二章九話 『変わらない自分』
それからどれだけの時間が立っただろうか。
秋人は理恵が好き放題に殴られるのを、ただ見ている事しか出来なかった。
何がそこまで理恵を突き動かしているのか分からないが、何度も立ち上がる。
そして、ようやく秋人が立ち上がれるようになった頃、理恵の体は血にまみれていた。
地面に倒れ込み、額から落ちる血がコンクリートを湿らせる。
意識だって朦朧としている筈なのに、理恵は再び立ち上がろうとしていた。
「おい! 理恵! 大丈夫か!」
額を汗で濡らしながら、まだ立ち向かおうとする理恵の側まで足を運ぶ。
左目は完全に塞がっており、僅かに開いた右目すらも光を失いかけていた。現状、意識を失っていない事が奇跡だろう。
骨だってどこか折れているかもしれない。
口から血を吐いているのを見るに、中だってただでは済まないかもしれない。
だが、理恵は立ち上がろうとしていた。
「もういい寝てろ! 直ぐに救急車呼ぶから!」
「だめ……だよ。秋人を守るって……奏と約束した……から……」
秋人の中で、既に男の存在はどうでもよくなっていた。今最優先にすべき事は、理恵の命を守る事だ。
これだけボロボロになっている少女を、これ以上戦わせる訳にはいかない。
本当に、死んでしまうかもしれないから。
「退け」
そんな緊迫した状況の秋人の背中に、冷たく突き放したような言葉が投げ掛けられた。
その言葉を聞いて、秋人は自分の中にある憤怒の感情に火がつくのを感じた。
「妹が死にかけてんだぞ! テメェが何したか分かってんのか!」
「言う事を聞かない妹への教育だ」
「ふざけんな! こんなのが教育な訳ねぇだろ、ただの暴力だ」
「他人の家の事情に口を出すな。そもそも、お前が弱いせいでこうなったんだ」
秋人の怒りを分かっていながらも、男は表情を崩さず、淡々とした様子で言葉を並べている。本心なのかどうなのかは不明だが、本気で教育の一環だとでも思っているのだろうか。
仮にそうなのだとしても、目の前の惨状を黙って見ていられる筈がなかった。
しかし、必死に感情を押し殺した。今この男に挑んだとしても、再び血だるまにされるだけだ。
何よりも優先すべき事は、一刻も早く理恵を病院に連れていく事だと言い聞かせ、秋人はポケットからスマートフォンを取り出した。
病院へと連絡し、慌てながらも現状と場所を伝えた。
電話の向こうから『直ぐに行きます』という返事の後、通話は切られた。
そして、
「これ以上好き勝手にやらせねぇぞ。理恵は俺が守る」
「守る? 笑わせるな、お前の強さじゃ俺には勝てない」
今度は秋人が理恵を守るように立ち塞がる。
男はこれだけ理恵を殴る蹴るしたのにも関わらず、まだ続けようとしていた。
限度何て言葉はどこへぶっ飛び、このまま理恵を殺しかねない。連れ戻すと言っておきながら結果がこれだ。
今、秋人に出来る事は救急車が来るまで理恵を守る事。
現状を細かくは伝える事が出来なかったが、恐らく病院の方から監理局にも連絡が行っている筈だ。ならば、それまでの時間稼ぎーーそれが秋人の今やらなければならない事だった。
「勝てなくたって構わねぇよ。お前を止められればそれでいい」
「無理だな、同じ事の繰り返しだ。お前は俺の前にひれ伏す。それが現実だ」
「やってみなくちゃ分からねぇだろ」
「分かるさ。素人とのお前じゃ相手にならない」
素人、という言葉が出るあたり、何かしらの格闘技の経験があるのだろう。流石の秋人にもあれだけ好き放題殴られれば、その動きが素人のものではない事くらいは分かった。
的確に、そして確実に急所を狙っていた。
紛れもなく、創秋人という少年の命を奪うために。
だが、そんな事は関係ない。この状況で周りに助けを求めれば、この男は容赦なく介入者を叩きのめすだろう。
だから、不死身である自分がやるべきだ。
そう判断し、目の前の驚異と向き合う決意を固めた。
「絶対に守る」
男の方も秋人の心情の変化を感じ取ったのか、僅かに瞳が揺れる。だが、直ぐに拳を握り秋人へと向ける。
「ならば死ね。友が死ねばそいつも戻る決心がつくだろ」
言うが早く、男の姿が秋人の目の前に移動した。音もなく接近され体が一瞬硬直してしまう。が、目で追えるのが困難な事は分かっていた。
だから、回避する事もせず男の拳を顔面で受け止めた。
口内が割け、血の味が広がる。歯も何本か折れた気もするけど、どうせ治るので放置。
頬にめり込んだ男の腕を掴み、
