二章十四話 『私の世界』



 病院を脱走した理恵は、自分の中に感じる違和感へと足を走らせていた。

 この感覚がなんなのか彼女自身も分かってはいないが、その違和感の元には必ず兄ーー相良礼二が居ると直感が告げていた。


「……秋人……!」


 理恵がパラダイスに来て初めて出来た友達は、恐らく秋人だろう。

 理由は特になく、たまたま中学校が同じだったからだ。理恵の方はそれ以前、パラダイスに来たばかりの頃に連れて行かれた施設で、この世の終わりのような顔しながらフラフラと歩いている秋人を見た事はあった。


 しかし、秋人はその事を知らないし、理恵だって当時は名前すら知らずにいた。

 その後、数年立って再会したものの、その時はただの同じクラスメイトだった。

 だが、理恵の秋人に対する印象が変わったのは、中学一年の時だった。


 通学途中、たまたま見かけた秋人がトラックにド派手に吹っ飛ばされていたのだ。

 勿論、当時の理恵は不死身だという事も知らず、心配になって駆け寄った。が、周りの反応、そして引かれた本人ですら笑っていた。


 自分は不死身だから大丈夫だと、ヘラヘラしながら秋人はそう言った。

 本人がそう言うのならと納得しかけた理恵だったが、その後に見せた寂しげな顔が頭から離れてくれなかった。

 そして、その時に理恵は悟った。


 この少年も、本人は辛いのにそれを我慢しているのだと。

 集落から出た事のない理恵は、人外種が外の世界でどんな扱いを受けているのは知らなかった。

 でも、自分と同じように消えない過去があると、そう感じたのだ。


 次の日から、理恵は秋人に積極的に話しかけるようになった。

 可哀想だからとか、同じだからとか理由はあったが、一番はどうにかしてやりたいと思ったからだろう。

 だが、まともに友達なんて作った事のない理恵にとって、人と接するのは難しいものだった。


 だから考えた。そして、ある事を思い出した。

 自分が辛くて仕方ない時に、笑いかけてくれた人間の事を。

 それから理恵は秋人が引かれる度に笑いかける事にした。その本意を秋人が感じとっているのかは怪しいが、理恵にとってはそれが正解だったのだ。


 そして、自分が笑う事で秋人が笑ってくれる事が嬉しかった。

 自分の笑顔にも、あの人間と同じように誰かを安心させる事が出来るのだと知って。

 それを教えてくれたのは、紛れもなく秋人だった。


 ーーそんな少年が今、自分の兄によって頭を潰された。


 勢い良く扉を開けた直後、理恵は視界に入った光景に絶句した。

 理恵自身、昨日の秋人との約束をほとんど覚えてはいないが、何か大事な事を話したという記憶はあった。


 そして、これがその答えだ。

 秋人は自分のために戦い、兄の手によって頭蓋骨を砕かれた。

 トラックに何度も引かれるのを見ていたが、頭がなくなっている秋人を見るのは初めてだった。


 死。

 理恵の脳裏に一つの言葉が過る。

 また、自分のせいで誰かが死んでしまったと。

 結局、何も変わってなんかなかったと。


「あき……ひと……?」


 フラフラとおぼつかない足取りで踏み出し、その少年の名前を呼ぶ。

 しかし返事はなく、頭を失った少年の体はピクピクと痙攣しているだけだ。


 理恵は、訳が分からなくなっていた。

 頭の中で現状を受け入れようとしても、心がそれを拒否している。

 何故、どうして。様々な疑問が尽きる事なく沸き上がるけれど、その答えを導き出す事が出来ない。


「……来たか。今終わった所だ。帰るぞ、理恵」


