二章五話 『無愛想とチャラ男』
目にかかるくらいの黒髪に、感情の色が見えない瞳。
顔つきだけで年齢を予想するとしたら、秋人よりも僅かに下だろうか。
光を失った瞳からは、言葉にし難い意思や怒りといったものが見え隠れしている。
兄ーーその言葉を聞いても、秋人は緊張の糸を緩める事を許さなかった。
だってそれは、家族に向けられる視線ではなかったから。
妹を見る兄の瞳ではなかったから。
秋人には兄も妹も居ないけれど、絶対にそれは違うと断言出来た。
兄妹喧嘩なんて生易しいものから生まれた怒りではなく、もっと憎しみにも似たものだ。
目の前の男は、それを理恵に向けていた。
「兄貴……?」
「あぁ、れっきとした兄妹だ。血も繋がっている。本当に残念な事にな」
「残念って、どういう意味だ」
「言葉通りの意味だ。自分の運命から逃げ出した愚かな妹だよ」
どこまでも、どこまででも口調が変わらない。
向けられた怒りはブレる事なく真っ直ぐに、鋭利な刃物のように隣で眠っている少女に突き刺している。
「仮にお前が理恵の兄貴だとして、何の用だ」
「用と言う程のものじゃない。ただ、連れ戻しに来たんだ」
「連れ戻す……?」
再び前に向き直り、男は腕をバスの降車ボタンへと手を伸ばす。
バスが停車する前に立ち上がると、
「その女に伝えておけ。タイムリミットだとな」
「ちょっと待て! まだ話は……」
停留所にバスが停車すると、男は静かな足取りで降りていってしまった。
思わず掴もうと手を伸ばしたが、頭を預けて来る理恵が身をよじり、そのせいで秋人の手は届く事なく空を切った。
数分の出来事だったが、秋人は呆気にとられていた。
今の人物が理恵の兄だという事は理解出来た。理解は出来たが、信じる事はしなかった。
正直、あまりにも似ていなさ過ぎた。
理恵の無邪気な笑顔に通じるものなんて一切感じないし、感情の光が見えない瞳から受けた凍てつくような冷たさなんて言語道断だ。
でも、ほんの少しだけ、たまに見せる寂しげな表情に似ていた。
それでも、認める事なんで無理だ。
「ん……どしたの?」
停留所を出発してしばらく走っていると、何事もなかったかのように理恵が目を覚ました。
寝ぼけているのか、目が虚ろで口元もおぼついていない。
何があったのか悟られまいと、強張った表情を強引に崩し、秋人は理恵の頭を撫でた。
「いや、何でもねーよ。まだ着くまで時間あっから寝てろ」
「……うん」
撫でられればそれを気持ち良さそうに受け入れ、理恵は再び夢の中に入って行った。
安らかに寝息を立てるその横顔を撫でながら、秋人は窓の外を眺める事で自分の気持ちを落ち着かせる事に徹したのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
翌朝、学校に向かう途中で秋人は悩み考えていた。
校門を抜けて下駄箱にたどり着き、上履きに履き替える事も忘れて立ち尽くす。
悩みの種というのは、勿論昨日のバスでの出来事だ。
理恵の兄と名乗る男に出会い、訳の分からない伝言を頼まれた。
結局、理恵には伝えておらず、あの後は一人神妙な顔つきをしながら別れた。
というのも、男の言葉を完全に信用した訳ではない事に加え、理恵には伝えるべきではないと判断したからだ。
それは秋人の独断でしかないが、それが正解なのかどうかは分からない。
だからこそ、こうして悩んでいるのだが。
「やっぱ伝えるべきだったかな……。つか、兄貴も鬼なんかな」
喉を鳴らしてうなり声を上げ、周りの視線も気にせずにその場で腕を組んで考える。
