第30話 夫婦喧嘩

「さっきから誰とメールしてんの?」

「誰でもいいじゃないですか」

 来美は少し体を退いてメールの返信を考える。

仕事は続けられるし、家事の協力もしてもらえるらしいが、これは口約束に過ぎない。婚前契約書が頭に過ったが、やはりそれを作ってまでやるべきだろうかと考えてしまう。

結婚したら誰もが変わる。それは仕方のないことかもしれないが、口約束だったとしても、結婚前に決めたはずのことをやってもらえないとやっぱり腹が立つ。そこはもう前嶋を信じるしかない。


長く一緒にいたいという言葉は来美を惹きつけた。来美も前嶋と長く一緒にいれたらと思っている。けど、それは互いに一定の距離を保てているからであり、近くなると知りたくなかったことまで見えてしまう。

それが怖いのかなと、来美は自問自答に入り込む。


「お待たせー」

 松本が座敷に入ってきた。

「お、久しぶりー」

鷹野は話相手ができて嬉しそうに笑顔を浮かべる。

「せんせーい!お久しぶりでーす」

松本は愛嬌のある笑顔で応える。松本は鷹野の隣につく。

「あれ?しのぴーは?」

「まだ来てない」

「そっか。あ、聞いたよー。この前2人でくるみーの家に泊まって飲んでたんだって?」

松本はちょっと拗ねたように言う。


「いや、流れでそうなっただけだから」

「私にも声かけてくれたってよくない?」

「その時遅かったし、彼氏が心配するでしょ」

バイトちゃんは松本の前にお冷とおしぼりを置く。

「まあね。ビールとアンチョビ下さい」

「あと、ビールお代わりと、ほうれん草のおひたし」

松本と来美はバイトちゃんに注文を告げる。


「聞いてよ、まっつーん。この女、人が話してんのに携帯に夢中なんだよ。10代じゃあるまいし、食事中にまで携帯いじって若者ぶってんだよ」

 来美は自分の友達をいきなりあだ名で呼び出す鷹野の神経に少しイラッとする。

「大事なメールなの」

「仕事?」

松本は怪訝な様子で聞く。

「ううん」

来美は画面の中に集中し出す。来美の指が動き出した。


『そう。それなら良かった。まだ色々と整理がついてないからまた話そう』


来美は携帯を鞄にしまった。

「彼氏へのメールはもういいの?」

来美は図星を突かれ、少し驚いた表情を見せる。

「うん」

「なんだ彼氏か」

鷹野は素っ気なく言い、ビールを飲み干す。

ちょうどバイトちゃんがさっき注文した物を持ってきて、鷹野がビールを注文する。

「あ、そういえば知ってる?この女、この前ベロベロに酔っぱらってさ」

鷹野はまたあの話をしようとする。


 来美はなんだかんだで自分の知らない記憶について知りたくなってしまい、聞き耳を立てる。

「へー、くるみーが泥酔するなんて珍しいね」

「その時はなんかね」

「うー、さぶっ」

その時、金井が座敷に姿を現した。

「お、グッドタイミーング」

「ああ、ご無沙汰してます」

金井は鷹野に礼儀正しく挨拶を交わし、来美の隣につく。


「で、何がグッドタイミングなんですか?」

「いやね、この女社長様がベロベロに酔っぱらった一部始終を語ろうと思ってね」

鷹野はニヤつきながら来美を指差す。来美は不満げな様子でつまみを貪る。

「へー、あのくるみーがベロベロかぁ。にわかには信じられないですね」

金井は松本と同様の反応を示す。

「4日前の話だ。この店でこの女と飲んでたんだが、俺が特別講義をしている最中に堂々と寝やがった。学生だったら最低評価にしてやるところだ」

「あんな興味のない話をされたら誰だって眠くなって当然ですよ。先生目当てに女子学生が集まってるって疑いたくなりますね」

「減らず口の女社長の小言はスルーしてだ。店の閉店時間が来て、俺は爆睡する女を叩き起こした。揺すっても起きないから、耳を引っ張ったり、頬を引っ張ったりして強引に起こそうとしたが、こいつは眠りながら俺の足を蹴りやがった。眠りながら暴力を振るわれたのは初めてだ」


 鷹野は肩を竦めて、蔑んだ視線を来美に向ける。

金井の前に置かれたお冷とおしぼり。鷹野はもう1人のバイトちゃんからビールを受け取る。金井はビールを頼み、来美と鷹野のやり取りに注目する。

「私が寝てる間にあなたも暴力振るってますからお互い様です」

「じゃあ、そういうことにしとこう。でだ、いい年してお店に迷惑をかけるこの女を仕方なく運ぶことにした。歩くこともままならないこの女をタクシーに乗せて、財布から運転免許証に書いてある住所まで送り、部屋の鍵をバッグから探し出して、部屋に入れた。うめき声を上げながら毛布の中に潜る様は、怪奇そのものだった」


「部屋にまで入ったんですか。何かしてないですよね?」

来美は疑いの眼差しを向ける。

「冷蔵庫にあるウィスキーボンボンを6個ほどつまんだだけだ」

「何してるんですか!」

「大丈夫だ。3個だけ残してやった」

「そういう問題じゃないんですけど!?」

来美は目を見開いて憤慨する。


「おい、その態度はないんじゃないか?」

「は?」

「俺は酔っぱらいのお前を運んでやったんだぞ?そこはありがとうと言うべきところだ。ウィスキーボンボンは年老いた体を酷使した報酬である。

贅肉に悩むアラサーの女を運ぶ重労働をやらされたんだから、これくらいで怒られるのは納得がいかない」

鷹野は渋い顔をしながら来美の態度に不満を言う。

「そう言われてありがとうって言いにくいんですけど!?」

「まあ、いいや。とにかく、君はもっと寛容さを持つべきだ。女性としての大らかさは男を惑わせるぞ」

「あなたの発言1つ1つが、私から寛容さを奪ってるんですよ!」


「2人とも息ぴったりですね」

松本がしみじみと言う。

「は?」

来美は顔を顰める。

「ちょっと笑える夫婦喧嘩みたい」

金井はクスクス笑いながらビールを飲む。

「やめてよー。こんな人と夫婦なんてあり得ないし」

「君と僕が結婚したら1日で離婚するかもしれないな」

「そもそも結婚しないし!」

来美と鷹野はいがみ合いながらも、4人はお酒を嗜みながら会話を弾ませた。

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