卵
青出インディゴ
S.リアル氏の選択
友人の夢野(ユメノ)が学校に来なくなってだいぶ経つので、しばらくぶりにやつの家に行ってみた。両親は不在だったが玄関の鍵は開いていたので、俺は覚えている道順に従って、二階のやつの部屋を目指した。
ドアを開けると、意外にも明るい光に満ちていた。ベッド、本棚、使い古された学習机、まあ十七歳の男としてはごくありふれた内装だと思う。で、夢野はベッドにいて、布団をかぶって丸まっていた。
「よう」と声をかけたら、夢野は「実重(サネシゲ)か」と応えた。その言い方はいつもの、後ろの方にアクセントを置く例の仲間内っぽい言い方だった。憔悴してるって声音でもない。布団をかぶったままこちらに体の向きを変えて、ぼさぼさの髪の中から俺を見る。眠そうな目と伸びかけの髭以外は、数週間前学校で馬鹿話していたときと変わらない。
「先生から来るようにでも言われたのか」と、あっけらかんと訊かれる。俺もあっけらかんと首を振った。
「いんや。単にどうしてるんかなと思って」
夢野は笑った。陰のあるでもない皮肉でもない、素直で純粋な笑いだった。
「俺は元気だよ。まあ座れよ。こんな恰好ですまんが、手が離せなくてな」
相変わらず布団の中から言う。何から手を離せないのかいぶかしく思いながら、俺は学習机付属のキャラクターものの椅子に座った。部屋にはそれしか椅子がなかったからだ。
話題が見つからなくて目線を泳がせる。会ったら何を話そうと思ってたんだっけ。そもそも話題など用意していなかったのかもしれない。夢野は高校からの知り合いだが、俺はやつ以外にこれといって仲のいい友人がおらず、やつが不登校になってから学校での休み時間を持て余しがちだった。来てくれれば、俺の学校生活が楽なのに。まあ訪問の動機は利己心が勝るものだといえる。とはいえ、もちろん心配していないわけではない。
「体調でも悪いんか?」
「いや、全然」
「じゃあセイシン的な問題か」俺は慎重に言った。
「セイシン? なんでセイシンの問題が出て来る?」
「いや、知らんが、学校来れないってのはそういうのが多いだろ」
不登校、という言葉を俺はあえて避ける。夢野は、合点が言ったようにまた笑った。今度は、馬鹿げてる、とでもいったような苦笑だった。「セイシンは何も悪くない。少なくとも俺自身はそう思ってる」
また沈黙。来てから5分も経っていないと思う。が、すでに話題に事欠いている。そもそも数週間顔を合わせていないわけで、共通の話題が出て来るはずもない。俺らの共通事項は学校のことくらいだ、それにしたって、受験に向けてみんないよいよピリピリしてる、くらいしかない。だからタイミングとして早いかもしれないが、核心の話題を口にするしかなかった。
「なあ夢野、なんで学校来なくなったん?」
言ってしまうと、やつは眉をひそめて初めて沈黙し、布団の中でもぞもぞと体を動かした。俺は黙って待った。
「くだらねーと思うよ」
「まあ思うかもしんねーけど、言ってみ」
やつを俺を見、俺は気まずくなって視線を動かした。で、やっとまた視線を戻したときには、やつは何かしら決心したような表情で布団をめくっていた。ジャージ姿の全身が見えたが、注目点は腹の横あたりのシーツの上に載った――球体だった。
目を瞬く。球体。球体にしか見えない。サッカーボールぐらいの大きさ。深い青色で、白い斑(ふ)が入って、なんとなくNASAが公開してる銀河の写真っぽい模様にも思える。こいつ、なんでこんなものを布団に入れてんだ?
「卵だよ」とやつは言う。
「そんな卵見たことねーぞ。なんの卵だ?」
「知らん」
と言って、夢野はまた布団をかぶった。ほんの一時でも冷気にさらしたくないというように。つまり、こいつはこの卵か何かを孵化させようとしてるってわけか。馬鹿なのか?
