第35話 本音と遠慮

 来美と鷹野はおじさんとバイトさん達の『ありがとうございました』を背に受け、居酒屋を出た。

「送ってやろうか?」

「なんで笑って言うんですか?」

来美は疑念の眼差しを向ける。

「いや、こういう時って、送っていく流れで君の家に行くことになったら、そりゃ期待するでしょ」

「最低ですね」

「君は俺を罵るのが上手いね」

「喜ばないで下さい」

「じゃ、気をつけろよ。あ、何かあったら連絡するといい。ヒーローが駆けつけてあげよう」


 鷹野は名刺を渡してきた。来美は眉を顰めるも、頼みの綱はできるだけあった方がいいかと渋々受け取る。

「ありがとうございます」

「寂しくなっても俺を呼んでくれたらいいからな」

「寂しくなったら彼氏を呼びます」

「あららー、フラれちゃった」

「じゃ、さよなら」

来美は不潔な言葉を並べる鷹野に背を向けて、大股で歩き出す。鷹野とくっちゃべったお陰でストーカーの悩みが幾分かマシになった。あの最低な男でも役に立つらしいからとことん利用してやるかと、ちょっとだけ成り下がる。


 来美は現在ストーカー被害に悩まされる身。ストーカーに悩まされる女性の行動ではない。もちろん仕方なく1人で帰路を歩いているのだ。

居酒屋を出る前にタクシーを呼んだが、ちょうどぶらぶらしている企業戦士たちがタクシーを使って帰宅しているのか、タクシーを待つのに1時間もかかるようだった。

1時間もあるなら普通に帰った方が早い。

少し会いにくいが、前嶋に連絡を取ってみた。しかし、前嶋が電話を出ることはなかった。

最近まで続いていたメールも、来美が踏み込んだあの日からなくなってしまった。少しがっかりした。そもそも前嶋はマメ男じゃないから、これくらいがちょうどいいのかもしれない。

下手に気を使われるよりも、自然な形で付き合えている方が楽だ。


しかし、夜の人気の少ない路地を歩くのは怖いものだ。考えないようにしようと意識すればするほど考えている自分がいる。どこの誰かも知らない普通の人が歩いているだけでもいいし、カップルが手を繋いで夜道を歩く微笑ましい姿でも漠然とした不安は和らぐ。

それと同時に、彼女が本気で困っているのに電話に出ないとは何事だ!と、来美は時間が経てば経つほど思いが募っていた。ストーカーの件を話してないから自業自得なのは分かっていたが、こういう時こそ彼氏に頼りたくなってしまう。

頼りになる男を求めてしまう女のさがも理解してほしいなんて、また自分勝手なことを思って、自己嫌悪に苛まれる。

そうなると、前嶋の奥さんになっていいのかな、なんて自信をなくす。


迷惑をかけたくない気持ちを持ちながらも、いざという時に頼りたいと思ってしまう。もう心の中がぐちゃぐちゃだ。行き交う本音と遠慮が混ざり合って、頭がこんがらがってくる。

来美はポケットに両手を入れ、今感じる冬の冷たさに意識を向けた。部屋に戻ったら何をしようか考えようとした時、不意に聞き慣れた不快な音が、来美の耳に届いた。

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