二章八話 『赤鬼の一族』

 その瞬間、秋人は自分の身に何が起きたのか理解出来ていなかった。

 理恵の兄と名乗る男の姿を見失った直後、頭部に硬い物で殴られたような激しい衝撃が走り、秋人の意識はそこで途切れた。


 そして、次に目を覚ますと木製の看板を破壊し、その破片の上に寝転んでいたのだ。

 脳がぐちゃぐちゃになったように視界の中に写る全ての物が揺れ、痛みすら正常に関知する事が不能になっている。


 今まで色々な痛みを経験して来たが、この感覚は味わった事のないものだった。軽自動車に引かれた時も視界がごちゃまぜになったが、その時とは全くの別ものだ。

 この一撃は、正確に秋人の意識と命を刈り取るために放たれた一撃。

 唯一分かった事は、それだけだった。


「あ、秋人!」


 ぐちゃぐちゃになった視界の隅から、理恵が走りよって来る。

 声だけで理恵だと判断したものの、今の秋人の脳では顔までは認識出来ない。脳を激しく揺さぶられ、体への信号が上手く出来ていないのだろう。

 立ち上がろと地面に手をつくが、全く力が入らない。


「秋人! 大丈夫!?」


 車に引かれているのを何度も見ている筈の理恵だが、秋人が怪我をして本気で心配するのはこれが初めてだろう。

 何度も体を揺さぶられ、僅かに喉から声が漏れた。


「……ッ、んだ……よ」


 次第に焦点が合い、心配そうに顔を見つめる理恵と目が交差する。

 痛みこそ和らいでいるが、状況を把握するまでの回復までは至っていない。


「ほう、今ので生きてるのか」


「なんで……なんで秋人に攻撃したの!」


 自分の一撃を受けても尚、命がある秋人に驚いたのか、男が感心したように声を上げる。

 だが、理恵は即座に感情を切り替え、怒りの矛先を男へと変えた。


「なんでだと? そこの男が邪魔だからだ。用があるのはお前だけだ、部外者の話に付き合っている隙はない」


「だからって、いきなり蹴らなくても良かったじゃん!」


「……黙れ。お前と会話するつもりはない。大人しく俺と来い」


 言い合いを続ける二人の外で、秋人の意識はようやく覚醒を始めた。耳に入った言葉を聞くに、恐らく男に蹴られたのだろうが、見えないどころか何をされたのかすら分からなかった。

