7−2
先輩がベッドに潜り込んでから十分が経った。
病室は静かで、廊下からは時折、医師や看護師の行き交う音が聞こえてくる。
「先輩、さっきの話、どうですか?」
白く膨らんだ掛け布団に話しかける。
もぞりと塊がうごめいた。
「……フォローとか、そういうのはしないんだな」
布越しのこもった声。
「触れてほしいんですか?」
「いや、いい。私が悪かった」
ようやく先輩が顔を出し、先ほどのようにベッドに腰掛ける。
髪の毛がやたらと乱れているが、直す気はなさそうだ。気にしてないのかもしれない。
「さっきも言ったけど、私としては断りようがないさ。今後のことを考えると、その提案はとてもありがたい」
「それじゃぁ……」
「というか、話を聞く限りお膳立てはほとんど済んでいるんだろう?その、特調会の都合ってのもあるなら、私の意見を聞くまでもなくほぼ決定事項だったんじゃないのか?」
「一応、この話に乗ってもらえなかった場合は特調会の管理してる寮に入ってもらうことになったと思います。罹患者登録しなければ従う義務はないですけど、それはそれで逆に面倒なことになりますし……」
「君は、そうならないよう色々と調整してくれたってことか」
「まぁ、色んな人に話をしたってだけですけど」
逆村さんに了解を取る以外にも、赤岡さんに安全性が確保されることの保証をもらったり、そういったことを本部の人にそれとなく伝えたり、やるべきことはそれなりにあった。多分、これ以降にもまだまだやらねばならないことや解決すべき懸念などはたくさんあるだろう。
「なぁ、凪島くん、さっき言いかけたことじゃないんだが」
「どれのことです?」
「そこを聞くな、流せ。とにかく、君は何で私の世話を焼こうとするんだ?それも仕事の一環?」
先輩の表情がどこか訝しげなものになる。
「そうですね。半分は、特調会神野支部としての仕事です。淀みに纏わるトラブルを可能な限り解決、それが無理ならなるべく管理下に置く。特調会自体がそういうスタンスですから、先輩がうちの事務所に住んでもらうことで、えぇ、ちょっと厄介な淀みを管理下に置けるということになります。赤岡さん、えっと、うちにいるカウンセラーの方です、彼女のおかげで先輩に憑いた淀みを寛解させるためという名目も立つので、本部にもあからさまには文句をつけられずに済むと思います」
「そうか……。正直に答えてくれてありがとう。妙な謀略とかはないみたいだな」
「騙し討ちしても意味ないですし」
「淀みって、そういうものなの?」
「他人の淀みを制御するのはかなり難しいですからね。嘘ついたのがバレて本人がどうかしちゃったら何が起こるかわからないんですよ。単純にリスク管理の問題で、説明するときは包み隠さずに話した方がより安全ってだけです」
「なるほどね」
「いざとなれば兵器やら薬品やらの出番みたいですが、先輩に憑いた淀みくらいならそこまでする必要もないみたいです」
「……人が、死んでるのに?」
「もっといっぱい死んだり、死ぬよりもひどいことになったり、前例が色々あるみたいですね」
そのうえ、俺は先輩の淀みの性質を、矛盾が起きない程度に矮小化して報告していた。だが、このことはまだ先輩本人に伝えない方がいいだろう。多分、いや、確実に怒られる。
「聞いていいかい?もう半分は、何?」
「私情ですよ」
しばらく、沈黙が続いた。
「私はその内訳を聞いているんだけど」
「……なんでもかんでも言葉にできるとは限らないんですよ」
「昨日も言った通り、君が責任を感じる必要はないんだ。それなのに」
「そんなんじゃないですよ」
遥先輩に任されたからだ、とは言わない。遥先輩は言って欲しくなさそうだったし、水川先輩も戸惑うだろう。
「放っておけないなって思ったんですよ。昔は生徒会長としてあんなにきびきびと振舞っていた先輩がこんな風になってて、なんというか、庇護欲をくすぐられたんです」
「……すごい失礼なことを言われている気がするんだが」
「それに、昨日言ってましたよね、私には生きる目的がない、死にたくないから生きてるだけだ、って」
「あぁ、そう言った。言っておくが、本心からの言葉だよ」
白い病室。
窓が少し開いていて、カーテンがゆらりとはためいている。
荷物は何もない、ベッドだけの空っぽの部屋。
懐かしい。気分が落ち着く。
そう思った。
「俺も、そうだから」
ただただ周りに流されて、ずっと生きてきた。
学生時代の色々な活動も、自発的に始めたことなどない。
誰かと交流するにしても、自分から働きかけたことなどない。
将来はどんな風になりたいとか、こんな暮らしがしてみたいとか、そういう展望なんて何もなかったのだ。
