ヘチマのせい
~ 八月二十六日(土) 35℃ ~
ヘチマの花言葉 ひょうきんな
俺が持っている、一番古い記憶。
子供用にあつらえた二つの椅子と、低いテーブル。
そして二つのショートケーキ。
ちいさく切ったショートケーキはイチゴばかりが大きく見えて。
どっちのケーキにも二本ずつロウソクが立っていて。
サッシに揺れる白いレースカーテン。
窓辺にできたぽかぽかの陽だまり。
鳥の声と花の香りに包まれた、色褪せることの無い思い出。
そんな思い出の中で、となりの椅子には女の子が座っている。
へらへらと楽しそうに俺を見て、右手に持ったイチゴを半分頬張ると、目を真ん丸にして嬉しそうに手足をぱたぱたとさせるんだ。
そして、俺は泣きだした。
それ、ぼくの。
母ちゃんとおばさんが慌てる中、その子は俺の頭をぽんぽん撫でてあやしだす。
それがなんだか優しくて。
えへへと笑うと、その子もえへへと返してくれた。
当時は「ほっちゃん」と言えなくて。
「ほーちゃ」と呼んでいたお友達。
俺の事を「おとなりさん」と呼んでいたお友達。
彼女の名前は
今はあの頃と違って、こんなに綺麗な夏のお嬢さんになった。
時は緩やかに、そして確実に移ろうのだ。
いつまでも続くように思っていた夏が、今日で終わりを告げるのと同じように。
行かないで欲しい。
変わらないでほしい。
子供のような願いを聞いた潮風が、くすくすと笑い声を残して俺たちの間を拭き抜ける。
彼女の髪をなびかせながら。
あの頃と違う、長い長い黒髪をなびかせながら。
でも、なにも変わらない物もある。
移ろいゆく景色の中で、俺たちを取り巻く世界すら変化していくのに。
きっと、これだけは永遠に変わることは無い。
どうして君は、俺のイチゴをまず最初に食べるのか。
夏の終わり、潮風が彼女の黒髪をなびかせる。
🌷 ~ 🌷 ~ 🌷
ぎこっ。ぎこっ。
リズムに乗せて、リアカーが息を吐く。
太陽はさっきより小さくなったから、気温だって下がっているはずなのに。
左右に続くキャベツ畑。
鮮やかな緑色に挟まれた踏み固め道をがたごと進む俺の顎から、汗がだらだら流れて落ちる。
だから、さっきから言ってるじゃないか。
もう、夏、終われってば。
「二歳の誕生日? すごいの。あたしなんて、今朝食べた物も覚えてないの」
「これはね、記憶というよりトラウマなのです」
今では当たり前すぎてなんとも思わないけどさ。
当時は相当悲しかったんだ。
だからはっきりと覚えてる。
いや、悲しかったと言うか、君の行為に恐怖を刷り込まれたんだと思う。
だって、俺が覚えてる二つ目に古い記憶の中で、ロウソクが三本挿さったショートケーキを泣きながら君に差し出してる姿が見えるもの。
もちろんそんなことを君が覚えているはずは無いだろう。
車の中で、朝ごはんが美味しかったのとあれだけ自慢げに語っていた梅紫蘇のおにぎりの事も忘れちゃうくらいだしね。
遠くに見える舗装道路をたまに通り過ぎる車が、ピカピカと銀色の光を放つ。
お日様、容赦なし。
俺、こんなくらくらした状態で車道に出て大丈夫なのかしら?
海岸を出て、かれこれ十五分。
かつて見たはずの景色を眺める穂咲に、なにか思い出したことは無いかとたずねてみたら、昔の記憶の話になってしまった。
そこで驚愕の事実を突きつけられたわけです。
この人、まるでなんにも覚えてない。
でも、よく考えてみたらこいつにとってはいつもの事。
想定の範囲内なのです。
そんなことよりも、想定をはるかに上回る現実の方が目下の課題なわけで。
ぎこっ。ぎこっ。
リズムに乗せて、リアカーが息を吐く。
痛い。熱い。
サンダルは失敗だった。
ちゃんと革で固定できるタイプとはいえ、焼けた砂が入り放題。
舗装道路まで出たらお店は目と鼻の先だけど、その道路が遥か彼方に見える。
道半ばにして、もう限界です。
さっきまで、後ろに振り向いて話しかけてあげたけど。
正面を向いたまましゃべらせていただきます。
「しかし、ほんとに何も思い出せないのか? 自信満々だったくせに」
「道久君が思い出せないのに、思い出せるわけないの」
「あれま、おかしいな。作業分担忘れちゃった? 出がけに言ってたじゃない。思い出すのは君の仕事。俺の仕事は、そうやってボケる君へのツッコミ」
歩きはじめてから何度聞いても、こいつは思い出の引き出しを開こうとしない。
なにか、開けたらまずいものでも入ってるのかな?
