二章十話 『受難』



 その時、相良理恵は夢を見ていた。

 遠い昔、自分がまだパラダイスに来る前の事を。


 産まれた時から理恵は特別だった。

 赤鬼の種族の長の子供としてこの世に生をうけ、いずれは人間の上に立つ事を約束された存在だったのだ。


 そもそも、この世界に存在する全ての人外種がパラダイスに住んでいる訳ではない。自分達は人間とは違うのだと直ぐに気付き、捕らえられる前に逃げ出した人外種。

 追われながらも、世界を転々として生きている人外種。


 赤鬼というのはその中の一つで、初めて人間に対抗した種族なのだ。

 自分達は人間よりも優れている、だから人間の上に立つのは鬼であるべきだ。

 その信条を元に地球上の赤鬼を集め、何時か来るその時を待ちわびていたのだ。

 自分達を追って来る監理局や警察と戦いながら。


 相良理恵がこの世界に産まれたのは、そんな時だった。

 長の子供という事もあり、それは裕福な生活を送っていた。周りからは次期党首様と呼ばれ、幼い理恵は言葉の意味は分かっていなかったものの、自分が特別な存在なのだと薄々は勘づいていた。


 だが、そんな生活は長くは続かなかった。

 理恵が七歳になった時、初めて自分の兄と名乗る男に会った。

 各地で同胞を集めるためにしばらく鬼の集落を離れていたらしいが、妹の誕生という話を聞いて戻って来たのだという。


 初めて会った兄に理恵はただただ嬉しいという感情を抱いた。

 遊んでくれるのは大人しかおらず、子供は次期党首というレッテルに恐怖を抱き、近い年齢の人とは遊んでくれなかったからだ。


『お兄ちゃんあそぼ!』


 理恵が兄ーー相良礼二(サガラレイジ)に対して言った言葉は、これが初めてだった。

 当時の理恵の頭では、兄というのはとにかく妹の側に居て、何時でも遊んでくれる存在だったから。

 それは理恵だけに限らず、ほとんどの兄妹がそうだろう。


 しかし、相良家は普通ではない。

 人外種の中でも一番危険と言われ、恐れられている種族だ。


『呑気な奴だな。自分の役目も知らずに』


 礼二が理恵に対して言った言葉は、これが初めてだった。

 勿論、七歳の少女にその言葉の意味なんて分かる筈もなく、理恵は無邪気な笑みを浮かべながら礼二に近づいて行った。


 恐らく、この時が初めてだった。

 理恵が誰かに殴られたのは。


 当時十歳の礼二だったが、その時点で大人と比べても遜色ない腕力を持ち合わせていた。

 そんな腕で殴られれば少女の体は簡単に宙を舞い、そのまま地面に叩きつけられた。


 そんな光景を見ても、誰も声をかける者はいなかった。

 それほどまでに、鬼の中で長の一存というのは絶対なのだ。何か儀式やしきたりがある訳でもなく、長を長たらしめているのは純粋な力。

 鬼にとって力とは全てであり、己の存在の証明だった。


 何も分からず泣きじゃくる理恵に、やはり礼二は心配する様子もなく冷たく語りかける。


『お前はいずれ一族を背負うんだ。親父もなんでこんなガキにしたのか分からないが、決まったものは仕方がない』


 本来ならば、跡継ぎの役目は礼二の筈だった。

 しかし、二人の父親はそれを良しとはせず、後から産まれた理恵にその役目を背負わせた。

 その理由は礼二自身も知らず、もしかしたら、その劣等感から理恵に強く当たっていたのかもしれない。


 だが、幼い理恵にそんな事は分からない。

 自分が鬼である事さえ把握していないのに、党首だと役目だの言われてもピンとはこなかった。

 あげくの果てには兄に殴られ、その拳は深く心に刻まれた。


 それから、礼二の理恵に対する暴力は増していった。

 鬼は強さが全てを言う。だから強くなれと。


『いやだよ……わたし痛いのいやだよ……』


 毎日毎日殴られ、蹴られ、どれだけ泣き叫ぼうとも止む事はなかった。

 父親でさえもその行いには何も言わず、周りの人間も手を差しのべる事はなかった。


『お前は強くなる責任がある』


 どれだけ言葉を発しても、礼二はそれだけを執拗に口にしていた。

 実の妹に対しても手を緩める事はなく、理恵は泣きながらその日々に耐えるしかなかった。



 それから三年が立ち、ようやく理恵は自分が人間ではない存在だと気付くようになっていった。

 腕が折れても一日で治り、擦り傷程度ならば数時間で再生していた。

 ずっと集落で過ごしていたので、人間という生物と関わる機会もなく、相良理恵の世界はその中で完結していたのだ。


 そんなある日、理恵は一人の人間に初めて出会った。

 礼二の暴力から逃げ出し、集落の側の森をさ迷っている時の出来事だった。

 その人間はボロボロの理恵に対して優しく接し、自分が鬼であると言っても態度が変わる事はなかった。