 回避も防御も、間に合うなんて次元の話ではなかった。


 腕に力が入る事を確認すると、フラフラとよろけながらも立ち上がる。

 蹴られた際に出来たであろう頭部の傷から、血が滴り落ちて頬を伝う。それを乱暴に拭き取り、


「待てよ……。理恵は行かせねぇって言った筈だぞ」


「これは驚いたな。死なないどころか立ち上がるのか」


「頑丈さには自信があんだよ。この程度で殺せると思うな」


 驚いたと言いつつも表情の変化が伺えない男に、喧嘩を売るように言葉を吐く秋人。

 だが、それを遮るように理恵が腕を掴んだ。


「ダメだよ! 逃げよ!」


「逃げるって……お前」


 その言葉が何を意味しているのか、秋人は理解するのに数秒を有した。

 相良理恵が逃げると口にしたのだ。

 どんな時でも物怖じせず、相手が通り魔だろうと立ち向かった少女が焦燥を滲ませながら。

 でも、だからこそ引く訳にはいかなかった。


「断る。こちとら一発貰ってんだ。お前の家の事情がなんか知らねぇけど、やられっぱなしなんて我慢ならねぇ」


「今回はダメなの! 秋人じゃお兄ちゃんに勝てないよ!」


「うっせぇ、不死身の俺は勝てなくても負ける事もねぇんだ。気が済む一発をぶち込んでやる」


 理恵の制止を振り切り、秋人が一歩を踏み出した。いぜんとして理恵は袖を掴んでおり、意地でも二人の衝突を避けたいようだ。

 だが、頑なにゾンビの少年は譲らない。


 秋人をそこまで突き動かしているのは、蹴り飛ばされた事に対する怒りではなく、震えていた理恵の手を見たからだ。

 二人の兄妹間の問題等全く知らないが、それだけで秋人は立ち向かう事が出来てしまったのだ。


「……俺とやり合う気か?」


「たりめーだ。思いっきりぶん殴る」


「後悔するなよ。俺はお前を殺すぞ」


 その言葉の後、男は膝を曲げて態勢を低くした。秋人が捉える事の出来なかった一撃、それを放った時と同じ構えに入る。

 そしてーー、


「ーーッ!」


 再び秋人は男の姿を見失った。男の蹴りあげた地面は摩擦で焼け焦げ、その速度で回避不能の一撃を繰り出す。

 そもそも、見えないのだから避けようがない。だから、秋人は見る事をしなかった。


 予知でも何でもなく、顔を殴られるという一点に可能性を賭け、男が姿勢を低くしたのと同時に上体を後ろに反らせた。

 結果として、男の拳は秋人の眼前を通過。

 ただの拳とは思えない風を切る音を出し、鼻先を掠めた。


「あ……っぶねぇ!」


 避けるのに必死で反り過ぎた体が倒れそうになるが、腹筋に渾身の力を込めて体を起こす。そのまま起き上がる反動を使い、握りしめた拳を男の顔面へと叩き込んだ。

 素人の拳とはいえ、殴った秋人からすればクリーンヒットだった。だが、


「……軽いな」


 男は顔色一つ変えずに、低い声でそう言い放った。

 そして、秋人は違和感に気付く。

 完璧に決まった右ストレートは全くと言っていい程ダメージになっておらず、あろう事か殴った筈の秋人の拳から血が流れていた。


 巨木を殴ったかのような堅さに、秋人の拳が割けたのだ。効いていない、何てレベルの話ではなかった。

 痺れと共に痙攣する拳をおさめ、男から一旦距離をとる。


「……お前、人間じゃねぇだろ」


「理恵の兄と言った筈だ。俺もその女と同じ鬼の一族だ」


「兄妹揃ってかよ……」


 拳から回る痛みに顔をしかめながら、つよがるように口を開く。

 秋人は鬼の人外種について詳しい事はほとんど知らないが、理恵を見ていればどれだけ強力なのか分かる。


 自動車を持ち上げ、素手でコンクリートを破壊しするような人外種だ。

 理恵の性格だからあまり狂暴性は感じないものの、悪意の持った存在がその力を故意に使えばどうなるのか。

 その答えが、目の前に居る男だ。


「そいつと一緒にするな。力の使い方すら知らず、一族の長になる事から逃げ出すような奴と」


 男の言葉を受け、理恵が目を逸らすように地面へと顔を向けた。

 自分の服の裾を掴み、歯を食い縛って。


「一族の長? なんだよそれ」


「赤鬼ーー俺とそいつは鬼の中でも高い身体能力を持つ種族なんだよ。それこそ、いずれ人間の上に立つ事の出来るな」


 秋人にとって、赤鬼という単語を耳にするのは初めての事だった。

 鬼の人外種には大きく分けて二種類あり、通常よりも身体能力の高い赤鬼と、人間より僅かに上の青鬼がある。


 その情報は公にはされておらず、あくまでも科学者達の中での呼び名だ。そんなものを秋人が知っている筈がなく、眉を寄せてしまうのも仕方ない。

 だが、秋人が気になったのはそこではなかった。


「人間の上に立つって……お前ら何考えてんだ」


「それを言う必要があるのか?」


「共存する、って意味じゃねぇよな」