時々怪しい者を見るような視線を感じるが、今の秋人はそんな事は意中の外だ。
ブツブツボソボソと気味の悪い一人言を呟いていると、
「ねぇ、そこ邪魔」
横からかけられた女性の声が耳を通過した。
個人を指して言葉を投げ掛けられて無視する訳にもいかず、秋人はその声の方向に体を向けた。
肩にかかる程度の黒髪に、冷めたように揺らぐ事のない瞳。凛として大人びた雰囲気を全体的に見られるが、少しばかり突き刺すような硬いオーラを纏っている。
上之薗真弓ーー秋人のクラスメイトだ。
しかし、秋人は彼女についてほとんど知らない。
前に一度『退いて』と声をかけられたくらいで、今のを会話に含めるのなら二度目の会話だ。
クラスの中でも一人浮いていて、何時も一人で居るのを良く見ている。
「おぉ、悪いな」
「別に」
無愛想な返事を短く残すと、振り返る事すらせずに履き替えて行ってしまった。
近寄りがたい雰囲気を倍増させているのは、あの仏頂面も相まっての事だろう。
何時もの秋人なら口に出して指摘するのだが、今はそんな余裕がない。
改めて思考を巡らせ、理恵の兄について考えていると、今度は先ほどとは間反対の能天気な声と共に肩を叩かれた。
「よっ! 朝から随分と難しい顔してんなぁ」
「あ? なんだ、将兵かよ」
「なんだとはなんだよ。暗い表情の友達に気を使って声かけてやったのに」
佐藤将兵ーー秋人のクラスメイトだ。
染めたての金髪に遊んでそうな風貌。ネクタイも緩めて左耳にはピアスをつけている。一見お茶らけているようだが、友達を心配する良心はあるそうだ。もっとも、秋人が心配で声をかけたという訳ではないのだが。
「別に頼んでねーだろ」
「あーあーあ、そんな事言っちゃうんだ」
素っ気なく答える秋人に、将兵が周りのウロチョロしながら意味ありげに不気味に微笑んだ。
明らかに何か企んでいる笑みに不安感を煽られ、逃げ出そうとするが、
「お前、機能理恵ちゃんとプール行ってただろ?」
「……何でそれを知ってんだよ」
「いやぁ、たまたま俺もプールに行っててよ」
「胡散臭いな」
特に疚しい事は無いので、別に立ち止まる必要なんてなかったのたが、どうにも将兵のニヤニヤと口元の波打ち具合が気になってしょうがない。
秋人は大人しく歩みを止め、将兵の話に耳を傾ける事にした。
「んで、どうなんだ? 何かあったのか?」
「何かって、何もねぇよ」
「嘘つけ。俺は知ってるんだぜ?」
ようやく将兵が何を言いたいのか理解した秋人。
しかし、一緒にプールに行ったと言っても、ほとんど行動を共にはしていなかった。尚且つ、後半の記憶が何故か吹っ飛んでいる。
なので、期待しているような事は一切無い筈なのだが、
「じゃじゃーん。ほれ、これ見てみろ」
首を傾げて将兵が何を取り出すのか見ていると、一枚の写真を取り出した。
『ほれほれ』と催促するように写真を差し出され、秋人は受け取った。
手渡された写真を何の気なしに見ると、そこには大胆にも佐奈の胸に触れている秋人が写っていた。
「な、なななんじゃこりゃぁ!」
全く見に覚えの無い写真に思わず絶叫。
一階はおろか、廊下を走り抜けて学校全体に轟くのではと錯覚する程の叫び声だった。
それなのにも関わらず、隣に居る将兵は耳を塞がずに心底楽しそうにしている。
「プールで佐奈さんの胸に触るとは。お前は俺が思ってたよりも大胆なんだな」
「バ、ちげーよ! こんなの記憶にねぇから!」
「そんな事言っても物的証拠があるんだぞ?」
「だから! んな事言われても記憶が……」
ハッとなり、昨日の出来事を思い出すべく記憶の山を探り始めた。
理恵とプールへ向かい、その後に佐奈と出会った。