あるいはびっくり箱になってるとか。
……ありえそうだな。もちろん後者。
頼りにならないこいつに聞いても仕方がない。
とは言うものの、前を向いていたでは何も思い出せん。
こっち向きだったのは君のとこのおじさんだし。
これで何かを思い出したらちょっとしたホラーだよ。
「うーん。なにも思い出せん」
そう言えば、もひとつ思い出せないものがあるんだよな。
一度だけおじさんとキャッチボールした気がするんだけど、どこだったっけ?
考えれば考えるほど、頭の熱が上がっていく感じ。
もう限界。
「思い出すの、もう放棄です。暑い」
「暑い時は、ヘチマを食べるの」
「なにそれ。食べられないでしょうよあんなの」
幼馴染ゆえに通じ合う特殊能力でもあるのだろうか。
背中合わせなのに、穂咲が見ている方向が良く分かる。
俺も右手に首を傾けると、陽炎に揺らぐキャベツ畑の向こうにヘチマ棚がぽつんと立っていた。
「ヘチマって、化粧水とか取るためのものじゃないの?」
「美味しいの。食べたことあるの」
「うそだー。いつの話よ?」
「五年前の八月なの。おばあちゃんのおうちに行ったとき作ってくれたの。煮物」
…………ウソだろ?
いや、ヘチマの話じゃなくて。
なにその正確な記憶。
君の記憶の扉、もっと必要な部屋に付けないか?
その部屋にノータイムでたどり着ける必要無いよ?
「ウリ科は、食べれる物が多いの」
「ウリ科だって食えないもの一杯あるだろ。ひょうたんとか」
「食べれるの。八年前の九月に、香澄ちゃんのお宅で炒め物にして食べたの」
「……びっくりだ」
「ねー。あんな形なのに、甘くておいしいの」
もちろん俺が驚いているのは、君の意味不明な記憶回路のことなんだが。
「だったら覚えてるだろ? 今朝食べたおにぎりの具は?」
「そんなの覚えてるわけないの」
「おかしいだろ」
改めて思う。
変な奴だ。
インパクトのある食べ物とそうでない物との差は確かにあるような気もするけど、だからってそこまでの扱いの差はなに?
ずっと一緒に過ごしてきたはずなのに、俺は君を半分も理解していない。
きっとこれからも、俺が飽きることなんかないんだろう。
そんな、夏の奇想天外さん。
小さな幸せを俺に運んでくれていたようで。
話に夢中になっている間に、気付けば舗装道路が目と鼻の先。
あっという間に時間が過ぎていた。
暑さも辛さも忘れていた。
ぎこっ。ぎこっ。
リズムに乗せて、リアカーが息を吐く。
その音も、なんだか楽しく聞こえてきたよ。
「八年前の記憶か。すごいな。俺なんて、一年前に食べた物も覚えてないのに」
「そうなの。あたしは美味しいのについては道久くんより記憶力がいいの」
「どの口が言いますか」
「うさぎ~、美味しいの~、かのやま~♪」
「まさかそれも何年か前に食べたのか?」
楽しそうに歌いだした、呑気な夏のお嬢さん。
こいつの歌には、人を幸せにする効果がある。
ああ、俺は歌が下手だと思っていたけど、この子よりはまし。
そう励ましてくれるのだ。
調子と音程、どっちも独創的な『ふるさと』を耳にしながら、俺は舗装道路の手前で一旦停止。
歩道が狭い。
これじゃリアカーが車道に飛び出しちゃう。
ちょっと勇気がいるな。
俺だけならいいけど、呑気に歌を歌って右へ左へ揺れるこいつを巻き込まないようにしなくちゃ。
慎重に。
でも、ちょっと急いで。
ぎこっ。ぎこっ。
リズムに乗せて、リアカーが息を吐く。
一台だけ向かい側から車が来たときには緊張したけど、なんとかスーパーの駐車場に到着してホッと胸を撫で下ろした。
記憶には無いけど、きっとリアカーの後ろではしゃぐ俺たちをよそに、おじさんも同じ心地を味わったんだろうな。
「スーパーの軒先に野菜の露店とかもあるのな。皆さんが一斉に俺のこと見てるんだけど、商売敵にでも見られてるのかな」
「あたし売り物? ドナドナ?」
「売れないよ、君じゃ」
「可愛いあたし~、売られてゆくの~♪」
「はいはい。可愛い可愛い」
俺はため息をつきながら、白い駐車枠の中へきっちりリアカーを停止させて、握りっ放しだった錆びだらけの持ち手を放した。
でも、当然降りているだろうと思っていた可愛い夏の子牛ちゃん。
ぼけーっと座ったまんまだったようで。
再び盛大に尻餅をついて、泣き出した。
悲しそ~な瞳で、にらまれた~♪
🌷 ~ 🌷 ~ 🌷
見慣れたスーパーとはえらい違い。
でかいよ、棚が。
口をポカーンと、目線をきょろきょろさせながら、カートを押して穂咲の後をついて行く。
買い物については穂咲に頼らざるを得ない。
でも、判断がつくめちゃくちゃについては無言で却下だ。
今も穂咲が後ろ手にカートへ入れたキャビアの瓶詰。
そのまま俺が棚へと戻す。
どうやってバーベキューの串に刺す気なのさ。
しかしこの風景、見覚えがあるような無いような?