「笑わせるな。俺達よりの下の生物と共存だと? 人間は人外種に従っていればいいんだよ。これから先の時代は、俺達人外種が生物の頂点に立つ」


 冗談でも何でもなく、口を開く男の顔は本気だった。

 言葉の意味は理解出来た。だが、到底受け入れられる内容ではなかった。

 今まで秋人が出会って来た人物の中で、そんな事を言う人外種は初めてだったから。


「理恵を抜きにしても放っとける事じゃねぇな」


 この男はヤバいと、秋人の本能と直感がそう叫んでいた。

 人間の上に立つ具体的な方法も、そんな考えにたどり着いた理由も知らないが、共存を望む秋人からすれば、この上ない程の危険人物だ。いや、危険な一族なのだと。


「少し話過ぎたな。お前を殺して理恵を連れていく」


「やれるもんならやってみやがれ」


 男が腕時計で時間を確認し、それから秋人へとむき出しの殺意を鋭く突き刺した。

 通り魔との時にも感じたが、それとは段違いのレベルだった。

 純粋な恐怖で怯えている訳ではないのだろうが、後ろで肩を揺らす理恵の姿がそれを物語っている。


「だめ……秋人だめだよ」


 理恵の消え入りそうな声が耳に入った直後、男は秋人に向かって直進した。

 目で捉える事は出来たが、早すぎて避けるのは不可能。瞬時に防御へと脳を切り替え、腕をクロスしてガードするが、


「な……!」


 ガードなんて通用しなかった。

 男の拳が秋人の腕にめり込み、骨が砕ける音を響かせながら腕を弾かれた。

 防御するための盾が無くなり、完全に無防備になった顔面へとアッパー。


 顔面が跳ね上がり、首ごとぶっ飛びそうな衝撃が襲う。しかし、意識が飛ぶ事を許さず、男のストレートが腹へと深々と突き刺さる。

 みぞおちを正確に打ち抜かれ、膝が折れてその場に倒れそうになるが、


「まだだ」


 倒れる事すらさせてはもらえない。

 言葉の直後に髪の毛を乱暴に掴まれ、肘が鼻っ柱に叩き込まれた。鼻が潰れ、鮮血が飛び散る。

 しかし、そんな事はお構い無しに秋人は肩を掴まれ、力付くでぶん投げられ、ガードレールに背中を叩きつけられた。


「が……ぐぅ……」


 体のあちこち、そして内部から痛みが暴れている。口からは血が流れており、内臓がいくつか潰れたと思われる。

 正常に呼吸する事すらままならず、肺が酸素を求めていながら上手く吸い込めずにいた。


 ガードレールに叩きつけられ、地面に落下した秋人。

 コンクリートの冷たさを頬に感じながら、必死に立ち上がろうと鼓舞する。

 男は顔色一つ変えず、倒れた秋人に追撃の手を加えようと一歩ずつ歩み寄って来る。


「止めて!」


 満身創痍の中、秋人の前に立ち塞がったのは理恵だった。両手を広げて庇うように。


「退け、邪魔だ」


「秋人は関係ないじゃん! 私に用があるんでしょ!」


「……お前が直ぐに着いて来ていればこんな事にはならなかった。お前のせいでそいつは傷つき、これから死ぬんだ」


「させないよ。秋人は私が守る」


 理恵が震えながら構えをとった。何時ものような強気な態度も活気も見られず、恐怖を無理矢理ねじ伏せているようだった。

 秋人は何とか立ち上がろうとするが、体が言う事を聞いてくれない。


「お前が守る? 笑わせるな、お前は誰も守れやしない。弱いだけのガキが調子に乗るなよ」


「関係ないもん。お兄ちゃんは私が止める」


 男の威圧に怯まず、理恵が真っ直ぐに睨み付けた。

 男はその顔を無表情で眺め、それから僅かに微笑んだ。楽しくて溢れた笑みではなく、下らないと言いたげに。

 そして、理恵が飛び出した。が、


「そういう所が、俺の堪に触るんだよ」


 理恵の右ストレートを顔を横に倒す事で意図も簡単に往なし、カウンターの一撃を顔面に叩き込んだ。

 宙を舞った理恵の体はそのまま地面に落下。

 秋人の目の前に横たわる事になった。


 しかし、地面に拳を叩きつけて直ぐに立ち上がる。同じ赤鬼とはいえ、力の差は目に見えていた。

 それでも、理恵は再び秋人を守るように立ち塞がる。


「バカ……ヤロウ……。そこを退け」


「嫌だよ。秋人は私が守るもん」


 秋人の言葉など聞く耳をもたず、口角から滴り落ちる血液を服の袖で拭き取った。

 体の再生は始まっている。が、まだ立ち上がられる程ではない。

 トラックに引かれても数秒あれば治っていたのに。


「……そうだな、最初からこうすれば良かったんだ。お前をのして連れていく。多少の怪我もやむを得ないだろ」


 ゆっくりと、男が理恵に接近する。

 理恵は怯まず立ち向かうが、その度に打ちのめされる。

 殴られ、蹴られ、叩きつけられ、何度も何度も。

 打撃によって腫れた瞼は、理恵の左目を完全に塞いでいた。それでも、止まる事はなかった。


 どれだけ打ちのめされようとも、何度も何度も。

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