 礼二は靴裏についた血液を地面に擦り、無表情のまま理恵に向かって言葉を投げる。

 たった今起きた出来事など気にする素振りなど見せずに。


 その時、理恵の中で何かが壊れる音がした。

 それは理性なのか、それとも感情なのか。

 ただ1つ分かったのは、それに任せてしまえば自分は自分でなくなるという事だけだった。


「アァァァァァァァァァーー!」


 叫びを上げた。感情も理性も全てを投げ捨て、己の内側から沸き上がる本能に全てを任せて。

 地面を蹴って飛び出した。

 摩擦によって靴裏は擦りきれ、焦げた臭いが一瞬だけ鼻を刺激する。


「ようやくか……それでいい。他人への思いやりなんて捨てろ」


 全くの別人へと変貌を遂げた理恵を見て、礼二は初めて頬を緩ませた。

 ニヤリと怪し笑みを浮かべ、今ある姿が本来の理恵であるとでも言いたげに。


「ウゥゥ……アガァ!」


 振り上げた拳が、その歪な笑みで満たされた顔面を殴り飛ばした。何一つ通用しなかった筈なのに、礼二の体は宙を舞ってそのまま壁に叩きつけられた。

 それでも尚、笑みを崩す言葉をない。


 殴った理恵の拳は皮膚が捲れ、血が滴り落ちている。しかし、そんな事は気にする事もなく、次の一撃を打ち込むべく走り出した。

 今の理恵には、自分を制する自我も痛覚も存在しないのだろう。


「良い拳だ。だが、俺が教えたのはそんなものではない筈だ」


 心臓へと伸びる拳を礼二が受け止める。

 全てを衝撃を受ける事は出来ず、僅かに押されるが直ぐ様反撃の手を打つ。

 礼二の蹴りが腹にめり込み、体が折れた所に下からの拳が顔面を跳ね上げた。


 だが、そんなもので今の理恵は怯まない。

 殴られた直後、ノータイムで体を捻って後ろ回し蹴り。

 横腹を刈り取るように振り回された踵が礼二の内臓を競りあげ、この時初めて顔に苦痛の色が浮かんだ。


「ゴゥ……フッ!」


 防御が間に合わず、勢いを殺す事なく振り抜かれた事によって礼二の体が横に飛ばされた。

 それを追うように駆け出し、立ち上がろうとする鼻っ柱に膝の皿をぶつける。


 しかし、礼二は避ける事もせずその足に強引に腕を絡め、軸の足へと自分の足をぶつけて足払い。

 体勢を崩した理恵を一気に押し倒し、頭を掴んでコンクリートに叩きつけた。


「まだまだだな。容赦のない一撃は評価するが、隙があり過ぎてお粗末だ。帰ったらそこら辺を補うぞ」


 鼻血を滴ながらも礼二は言葉を続ける。

 暴れる理恵を片腕で押さえつけながら、これからの鍛え方を考えているのだろう。

 今の理恵を相手にしても尚その態度を継続しているのは、慢心でも過信でもなく、それほどの力の差がまだあるからだ。


 その時、冷たいコンクリートに押さえつけられている瞳が、動かなくなった秋人を捉えた。

 上っていた熱が一気に冷めていくのを理恵は感じた。


「なんで……なんで秋人を殺したの!」


 自分の顔面を押さえる手を掴み、理恵は冷えた頭で考える。

 瞳からは涙が溢れ落ち、秋人の死を受け入れ始めていた。

 どれだけ力を込めてもその手は退かず、どれだけ手を伸ばしても秋人には届かない。


「これはソイツが望んだ事だ。ソイツが勝ったら俺は理恵に二度と手を出さない。俺が勝ったら理恵は連れて帰る。お互いの同意でソイツは死んだんだ」


「私は、お兄ちゃんの物じゃない! お父さんのでもないしお母さんのでもない!」


「違う、お前の体は俺達一族の物だ。お前はそのために産まれて来たんだよ。お前に自由なんて存在しない。その体は、その意思は、死ぬまで一族のためだけに使ってればいいんだ」