「掴まえたぞクソヤロウ……!」
逃がすまいと、有らん限りの力で男の腕を握りしめた。
避ける事も追う事も出来ないのなら、捕まえてしまえばいい。肉を切らせて骨を断つというやつだ。
拳の衝撃で少しだけ意識が飛びかけたが、意識の首根っこを掴まえて引き戻す。
そして、握りしめた拳を全力で男の顔に叩き付けた。
「無駄だと言っただろ」
しかし、春樹の全力の一撃を受けても、やはり男は顔色一つ変えなかった。根本的に、鬼とゾンビでは勝負にならない。
腕力は勿論、そもそもの身体能力に差がありすぎるのだ。
「クソッタレが……!」
人間を殴った筈なのに、拳から骨を伝って全身に痺れが走る。
顔をしかめ、痛みから生まれた一瞬の隙をつかれ、男が秋人の懐に入り込んだ。そのまま胸元を掴み片腕の力だけで持ち上げると、背中から地面に叩き付ける。
声にならない叫びを上げ、衝撃で呼吸が止まった。だが、直ぐに秋人は意識を正す。
倒れている秋人の視界が、男の靴裏で満たされたからだ。
「死ね」
言葉の直後、秋人の頭を踏み潰すべく男の足が降り下ろされた。が、寸前のところで体をねじり、横へ転がる事で頭が潰れる事から逃れた。
ゴロゴロと数回した後、直ぐに立ち上がる。
「危ねぇ……」
「すばしっこい奴だな」
頭部がペチャンコになる危機を脱した事に、思わず安堵の声が溢れた。
男はかわされた事に対して苛立っているのか、僅かに表情を怒りに染めて舌打ちをした。
一連の流れで秋人が感じた事ーーそれは、現状の創秋人では絶対にこの男には勝てないという事だ。
身体能力、そして技術、全てにおいて秋人はこの男よりも劣っている。旗から見ても一目瞭然なのだが、向き合ってこそ改めて思い知らされた。
先日の通り魔の一件の時とは訳が違う。
目の前の男は、純粋な力に加えて戦闘技術までも持ち合わせていた。
まともにやり合ったとしても時間稼ぎすら出来ない、秋人はそう考え策を練ろうとすると、
「おい! 何をやっているんだ!」
救急車のサイレンと共に、数人のスーツを来た男が走りよって来た。
恐らく、監理局の人間だろう。コンクリートに横たわる理恵、そしてその側で守るように立つ秋人。
この構図を見て、男が現状を起こしたのだとスーツの男達は判断したのか、警告を促す。
「監理局だ! 通報があって来たのだが……これをやったのは君だね? 一緒に来てもらうぞ」
「チッ……面倒だな」
「諦めろ、理恵は絶対に殺らせねぇぞ」
通り魔の時に気を抜いて奏が刺された事もあり、監理局の人間が来ても秋人は気を緩められずにいた。
男が去って確実な安全を確保出来るまでは気を抜けない、頭にそれを刻んで自分に渇を入れる。
「おい、そこの男。理恵に伝えておけ。もう逃げられないと」
流石にこの状況で数人を相手にして逃げられないと思ったのか、男は秋人にそう言って踵を返した。そして、そのまま監理局から逃れるように走り出してしまった。
秋人は一瞬それを追おうとしたが、側でうずくまる理恵が視界に入り、その考えを直ぐに捨てた。
男の事は監理局に任せる、そう結論付け、やって来た救急車に怪我人がここに居ると伝える。
「おい理恵! もう大丈夫だからな、だから少しだけ堪えろ」
「秋人……」
担架に乗せられる理恵に、秋人は頑張るように声をかけた。今はそれしか出来ない自分に歯がゆさが押し寄せ、唇を噛み締める。
理恵はそんな秋人を安心させるように、瞼を腫らしながらも笑顔を作り、
「……よかった。私、守れたよね」
「おう、守られたよ。お前のおかげだ! だから死ぬなよ」
秋人の言葉が届いたのかどうかは分からないが、理恵はそれを最後に目を閉じた。
救急隊員は秋人を押し退け、担架に乗せた理恵を救急車まで運び、そのまま走り去ってしまった。
「君、話を聞かせてもらってもいいかな?」
「……あ、はい」
男を追いかけて行った筈の監理局の一人が、直ぐに戻って来て秋人へと声をかける。
理恵の事で目一杯の秋人は間の抜けた返事で返してしまうが、事情聴取だと分かり大人しく着いていく事に納得した。
(……クソ、奏の時と何も変わってねぇじゃんか)
自分を庇って奏が怪我を負った時を思いだし、悔しさで握りしめた拳から血が滴り落ちる。
成長のない自分に苛立ちながらも、秋人は監理局の車へと乗り込んだのだった。
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