三章六話 『迫る不穏』
秋人達と別れた後、電車を降りた真弓は一人で夜の道を歩いている。
久しぶりの人混みという事に加え、ここ数年で一番多く誰かと会話を交わしたので、疲れは最高潮に達していた。
思い返しても、上之薗真弓という人物の人生の中で、ここまで誰かと触れあったのはパラダイスに来る前の事しか記憶がない。
しかし、嫌な記憶も同時に甦りかけたので頭を振ってそれを追い出す。
(たまにはこういうのも良いかもね……)
夜空を見上げ、つい数分前の事を思い出す。
いまだに目がチカチカしており、空を見上げるだけで花火の形が鮮明に頭に浮かんできた。
だが、それと同時に視線を地面に移し、
「ううん。こういうのはこれで最後。一人で頑張るって決めたんだから……」
闇夜に溶け入りそうな表情で、誰に言うでもなく自分に言い聞かせるようにそう言った。
今まで耐えて来た孤独でさえも、たった数時間誰かと接しただけで寂しさが込み上げて来る。
けれど、そんな思いは当の昔に捨てたのだ。たとえどれだけ辛くても、どれだけ寂しくても。
真弓にとって孤独とは、自分を守る唯一の手段なのだから。
しばらく歩みを進め、真弓が住むアパートの近くまで来た時、何かの気配が背後を横切った。
「……?」
後ろを振り向いて確認するが、そこには誰も居ない。真弓も人外種なので、普通の痴漢やスリ程度ならば軽く対処する実力は持ち合わせている。
しかし、あくまでも彼女は高校生の少女だ。
夜道にいきなり襲われれば恐怖が勝るし、抵抗だって最低限の事すら出来なくなるのも仕方ない。
「ーー真弓」
不意に、女性の声が背後から耳に滑り込んで来た。
その瞬間、真弓は全身の毛穴から汗が吹き出すのを感じていた。夏といえども夜は丁度良い気温だ。
ただ歩くだけで汗が止まらなくなるなんてあり得ない。
しかし、真弓の汗は気温によってもたらされたものではない。
ゆっくりと、体の向きを変える。
「久しぶりだね。会いたかったよ」
「……なん、で……何でアンタが居るの……」
言葉が、思考が遅れた。その少女の顔を見ただけで真弓の意識が崩れていく。
「迎えに来たよ」
その言葉を最後に、上之薗真弓の日常は終わりを告げた。
長い間続いていた平穏は砕け、あの日の闇へと引きずり戻される。
その影は、ゾンビの少年にも近付いていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
次の日、秋人は昼過ぎに目を覚ました。
前日の夜に強制的な夜更かしを迫られていた事もあり、いつ寝たかすら記憶が曖昧だ。
しかし、久しぶりにグッスリ寝れたのか、体の疲れは全て吹き飛んでいる。
「……やべぇ、今日からめっちゃ引きこもれる」
夏休みの特別補習も終わり、今の秋人を縛りつける物はなにもない。つまり、一日中家にこもってゲームし放題。食べて寝てをひたすら繰り返す事が出来る天国が、今この瞬間から始まるのだ。
掛け布団を蹴り飛ばし、勢い良く体を起き上がらせる。
夏休みは既に一週間が過ぎ、七日間という時間を無駄に過ごしてしまったのだ。ダラける事の出来る一分一秒ですら無駄には出来ない。
「クゥ、やっぱ引きこもりは最後だな」
買いだめた袋を開け、どのお菓子から口にするか考える。不摂生な事この上ないのだが、一人暮らしの学生となればこんなものなのだ。
「いや待て、最初はゲームからだろ」
必死に自制心を働かせ、開きかけたポテチの袋をテーブルの上に置く。
そして、最近流行りのRPGをやろうとした時ーーチャイムの音が部屋の中に響き渡った。
目を玄関へと向け、安らぎを邪魔された事に対して若干の怒りがこみ上げる。だが、今日の創秋人は一味違う。
引きこもると決めたのだから、たとえ誰が訪ねて来ようとも出る気はないのだ。
「残念だったな。今の俺は亀もビックリなほどに引きこもりモードなんだ」
良く分からない決め台詞を吐き、再び意識をゲームへと戻す。
しかし、何故かチャイムの音が鳴り止まない。
理恵や将兵が訪ねて来るとすれば、チャイムだけではなく、周りの迷惑など気にせずに秋人の名前を叫ぶのがお決まりだ。
けれど、そんな様子は全くない。何かの支払いかとも思ったが、流石にここまでは執拗に鳴らさないだろう。
色々と考えた結果、無視という結論に至った秋人。
待ちに待ったゲームのスタートボタンを押そうとした時、
「私だ、真田佐奈だ。創秋人、居るのは分かっているぞ。後三秒以内に姿を現せ。さもないとーー」
「はいなんですか今起きた所なんで寝ぼけてましたすいませんごめんなさい」
意図も簡単に屈した創秋人君十五歳。
秋人の防衛本能が即座に反応し、全てをかなぐり捨てて玄関の扉をオープン。腕を組んで待ち構える佐奈を見て、秋人は襟首を正した。
「……寝起きにしては滑舌が良いんだな」
「え、ほら、俺ってば何時でも饒舌なんで。寝起きも普段と変わらないんですよ」
「そうか……まぁいい。上がらせてもらうぞ」
「……え?」
秋人の答えも聞かずに勝手に室内へ侵入を開始する佐奈。
状況が理解できず、言われるがままに部屋の中へと案内。お菓子の袋がテーブルの上に広げられてはいるものの、そこまで汚くはない。ほどよい生活感がある、そう秋人は自負している。
「貴様、ちゃんと食事はとっているのか? こんな物ばかりでは栄養が偏るぞ」
「だ、大丈夫ですよ。たまたま今はお菓子しかないだけです」
訝しむ目を向けられ、思わず全身の筋肉がカッチカッチ。しかし、嘘はついていない。
夏休みだから大量にお菓子を買い込んでいるが、普段は料理をしている。
ただ、今の秋人にはそれを弁明するだけの余裕はない。
佐奈はテーブルの上に並べられたお菓子を退け、適当に腰を下ろす。部屋の持ち主俺じゃないっけ?という錯覚に陥り、秋人は何故かウロウロしてしまう。
「何をしている? 早く座れ」
「は、はい」
言われるがままに佐奈と向き合うように腰を下ろし、特に心当たりはないが、叱られると思い込み正座。
重い沈黙が秋人にだけ流れ、佐奈が言葉を口にするのを待っていると、
「私がこないだ言った事を覚えているか?」
「こないだ? ……いや、すんません。心当たりがないです」
「はぁ……プールでの事だ」
「プール? あぁ、そう言えば…………!?」
先月、理恵とプールに行った時の事を思い出し、秋人の頭には佐奈の胸にタッチした事が過った。
結局、あの後は佐奈と会う機会もないまま時間が過ぎ、謝る事も出来ずにいたのだ。
つまり、彼女がここに来た理由は、
「すいませんでした! あの、わざとやった訳ではなくて、無意識っつうかたまたまっつうか……とにかく胸を触ってすいません!」
「……あ、あぁ、別にその事はもう良い。貴様がそこまでの変態ではない事は分かっている」
全く違う事を考えていたのか、佐奈は胸の事を謝られたのに対し、少し頬を赤らめながら曖昧に返事をした。
秋人はその反応に違和感を覚えつつも、そう簡単には引き下がる事が出来ず、
「でも……流石にいきなり胸を触るってのは……」
「もう良いと言っているだろ。そんなに罰が欲しいのなら今ここで叩きのめしてやるが、どうする?」
「遠慮しときます」
佐奈の拳を見ただけで震えが止まらなくなる秋人。あの拳から繰り出される鉄拳には、悪い思い出しかないのだ。
即答した後で一旦呼吸を整え、改めて話を切り出す。
「で、プールの時って何か話してましたっけ?」
「本当に覚えていないのか? 通り魔ーー坂本孝太の事だ」
「ーー!」
その名前を聞いて、秋人はようやくプールでの出来事を思い出した。
あの直後に理恵の兄との事もあり、ずっと忘れてしまっていたが、秋人にとっては今何よりも知りたい情報だった。
先ほどまでのふざけた雰囲気から切り替え、膝の上で汗ばんだ手を握る。
「思い出したようだな。今日はその事でここに来たんだ。家の場所は奏から聞いた。もし、貴様が聞きたくないと言うのなら話さないが……どうする?」
「前にも言ったけど聞きます。聞かせて下さい」
「分かった。では、まず結論から伝えよう。坂本孝太は消えた」
「……消えた? それって脱走って事っすか?」
言葉の意味が分からず、一瞬反応が遅れる。
あえて消えたという言葉を使った事には何かの理由があるのだろうが、それを聞かずにはいられなかった。
「いや違う、消えたんだ。牢屋から綺麗サッパリと。監視カメラの映像で見たが脱走する様子もなかった」
「坂本孝太って蜂ですよね? それと何か関係が……」
「その可能性は低いだろうな。三ヶ島花子からのお墨付きだ。彼女が言うのだから間違いない」
「そりゃ……間違いないっすね」
花子の名前を出されれば、そうと頷くしかない。彼女の人外種に関する知識はずば抜けており、中身はアレだが監理局からも一目置かれている。
ただ、どうしても納得する事が出来なかった。
坂本孝太の様子から逃げ出してでも家族に会いに行く可能性はあったが、それを実行するとは思えなかったのだ。
それは願いにも似た思いで、違うと思いたいだけというのは秋人が誰よりも分かっている。
「あの、坂本孝太って見つかったらどうなるんすか?」
「どうもしない。いや……どうにも出来ないと言った方が正しいな」
「どういう事っすか?」
何か含みのある言い方に、秋人は身を乗り出して答えを待つ。
佐奈は躊躇うように一度言葉を飲み込んだが、秋人の真剣な顔を見て、
「貴様は言ったな、坂本孝太の事を聞くと」
「はい、言いました」
「だから私は遠慮なく事実を伝える。後悔はするなよ」
何時になく神妙な顔付きで語る佐奈に、秋人は唾を飲んだ。嫌な感覚が体を巡り、夏というのに寒さを感じていた。
喉の奥がヒリヒリと痛み、言葉を発する事が出来ない。なので、ゆっくりと頷く。
そして、
「先日、坂本孝太が死体で発見された」
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