる。

「ここにいるよ?」

 次にはレオンが絶句してしまった。入口にあらわれたミミは、ルシフェールに肩を抱かれてこちらへやってきた。

「ミミ、まさかお前、奴と結託していたのか」

「そりゃーそうでしょー」

 ルシフェールがけらけら笑う。

「当たり前じゃん。ミミは二年前から俺のペットだもん。ペットはいかなる時もご主人さまの言うことを聞くんだ。君はあのバカ女への恨みだけなら、こうまで俺と闘おうなんて思わないだろう? だから、君との死闘に持ち込むために、一芝居うたせた訳」

ミミは静かな瞳でレオンを見下ろしている。

「く、そ……」

 砂塵のなかで、レオンが悔しそうに顔を歪ます。

「じゃあ、ミミ、ここ燃やしちゃおうか。あんな腕も目も鈍った男、邪魔なだけだもんね。燃やしちゃおう」

「はい」

 ミミは慣れた手つきで油をまき、火をともす。あたりは瞬く間に勢いよく燃えだした。ルシフェールはにっこりと破顔して、火の粉を白い頬に受けて言った。

「じゃあね。地獄でシオリちゃんと仲良くね」

「……そうですわね。でも」

 その時だった。ミミは倒れていたレオンの腕からナイフを奪い、背を見せていたルシフェールの腹部を刺した。

「なっぐっ」

「あなたも私たちと一緒に行くのですよ」

「この、おんなああ!!」

 ルシフェールが持っていた短剣でミミの首筋を切り裂かんとするも、よろめく。ルシフェールは何か意味のわからないことを叫びながら、ふらふらと歩き出し、出口を探していたがやがて炎に飲まれた。

「ミミ、どうして……?」

苦しい息のした、レオンがそう問うと、ミミが微笑みを浮かべた。

「あなたにした話は全部本当の話なの。私は、あの男に人生をめちゃくちゃにされた。でも恐怖が先にたって、逃げられなかった。一生、このままかと、思っていた。でも」

 熱を帯びた大気の中で、ミミがなおも美しく笑む。

「あなたと出会って、人生は、楽しいものだと、初めて思えた。だから、だから……」

 倉庫の屋根が燃えおちる。火の匂いが近づく。ミミが瀕死のレオンへと囁く。

「ねえ、ライオン、さん?」

「なんだ……」

「私、シオリさんより早く会っていたら、そうし、たら……」

 その手に、優しくレオンの手が重ねられる。それから、レオンは言った。

「ああ、今なら俺も言えるな」

 レオンがはにかんで告げた。

「恨みにのまれるな。幸福に、生きろ。お前を守るライオンからの、最後の一鳴きだ」

「ライオン、さん……」 

ミミはまた、美しい涙を流した。


 そののち、倉庫は全焼した。死体は二体しか見つからず、よくある決闘だと警察は片付けた。

ミミの行方は分かっていない。ただマスターによれば、あの青年がカフェに姿を見せなくなってより何年かしたのちに、一度だけ来店したことがあるという。その時は彼女な有名な舞台女優になっていた。彼女は店にサインを書く際、壁にさらさらとこう書いた。

【ここには確かにライオンがいました。その牙は私が持っていました。私のライオンさん、今でも、お慕いしております】   了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Lion @ichiuuu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る