「卵かどうかもわかんねーし、卵だとして、孵化させてどうしようって言うんだ? 卵孵すのってすごい難しいんだろ。このあいだ『ぼくらの動物園』でやってたし。そもそもそれすげーでかいじゃねーか。巨大生物の卵だったらどうするんだよ?」
まくしたてたが、夢野はどこ吹く風だった。で、俺がマイナス面を叫び終わったあとに、悠々と説明するにはこうだった。
数週間前、学校帰りに川沿いを自転車を漕いでいたら、河原に光るものを見つけた。気になって降りて行くと、穴を掘ってきちんと小枝や草でできた何かの巣があって、この卵があった。しばらく待ったが、親と思われる動物は戻ってこない。とうとう夜になったので、持ち帰って自分が温めることにした。
いろいろ指摘したいことだらけだ。そもそも温める必要がない種類の卵なんじゃないかとか、たまたま巣に転がり込んだだけの石じゃないかとか、親から盗んできたことになるんじゃないかとか。もちろん言ったけれども、聞きやしない。
「孵すのが俺の義務だと思うんだ」
「そのために学校休んでもか」
「まあな」
「親は?」
「最近ようやく諦めた」
俺も諦めた。だから帰った。
で、話は終わりじゃないんだな。それからしばらくして、また俺は夢野の部屋にいた。結局あれからやつは一度も学校に来ない。俺は、卵を孵すために自分の将来を棒に振るなんて馬鹿じゃないかと思う。もうみんな受験校決まって、目の色変えて勉強してんのに。
そんな話をしたら、夢野は、
「実重はどうすんだ?」
「医療系行こうと思ってる。やっぱ資格持てるとこだと安心だから」
「へえ、すげえや」
と、やつは大して感心もしていない口調で言った。俺は話題を変えた。
「いいかげん、お前も復帰したら? もうずっと温めてんのに動きもしないんだろ。かわいそーだけど無駄だったんだって」
「無駄じゃねーよ」夢野はむっとした様子で言うが、やがて付け加えた。「いや、無駄かもしれんが、今こうしてんのは無駄じゃない。だって、卵が生きてんのか死んでんのかわかんねーんだから。でも温めてるかぎりは、生きてるって可能性を考えられる」
「よくわからん。結局無駄だってことだと思うが」
「無駄ではあるが、無駄じゃないってことだ」
話は堂々巡りに入ってしまう。
「お前さ、暇じゃないのか? ゲームもしないで、ただ一日布団かぶって寝てるだけだろ? 何考えて過ごしてんだ?」
「そりゃーいろいろだ。卵を抱いてて、そこが一番大事なところなんだな。いろいろ考えてるよ、宇宙のこと、生命のこと、その他もろもろだな。スマホとかノートにはしょっちゅう書きとめてる。つまりだな、その過程が何より楽しいんだ」
「要するにサボってるってだけか」
つい辛辣に言ってしまった。夢野は一瞬眉をひそめ、それから天井を見る。
「なんとでも言うがいいや。今に卵が孵ったら――」
「卵は孵らない!」
俺は思わず声を荒げてしまった。夢野はもう何も言わなかった。
それからやつの部屋に行くこともなくなった。
結局卒業式を迎えても、ついにやつは学校に姿を見せなかった。高校を卒業できたのか、それとも退学でもしたのか、それすらわからない。学校ではもう誰もやつの噂をしなかった。俺は同じ方面の進路を志望する何人かと親しくなって、特にそのうちのひとりの女子とは親密になった。春休み中はその子とデートを重ねた。希望していた大学にも合格し、まさに順風満帆だった。ふと夢野を思い出したのは、3月の終わりごろ。そんなやついたな、大学に入学して完全に縁が切れてしまう前に一度会っておこうか、くらいの気持ちだった。最後にけんか別れみたいになってしまったのが心残りだったのかもしれない。
夢野が卵を温めはじめて、もう1年以上経っている。部屋に行くと、やつはなんとベッドの上に座っていた。布団はめくれあがり、シーツの上についた膝の前に、卵の殻だけが散乱している。あの青い神秘的な模様の殻が、陽光を反射して星みたいに輝いていた。
「よう」と俺たちは気まずい挨拶を交わしあった。何か月も会っていない人間、それも穏便でない別れ方をした人間に、気軽に接するというのはお互い無理がある。
「卵……割れたんだな」
「いや、孵ったんだよ。ちょうどお前が来る30分前に」
夢野は両腕を広げてにやっと笑った。なんだかマジシャンがやるみたいな仕草だ。
いやしかし俺は驚いた。
「で、中から何が出て来たんだ?」
「うつろ」
「ウツロ?」
「ああ」
「ウツロってなんだ? 鳥か、蛇か、それとも亀か?」あとは俺には思いつかない。
「うつろはうつろだ。言い換えると、なんにも出て来なかったってことだ。卵の中には、何もなかった」
「孵ったのに?」
「ああ。1年以上温め続けて、おとといあたりから揺れ動くようになったんだよ。孵化が近いんだなってわかった。それで今朝から殻にひびが入りはじめて、さっきついに誕生したってわけだ」
「うつろが誕生したって?」
「ああ」
見直すと、殻は確かに何かが生まれたような割れ方をしている。なのに、そこには何もいない。鳥の雛も、子蛇も。
なんだか頭がくらくらして椅子に腰を下ろした。
「無意味だったってことか。もっと強くお前を説得するんだった」
「無意味じゃねーよ。いや、無意味だけど、無意味じゃねーってことだ」
なんだそりゃ、と俺はつぶやく。前にも言ってたな、とも。
「俺は帰るよ」
「ああ。来てくれてありがとな。医療系の資格? だっけ、頑張ってな」
夢野は笑っている。純粋な、本心からくる、屈託のない笑みだった。
光にあふれる部屋から出て、ドアを閉める。なんだったんだ、あいつは? この1年を棒に振ったくせに、なぜ笑っていられる?
夢野とはこれっきりな予感がしていた。俺の生きるべき世界とはまったく違う。俺の世界は、大学で資格を取り、資格を活かして就職し、彼女と楽しく語らい、友人を作り、仕事の合間に息抜きをする。そんな輝かしいはずの世界だ。夢野はこれからどうするつもりだ? 相変わらず宇宙のこと、生命のこと、その他もろもろを考えながら、書きとめ続けるつもりか? それがなんの役に立つってんだ?
医療系の資格……医療系の資格……イリョウケイのシカク……俺は心のうちで呪文のように繰り返しながら歩く。繰り返すうちにゲシュタルト崩壊のように、それは意味をなさないものになっていくことに気づく。
帰り道、川沿いを歩いていると、河原にきらきら光るものがあることに気づいた。目をこらすと、青い銀河の模様の――卵。
俺は首を振り、通りすぎた。
卵 青出インディゴ @aode
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