7−3

引っ越し作業は驚くほどに簡単だった。

何しろ先輩の私物は、本や衣服を含めてもダンボール一つ分にも満たなかったからだ。

血塗れのテーブルや布団は捨てるしかない。

シンクにあった数少ない食器も、血塗れの現場に放置されていた以上使いづらいので処分した。

冷蔵庫も既にあると聞いていたので、これも持っていかない。

押入れの中にあったために被害を免れた三着のジャージと数冊の本、そしてかなり頑張って綺麗にしたノートパソコンだけが、先輩の財産だった。

わざわざ車を出してもらう必要もなかったので、先輩の部屋から事務所までダンボールを自分たちで運び、それで引っ越しは終わりである。


事務所の二階に入ったのはその時が初めてだったのだが、思っていたよりしっかりとした家だった。

一階の事務所内から繋がる階段の他、外から直接二階に上れる階段もある。

事務所内からの入り口はこれまで開放されたままだったらしいが、施錠も可能なタイプだったので心配はいらない。

風呂、トイレ、洗面所、キッチン、リビング、寝室。

それぞれがきっちり分かれていて、そこらのワンルームマンションよりもずっとよい条件の物件だ。

寝室には簡素なベッドが置かれていた。話によると、林田さんが時々使っていたそうだ。

多少手の届いていないところはあったが、掃除もそれなりにされているらしい。


「……話を聞いたときは、屋根裏部屋みたいな場所だと思ってたんだけど」

「俺も、ここまでしっかりした部屋だとは……」

ダンボールはとりあえず寝室に運び入れ、キッチンや風呂場のチェックと細かい場所の掃除を一通り終え、俺と先輩はリビングで一休みしていた。

小さなテーブルと座布団があったので、それを使わせてもらっている。

一階の広さを考えれば当然のことなのだが、俺の部屋より断然広い。

逆村さんからこの仕事に誘われた時、住み込みでどうかという話題はちらりと出たのだが、俺はそれなりの自由が欲しいからと断った。

しかし、これほどまでの条件だと知っていたら答えは違っていただろう。

もちろん、そうしたからこそ先輩が住み込みで働くことが出来たわけだが、正直、これなら二人で暮らすこともできなくはない。


「ここ、以前も誰か住んでいたんだよね?」

「……聞いたことはないですけど、多分、そうなんでしょうね」

このテーブルや座布団、そして寝室のベッド。

綺麗に使われてはいるが、そこそこ古いのも確かだ。それなりに使われた形跡もある。

「ここまでの環境だと、無賃で働かされても文句は言えないな……」

「さすがにそんなことはないと思いますよ。まぁ、そこら辺のことは明日、逆村さんと話をしましょう」

今日は用があるとのことで、逆村さんは不在だった。

今は林田さんが事務所にいて、赤岡さんは外出中。帰宅前に一度事務所に寄るとのことだったので、その二人になら挨拶できるだろう。

「実感が湧くまでは少し時間がかかりそうだな」

「俺が言うのも難ですけど、展開が急でしたからね」

「当分はバタバタとした日が続いて、余計なことを考えずに済むかもしれない」

「それがずっと続くのも、それはそれでいいかもしれませんね」

先輩があははと笑う。

その仕草に感じる新鮮さは、先輩がゆっくりと前を向いて歩きだした証なのかもしれない。それを感じ取れることが、少し嬉しかった。


「凪島くん、仕事は大丈夫?」

時間を確認する。

病室で話をしてからあっという間だったが、それなりに時間は経っていた。

「あぁ、いい時間ですね。少しやること残ってるんで、そろそろ事務所に戻ります」

俺は立ち上がり、身の回りを確認する。

下に移動するだけなので特に焦る必要はないのだが。

「そうか。それじゃぁまた今度、色々と話をさせてくれ」

「えぇ。仕事のこととかもありますし、家具を揃えたりとかそういう用なら手伝いますし、いつでも呼んでください」

「あぁ、君にいくつか質問したいこともあるしね」

「別に、今訊いてもらっても構いませんよ?」

「いや、いいよ。もしかしたら腰を据えてじっくり話さないといけないことかもしれないしね」

「どんな話するつもりなんですか」

笑って言葉を返すと、先輩も微笑みながら口を開く。

「その時は違和感を覚えただけだったんだよ。ただ、さっき作業が落ち着いた時にふと記憶を振り返ってみて、その正体に気づいたんだ」

「何か気になることでもあったんですか?」


「凪島くん、君、高校の時に裏でこっそりと渾名をつけられてたこと、知ってたかい?」

「え、いえ、知りませんでした」

突然の昔話に虚を突かれる。

何の話をするつもりなのだろう。

「まぁ、そりゃそうだろうね。私も忘れていたんだけど、さっきの病室での、君の告白にも等しいセリフを反芻してたら、思い出してしまったんだ」

不穏な形容詞が混入していた気がするが、今は渾名の方が気になる。

「俺、なんて呼ばれてたんです?」

本人が知らなかったということは、あまり良い渾名がつけられていたわけではなさそうだ。しかし知るのは怖いが過去のこと。好奇心の方が勝っている。

「高校の時は苗字で呼んでいた。あの日、あの店と私の家でもそうだった。だけど今日はそうじゃなかったんだよ」

先輩は一人で納得するように首を振っている。

なんだか嫌な予感がする。

「君は、私の大学時代の話を聞いたと言っていたけど、振る舞いの変化から察するに、それは最近、私と再会した後のことだろう。コンビニで会ったときは、私がニートだと聞いて心の底から驚いていたように見えたからね」

先輩の口調は淡々としているが、それがなぜか、とても怖い。


「天然ジゴロ」

「は?」

「それが、君が高校にいた頃、裏で呼ばれていた渾名だよ」

優しいトーンでそう口にした先輩の顔には、うっすらと笑みが浮かんでいる。

ただし、その目元を除いて。

「今日はもう時間がないから仕方ない。今度、じっくり聞かせてくれ」

先輩が真顔になった。


「君と遥がどんな関係なのか、ね」


どうやら俺は、穏やかな生活にはまだまだ縁遠いらしい。

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Maltreated Alice 本田そこ @BooksThere

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