そして、なにか大切な物があったような。
「……君に聞くのは間違いだと思うんだけどさ、俺、ひょっとしてここで何か大事な物を見た気がするんだよね」
「スーパーで?」
「いや、海で……、かな?」
「うん、見てるの。知ってるの」
え?
思わず足を止めると、三歩だけ進んだ穂咲がスカートを翻して俺のことを意味深な視線で見つめてきた。
いつもは視線だけでニュアンスが伝わるのに。
優しさなのか。楽しさなのか。あるいは寂しさか。
意味を測りかねる理由は、穂咲の瞳の色だ。
いつも、軽い髪の色との対比で黒っぽく見えるタレ目。
今日はその内に、深い茶色の宝石を輝かせていた。
「穂咲が、俺の探している記憶を知ってる? で? それはなに?」
「青いピカピカなの」
…………は?
「詳しく説明してくれ。それ、なに?」
「知らないの。探して欲しいの」
「……えっと、俺の思い出の話だったはずだよね?」
「なに言ってるの? あたしの思い出の話なの。道久君が見つけるの」
「うそでしょびっくりしたよ。なにその合気道の達人」
相手の力を利用して最大限の攻撃を叩き込むとか。
しかもなに? 青いピカピカ?
「それは……、切子細工みたいなもの?」
「ううん? えっと、青い蛍光灯みたいなのだと思うの」
「じゃあ、ブラックライトかな」
「なにそれ。怖そうなの。タオルケットが無いからやめて欲しいの」
そうだね、怖いものを見た時の君のエスケープゾーンがここには無いね。
あれが無いと手が付けられないことになるからな。
……そう言えば、電池式のでかい蛍光灯が車に転がってたな。
ブラックライトをあれに付けて光らせたのかな?
「別に怖いものじゃないよ。青っぽく光って綺麗なんだ。今度、家でやってやるよ」
「ううん? ここにあったのを見たいの」
さいですか。
でも、こんなとこで売ってるかな?
カートをUターンさせて、生活用品のコーナーへ。
ええと、洗剤、下着、花火、電池、電球……、お?
「あったよ。埃かぶってるけど。おじさんもここで見かけて買ったのかな」
千五百円か。
これくらいなら母ちゃんも目くじら立てるまい。
念のため、棚に置かれた三本のうち一番奥のライトを引っ張り出す。
そしてカートに入れようとして振り向くと、どこかで見覚えのある光景が俺を待っていた。
「……お徳用なの」
「安いからいいけどさ、大会でも開くの?」
「これ、好きなの」
「知ってますけど」
穂咲が手にぶら下げているものは、線香花火ばかり大量に詰まったビニール袋。
……が、両手に一ヶずつ。
「一つにしなさい」
ふるふる。ではなく。
「駄目です。量的に、一つならあらまあ仕方ない子たちねえで済むけど、二つだとバカなの? って言われます」
カートにぎゅー。でもなく。
ああ、頭痛い。
……でも、買い物に来てよかったよ。
二つの思い出と出会うことが手来た。
一つは、お前の思い出。
このブラックライト。
きっと砂浜に、青いピカピカが浮き上がることになるだろう。
もう一つは、俺の思い出。
レジを済ませているおじさんの後ろ、その線香花火が詰まった大きなビニール袋をずるずる引きずって通り過ぎて行く四歳くらいの女の子。
――記憶って、いつまでも消えないんだな。
ただ、どこにしまったか分からなくなっているだけで。
ただ、きっかけが無ければ探そうとしないだけで。
楽しそうに歌を口ずさみながら歩く穂咲。
君は、あの時もこの袋を手にしたこと、覚えているのかな。
こんなに大きくなったけど。
こんなに綺麗になったけど。
いつまでも、君は変わらない。
俺はそんな背中を見つめながら、黙って一袋の線香花火を棚に戻した。
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