「違う! 私は皆とここに居たいの……皆と一緒に笑ってたいの。だから、放っといてよ!」


 理恵の心の叫びに礼二は表情を歪ませた。

 苛立ちを隠せず、段々と頭を掴む力が強まっていく。

 これだけ痛め付けても尚、変わる事のない決意が礼二を苛立たせているのだろう。


「お前は……何も分かっちゃいない。これは俺達一族の総意なんだ。俺達は人間の上に立って全員を導く義務があるんだ。こんなクソみたいな世界を変える義務が!」


 礼二の荒げた声に、理恵は思わず体が強ばった。

 理恵の知っている相良礼二という男は何時でも無表情で、どんな時でも冷静さを保っていた。

 どれだけ文句を言おうと、人間と仲良くしていた時でもさえも、礼二は冷たい声色だった。

 なのに、その兄が、今は感情を露にしている。


「俺達鬼が、人外種が何をした! 何故自由に生きる権利を奪われなくちゃならないんだ。こんな小さな世界で、自由なんて何一つない世界で、モルモットのまま終わるのか!」


「そんなの……私は知らないよ」


「お前のそういう所がイラつくんだよ。自分の立場を理解せずに、のうのうと生きている所がな! 俺は努力をして来た。どれだけ辛い思いをしても耐えて来た。なのに、なのになんでお前なんだ!」


 二人の父親は、礼二ではなくて理恵を次の党首として選んだ。

 本来ならば礼二が選ばれる筈だったし、本人もそれを望んでいたのだろう。

 しかし、父親は理恵を選んだ。

 理恵と同様に血ヘドを吐きながら、泣き言一つ言わずに耐えて来たのだろう。


 そんな努力も想いも踏みにじられ、理由も聞かされずに理恵が選ばれた。

 それがどれだけ悔しかったか、理恵には分からない。

 なりたくてもなれない人が居れば、なりたくないのに役目を与えられた人も居る。


 そんな礼二は劣等感を抱えながら、今日まで生きて来た。

 だからこそ理恵に強く当たり、その役目をまっとうさせようとしていた。


「俺は選ばれずにお前が選ばれた。そこに対して文句はもう言わない。だが、選ばれたお前が呑気にヘラヘラしてる事がムカつくんだよ!」


 選ばれておきながら、自分よりも上に立っておきながら、誰よりも憧れて望んだ場所に立っておきながら、それを放棄しているのが許せない。礼二はそう言いたいのだろう。


 全てを聞いて、そして理解をして。

 それでも理恵は、何一つ考えが変わらなかった。

 だから妹は、初めて感情を見せた兄に、


「小さくて自由がなくてもここが私の世界だよ。皆が居てくれればそこが私の大好きな世界なの。お兄ちゃんもお父さんもお母さんも大好きだけど、私の世界はここなの。だから、私はここに居るよ」


 ハッキリと、そう言った。

 礼二と憧れも望みも劣等感も全てを理解しても、その全てを踏みにじる事になったとしても、ここに居たいと。


 礼二が受けて来た苦しみは理恵には理解出来ないものなのかもしれない。

 理恵が礼二に受けて来たものとは、比べ物にならないのかもしれない。

 それでも、だとしても、相良理恵はここを選ぶ。

 全員が居る、この楽園を。


「……興味ないな。お前が何を選ぼうと、その使命をまっとうさせる。そのために俺は産まれて来たんだ」


 礼二が拳を振り上げた。

 これ以上の話し合いは無駄だと判断し、意識を奪って引きずってでも連れ帰るつもりなのだろう。

 この一撃を受ければ、今の理恵は簡単に気絶してしまう。


 だが、そんな時、礼二の頭に何かが当たった。


 礼二の頭に当たったそれは地面に落下し、カランコロンと音を立てながら転がる。

 それを投げた人物へ二人の視線が注がれた。

 金髪白衣の少女は今までの全てを見守り、それでも何も言わずにいた。

 その少女が腕を組んで、


「相良さんのお兄さんでしたっけ? まぁそこはどうでもいいです。それより、私は言いましたよね。そこの人は汚れよりしつこいって。そしてーー」


 そこで花子は言葉を区切った。

 それからポケットの中から二本目のおしるこを取りだし、蓋を開けた。

 そして、ニヤリと口角を上げて、



「その人は不死身ですよ」



 直後、不死身の少年の拳が礼二の顔面を殴り飛ばした。


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