 理恵は初めて日との温もりに触れ、その時から何時かこの世界から思い描く楽園を夢見始めていた。

 暴力なんて存在せず、誰もが優しく笑顔でいられる世界を。


『おじさんは理恵がこわくないの?』


『怖い訳ないだろ? こんなに小さくて可愛い鬼が』


『可愛い……うへへ』


 理恵にとって、兄の暴力から解放されるその瞬間が楽しくてしかなかった。

 集落で取れた野菜だけしか口にした事のなかった理恵に、その人間は食べ物を与えた。

 コンビニに売っているアイスやお菓子、それから肉等を。


 たったそれだけの事で、相良理恵は笑顔になれた。

 どれだけの仕打ちを受けようと、この安らぎさえあればそれでいい。

 十歳になった少女は、初めて自分の居場所を見つけたのだ。

 優しく暖かい手を差しのべてくれる場所を。


 だが、そんなものが長く続く訳がなかった。


 鬼は人間を恨んでいる。

 人外種を隔離し差別する人間が。

 全てにおいて勝っているのに、数が多いだけで見下す人間が。

 生きる権利を奪い、小さな箱に閉じ込めようとする人間が。


 ある日、理恵が人間と接しているところを誰かに見られた。


 次期党首である理恵が憎むべき人間と楽しそうに笑顔で会話していた。

 その事実は鬼にとって、とても許せる事実ではなかった。

 たとえそれが小さな少女だとしても、許容出来るものではなかった。


 だから、相良礼二はその人間を殺した。


 理恵の目の前で、何度も何度も拳を叩きつけ、優しい笑顔の面影がなくなるまで何度も。

 その時、何故か涙が流れなかった。

 幼いながらも、いずれはこんな時が来るのではと分かっていたからなのかもしれない。


『こいつらは悪魔だ。数が多いだけで上に立った気でいる害虫だ。だから、俺達が、俺が駆除する。お前もだ理恵。鬼が上に立つんだよ、こんな虫に変わって』


 人間の命が失われるのを見ている事しか出来ない理恵に、礼二は表情を変えずにそう言った。

 命を奪っているのに、それが当たり前で当然の事だとでも言うように。


 理恵にとっての安らぎと楽園は、この瞬間に無惨にも消え去った。

 多分、その時だろう。理恵がこの世界から本当の意味で逃げ出す決意を固めたのは。

 こんなのは間違っている。

 笑顔を与えてくれた彼が何故死ななくてはいけないのか。

 当時の理恵にその答えは出せなかったが、間違っている事だけは分かった。



 その後も礼二の暴力は続いた。

 だが、理恵は泣く事を止めた。

 泣いたところで何も変わらず、助けを求めたところで誰も助けてはくれないと分かったから。

 でも、それは諦めた訳ではなかった。


 何時かこの小さな世界を飛び出して、笑顔に溢れる楽園へと一歩を踏み出すその日のために堪えたのだ。

 どれだけ辛くても涙を堪え、誰かに助けを求める事もなく、たった一人で地獄の日々を生き抜いていた。


 そんな時だった。

 パラダイスという人外種だけが住む都市があるという話を聞いたのは。

 パラダイスが楽園という意味だとは知らなかったが、理恵はその響きに引かれた。


 だから、この瞬間を選んだ。

 今までの日々を捨てて、新しい一歩を踏み出す瞬間は今しかないと。

 幸い、理恵にとって集落の地理は全てあたまに入っており、隙をついて逃げ出す事は容易かった。


 昔の理恵ならば無理だったかもしれないが、礼二も人間を目の前で殺し、恐怖を植え付けた事で安心していたのだろう。

 泣き言一つ言わずに自分の拳を受けるその態度も、逃走を成功させた要因の一つだったのかもしれない。


 一心不乱に走り、集落を抜けた先で理恵は自分が鬼だと伝えた。

 その先はほとんど覚えておらず、監理局の人間がやって来て気付いたら理恵はパラダイスに住む事になっていた。


 少女は逃げ出したのだ。

 自分の運命に背を向けて、地獄の日々から。

 楽園へと。



「ーーーーー」


 夢を見ていた理恵の耳に、聞き覚えのある誰かの声が入った。

 理恵がパラダイスに来て、初めて出会った化け物。

 とはいえ、出会ったと言っても一方的に見ただけなので、その声の主は覚えていないだろう。


 初めて出来た友達と呼べる存在。

 自分と同じように、ボロボロになりながらもヘラヘラしてた少年の声だ。

 異質という点において、その少年は鬼を上回っているだろう。


 そんな少年に、理恵は少しだけ親近感を抱いたのかもしれない。

 本当は泣きたいくらいに辛い筈なのに、仕方ないと受け入れていた自分に。


「理恵」


 ゾンビの少年の声を聞きながら、理恵の意識はゆっくりと現実に引き戻されていった。


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