理恵を探すために二人で歩き、理恵を見つけた辺りからの記憶が曖昧だ。
それに、起きた時には佐奈の姿が見えなかった。
閉館時間が迫っているから帰ったと思っていたが、もし、それが違うとすれば。
自分の記憶が無い理由は、外部の衝撃によるものだとすれば、顎の痛みも納得だ。
「マジかよ……」
自分がどんな事をしでかしたかを理解し、自責の念から目を逸らそうと両手で顔を覆う。
もし、この予想があってるのだとしたら、次に会った時にどんなに酷い目にあわされるのやら。
「まぁまぁそんなに落ち込むなよ」
「お前! 次会ったらどんな目にあうのか分かってんのか!? 前回の比にならねぇよ絶対に……」
「そりゃ……肉塊になる程度じゃ済まないだろうな」
自分が佐奈の胸に突っ込む瞬間がフラッシュバックし、その感触が一瞬だけ手に甦った。しかし、継ぎの瞬間には将兵の発言によって、だらしなく歪んだ顔も青ざめ、ゾンビの少年は死を悟った。
恐らく、ボッコボッコのグッチャグチャのベッチャベチャなんてレベルでは足りない。
「そんなお前に……俺からのプレゼントだ」
手で激しくアピールする秋人。
わざとらしく涙ぐみ、将兵は持っている写真を差し出した。
「……あ?」
「この写真をお前にやるよ。写真を見て佐奈さんの胸の感触を思い出すくらいは、死ぬ前のお前にだって許される筈だ」
「しょう……へい……!」
将兵の心遣いに感銘を受けて、何故か秋人までもが涙ぐんだ。
そもそもの論点がどこかにぶっ飛んでしまっているのだが、今の秋人には気付くよしもない。
この後に刻まれるトラウマの事を考えれば、やれる事と見れる物は全て脳みそに刻み込みたいーーそれが今の秋人の思考回路だ。
なので、何の躊躇いもないまま写真を受け取り、
「サンキュー相棒! これは俺の宝にするぜ!」
「おうよ!」
お互いの友情を確かめるように力強く握手。
もはや何について悩んでいたのかすら忘れているアホ二人だったが、背後からかけられた声によって現実に引き戻される事になった。
「おはよー。何してるの?」
「理恵か。おっす」
「理恵ちゃんおはよーっ」
理恵の純粋なきらめく瞳と無邪気に首を傾げる仕草から、自分達がどれだけ汚れていたのかを理解。ただし、写真は静かにポケットに忍ばせた。
先ほどまでの不安はどこへやら、三人は並んで教室を目指す事となった。
教室に着いて、まず秋人がする事は二人の生徒を探す事だ。
一人目は勿論、登坂奏だ。
しかし、こちらは入院中という事もあり、やはりその姿は見られない。
二人目は金髪眼鏡の少女ーー三ヶ島花子。
会う度に学校に来るよう告げているのだが、一向に来る気配がない。
毎回ほんの少しだけ申し訳なさそうにしている事から、一応来るという気持ちはあるのだろうが。
「しゃーねぇか」
無意識に出た呟きに、将兵が訝しげな様子で反応する。
「奏ちゃんか?」
「まぁな、来週には退院出来るってよ」
「お、マジでか。んじゃ、退院祝いに何かやるか?」
「そーすっか。あいつそういうの喜びそうだし」
「やるー!」
他愛ない会話を済ませ、授業の始まりを告げるチャイムが耳に入れば、三人は自分の席に着いた。
それぞれが授業の準備を進める中、秋人の視線はやはり理解に奪われていた。
(やっぱり言うべきだよな。兄妹なんて滅多に会えるもんじゃないし)
結局、その日の授業は理解に事実を伝えるべきか伝えないべきかを悩みに悩んだ挙げ句、授業の内容がほとんど頭に入らないまま放課後を迎えた。
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