「案外、そういう人って多いんじゃないかと思うんですよ」
先輩は、耳を傾けてくれている。
「ただ、普通、まぁ普通ってなんだよって話なんですけど、そういう人たちの大半は、色んな人と関わって、色んな人の考えに触れて、事あるごとに短期的な目的をどんどんと積み重ねていって、気付けば人生を過ごし終えている、そんな感じなんじゃないかなって、最近、思ったんです」
俺は多分、環境に恵まれていたのだろう。
友人や先輩、時には後輩に流されて、色々な経験を積んできた。
どうしようもないこともあったけれど、それらも見方によっては俺の生き方を形づくったものだと言える。
「先輩はずっと、親に一つの生き方を強制されてきました。だから、違うあり方を、考え方を、取り入れる機会をもらえないままだったんです」
「……そうかもしれないな」
「今となってはどうしようもない話ですけど、もしもあの時、先輩の家が燃え尽きて親の束縛から解放されたあの時、大学に残るという選択をしていたら、違う生き方ができていたかもしれません。周りに流されるうちに自分のやりたいことが見つけられたかもしれないし、そうでなくとも、その日その日をやり過ごして行くには十分な目標が降って湧くような環境に辿り着けたかもしれません」
「あの日は、大学に残ってくれと色んな人に言われたよ。貴重な才能だとか、そんな褒め言葉をいくつももらった。ただ、全く心に響かなかったんだ。求められていることも、別にやりたいことじゃなかった。ただ、できるからやっていただけ」
「俺も、思い返せばずっとそんな感じでした。今の仕事だって、逆村さんから誘ってもらって、その時たまたまお金に困っていたから始めたことです。流されっぱなしなんですよ、今でも」
「私はそこで友人関係も全て絶ってしまったからね。幸か不幸か、親の遺産のおかげで当面は働く必要もなかった。家を探すのは少し大変だったけど、そこさえクリアしてしまえば一人で殻に篭って過ごすことができる環境が揃っていたんだ」
溢した言葉はもつれあい、真っ白な床に溶けていく。
過去の回想は、いつだってそんなものだ。
俯いていた視線を窓の外に向ける。
今日は快晴だ。
吸い込まれそうなほどに深い、一面の青が広がっていた。
「だから、いい機会かもしれないなって思ったんです」
「いい機会?」
「事務所の人たちや遥先輩、周りにいる人たちはみんな自分なりの生き方を持っていて、それを見て羨ましいなって感じることが多々ありました。だけど、そんな環境で一人で頑張るのは少ししんどいかもなってことも同時に感じてたんです」
先輩の顔を見る。
乱れた髪、くたびれたジャージ、少しやつれた顔。
過去の記憶と比べればだいぶギャップがある。
作り物だったかもしれない、先輩の過去。
だけど、今の先輩の中にも、懐かしく思えるものがある。
身のこなしや言葉の選び方。
時折見せる、細かな仕草。
どんな経緯であれ、その時の彼女は紛れもなく彼女自身であり、今の先輩に繋がっているのだと、そう感じられるのだ。
「自分なりの生き方を見つける、って言うと大げさかもしれません。少しセンチメンタルになりすぎてないかって自分でも思います。ただ、少しくらいはそういうことを、同じ目的を持てる誰かと一緒にやれたら、それだけで楽しいんじゃないかって思ったんです」
少し強めの風が吹き、先輩の髪をわずかに揺らした。
「先輩とそうできたらいいなって思ったんですよ。だから、昨日、ここから帰ってから色々と動きました。先輩の家、仕事、淀み、全部どうにかしながら一緒に生きていける方法がないかって、試行錯誤したんです」
先輩はただ黙ったまま、俺の言葉を飲み込んでいた。
髪を鋤く仕草は、どこかぎこちない。
「それが、その提案か」
「……少し、押し付けがましいこと言っちゃいましたね」
「いや……そんなことはない」
先輩は落ち着かなさそうに両手を開いたり閉じたりしている。
「そこまで言われてしまってはね。私としても嬉しいよ。君の提案を断るつもりはもうなかったけど、改めて、私からもお願いさせてもらうよ」
先輩は一度深呼吸を挟んでから言葉を続けた。
「ぜひ、働かせてくれ。君が近くにいれば、少しはまともに生きていけそうだ」
先輩が笑う顔は、この数日で何度も見た。
だけど、虚飾のない、誤魔化しでもない、心の底からの本当の笑顔を見たのは、もしかしたら高校時代からの付き合いの中でも、今この瞬間が初めてのことかもしれなかった。
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