第3話

「なかなか別れ話がうまくいかないうちに、わたしの生理が4カ月止まって、

 さらにひどく大ちゃんとモメて、ついに二人で病院に行って、妊娠してるか

 調べることになったんです。」



私は、メグミさんの顔を見た。


その目はなぜか、異様にキラキラしていた。



「その前日にも、みどじいの夢を見ました。


 沼の中でもがきながら、水面に映るみどじいに必死で手を伸ばす夢です。


 夢の中では、わたしがみどじいに助けを求めているのに、繰り返すうちに、

 なぜか、みどじいをわたしが助ける、そんな気持ちが生まれていました。」



そこでメグミさんは、言葉を切って、お腹にそっと手を当てた。


「翌日、大学の授業が終わって、大ちゃんと二人で、駅前の産婦人科のクリニック

 に向かいました。


 その途中、駅の昏い地下道を抜ける時に、わたしは夢の中で繰り返し嗅いだ、

 青い沼の臭いを、全身で感じたんです。


 みどじいは、現実にいたんです。」


その声は、シンと静かな響きだった。


私の鼻腔にまで、その臭いが届いたような気がした。



「地下道のちょうど中間点あたり、そのすみに、浮浪者の死体がありました。


 それはおじいさんで、夏場で、もう腐っていて腐敗ガスで、お腹が妊婦さんの

 ように、パンパンに膨らんでいました。


 全身はところどころに緑色になっていて、緑色の液体が、まるでおじいさんの

 影のように、地下道に大きな染みを作っていました。」



そう言うメグミさんは、なぜか、ひどく落ち着いていた。


「わたしは大ちゃんに言いました。


 『警察に通報しよう。


  ちゃんと死んでいるか、一応、確かめて!』


 でも、大ちゃんは


 『嫌だよ、そんなの他の人に任せておけばいい』


 と言いました。


 『だめだよ! 駅の交番に行く』


 とわたしが言ったら、


 『勝手にしろ、じゃあ、もうここでお別れだからな』


 と言われました。


 それで本当にそれっきり、大ちゃんとは別れたんです。


 あ、別れたら、ちゃんと生理、来ましたよ」


よかったですね、とも言えず、私は


「みどじいは、どうなったんですか?」


と尋ねた。


「わたしが交番に行って、それから警察の人たちが来て、回収されていきました。


 死んで三日以上経ってるって、警察の人が言ってました。


 あ、知ってますか? 


 こういうとき、明らかに死体とわかっていても、ちゃんと救急車が迎えに来る

 んですよ。」

 


知らなかったです、私がそう言うと、メグミさんが意外な言葉を続けた。


「そうそう、例の透明なイクラ、あれ、みどじいの体に、いっぱいいっぱい、

 ついていました。


 一体、なんだったと思います?」


蛆(うじ)ですか? 


死体に集まった虫の卵ですか?


おそるおそる私がそう言うと、


メグミさんが首を振った。


「わたし、みどじいが、救急車に乗せられるまで、ずっと見てたんです。


 透明なイクラの正体は、除湿剤のビーズだったんです。


 なんでこんなものがって、わたしが驚いていると、警察の人が


 『そりゃ、たぶんいつも地下道を通る人が、臭くて、たまらなくなって、

  遺体にふりかけたんだろうな』


 って教えてくれました。


 確かに、みどじいはすごい臭いでした。


 たぶん、一生、忘れられないと思います。


 みどじいが、回収されて、数日後に、その地下道に行ってみたんですけど、

 みどじいがコンクリートの壁と地面に残した緑のシミは、人型の青いカビに

 なってました。


 人の一部が、こんな液体になるまで、ほっとくなんて。


 通報すれば済むことなのに、なんでみんなそんな簡単なこと、しないん

 でしょうね」



そこでメグミさんは、大ちゃんの去り際を思い出したのか、少し寂しそうな顔をした。




別れたあと、大ちゃんはどうなったんですか?


思わず私は、そう聞いた。


「大学を卒業してすぐ、そのとき、つきあっていた子と結婚しましたよ。


 わたしの女友達が、その頃、大ちゃんの友達とつきあっていたから、いろいろと

 大ちゃんの噂は流れてきました。


 ずっと前から、大ちゃんの家には認知症のおじいさんがいて、介護が大変だって

 こととか、徘徊やイタズラやのぞきをするってこととかも、彼女から聞きました。


 だから、きっとあの布団をびしょびしょに濡らした生臭い水も、そのおじいちゃん

 のイタズラだったんでしょうね」


そのおじいさんにも、助けられました、


と言ってメグミさんは、少し笑った。



今は、おつきあいしている方は?


と私が聞こうとすると


メグミさんが続けた。


「わたし、どうも呼ばれる体質みたいで。


 みどじいのあとも、道で倒れている人とか、派手にケンカしている人を、

 よく見かけるんですけど、


 そのとき、一緒にいる彼に、警察や救急車に通報しよう、とわたしが言うと、


 『そんなの、ほっとけ』


 と言う人ばかりで。


 おかげで、なかなか恋が続かないんですよ」


そう言って、メグミさんは頭をかいた。



その腕に、びっしりと透明なイクラがついているように見えたのは、

私だけだろうか。

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みどじいの沼 真生麻稀哉(シンノウマキヤ) @shinnknow5

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