第44話 必要なこと
前嶋は缶コーヒーを差し出した。来美はお礼を言って受け取る。熱を持った缶が来美の手を温める。蓋を開ける音が鳴り、中から湯気が立ち上る。
来美は缶コーヒーの飲み口に唇を当て、湯気を吸い込むように啜る。流れる温度が内側から広がっていく。
ベンチの背にある円形の花壇で露を纏うスイセンが、箱庭の隅にある街灯の明かりに照らされ輝いている。カサカサと音が聞こえて、振り向いた瞬間、来美は小さく声を上げて驚いた。来美達の前に毛量の多い野良猫が歩道へ駆けていく。呆然と野良猫を見つめた後、お互いに顔を見合わせて噴き出した。
コーヒーが零れてないか確認し合いながら和む空気に身を任せつつ、来美は冷静にデートの終わりを意識していた。
「ねえ、慶」
来美は会話の途中で改めて前嶋の名前を口にした。
「なに?」
来美は不安そうに前嶋を見つめながら言葉を続ける。
「私が、結婚したくないって言ったら、どうする?」
前嶋は動揺することなく、真剣な表情になって前を見た。
「俺は結婚したいって、何度も言う。もちろん、瀬理が納得して、俺が納得できる形で」
「そう……」
来美は息を零して、前にある人気のない歩道より少し遠くを見据えた。
「私、ずっと考えてた。慶からプロポーズされて、慶との結婚生活を。でも慶は、私より先に結婚を考えてたんだよね」
「……ああ」
「私は、結婚が怖いの。関係が近くなればなるほど、固くなればなるほど、怖くなる。自分が傷つかない距離が、私は一番落ち着く」
「俺が瀬理を傷つけるわけないだろ」
前嶋は笑って言った。来美も微笑み返す。
「ありがとう。でも、実際どうなるか分からない。そうでしょ?」
「……」
「いいの。私はそれを分かってたし、慶が悪いわけじゃないわ。私がただ臆病で我がままなだけ。
最初にプロポーズされた時、仕事のことが原因みたいに頷いちゃったけど、あれ嘘なの。本当は、ただ結婚が怖かっただけ。今の生活で、私は十分幸せ」
来美は反動をつけて立ち上がり、ゆっくり歩いて行く。そして振り向き、前嶋に笑ってみせた。
「もし私と結婚したいなら、別居婚じゃなきゃ嫌。これが、私の答え」
力んだ唇が結ばれた。前嶋は来美に悲しげな視線を向けていた。
まるで時間さえ凍ってしまったようだった。さっきまで楽しそうにしていた2人とは思えない。取り残されている来美の手は強く閉じられていた。
「別居婚か……」
前嶋は前のめりになって小さく呟いた。しかし、前嶋はどこかスッキリした表情に見えた。
「俺は一緒に生活したいって思ってる。変わることは必要なことだよ」
「そうかな。私は、結婚において変わることが絶対じゃないと思う。もちろん変わることもあると思うけど、私は1人暮らしの優雅さに浸りたいの。私にとっては、結婚なんてただの選択肢に過ぎないから」
前嶋は悲しげな目で薄く微笑んだ。
「出会った頃を思い出すよ。瀬理はそうやって何かと物言う性格だった。頑固で自分を貫く意志のある女性。ちょっと嬉しかった」
前嶋は立ち上がり、来美を見つめる。
「もう変わらないんだろ?」
「うん、それが私だから」
「うん、それでこそ来美瀬理だ」
「きっと、慶には素敵な人が現れるよ」
前嶋は白い歯を見せて笑う。
「ありがとう。……友達でいいんだよな?」
「そうだね。これからは、そういう感じで」
妙に清々しい雰囲気が2人の間を行き交う。
「今まで楽しかった。ありがとう」
「こっちこそ、いい思い出をありがとう。じゃ、また……」
「うん……」
前嶋の足が動き出す。ゆっくり歩く前嶋の足はどこか後悔の念を感じさせた。
来美は少しの後ろめたさを感じながら、前嶋の背中から視線を逸らし、箱庭から出ようと歩き出した。来美は1人で歩くいつもの速度で歩いていく。
何が幸せかなんて人それぞれ。結婚も同じ。結婚に何を求めるかも、人それぞれなんだ。ただ、お互いに心惹かれて付き合ったのだから、その人に幸せになってほしい。そのための別れだ。
変わること。新しい1歩を踏み出すには、変わらなければならない。前嶋の言葉も納得できた。だからこそ、変わったのだ。別れという答えを出して、前に進むことを。
来美が持てる幸せの数は限られている。おそらく、どんな人もそうなのだろう。新たな幸せを持つために、今ある幸せを手放した。
それが正しいかなんて分からない。でも、2人はそう決断した。お互いの幸せを願って、それぞれの道を歩き出したのだ。
微笑ましい未来を捨てて、2人は解き放たれたように夜の街へ消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます