第29話 冬のぬくもり
来美は車の中で金井と松本に飲みの誘いを入れ、駐車場に止めていた車から降り、返事を待つ間にいつもの居酒屋へ向かう。
この近辺は、夜を満喫したい人々が足しげく通うお店が多い。頬を赤くしたスーツ姿の男性達が、賑やかな声と共に煌びやかな路地裏に入っていく。タクシーがセンターラインのない道路を行き交っている。タクシー会社同士でお客の争奪戦がひっそりと行われているようだった。
路上の端では来美と同年代くらいの男女がキスをしていた。濃厚なキスの模様を見せつけられているようで少し気に障る。すれ違い様に2人を見た時、女性が来美を見てほくそ笑んでいた。
可哀想な人を見る目で来美を嘲笑している女性は、20代前半の女性向けのファッション雑誌で特集されていたコーデを丸々真似ていた。無言でも分かる。
私、あなたと同じくらいの年齢だけど、隣に好きな男もいて、若いファッションも着こなせちゃうんですーとか思っているに違いない。
来美は鼻につく女性の態度に顔を顰め、足早に去ろうとする。背後では女性が来美を腫れ物のような印象で男性と話す声が聞こえていたが、靴がアスファルトをつく音に意識を集中させて、シャットアウトした。
早歩きをする来美の息が上がり、白い息が頬を掠め、一瞬のうちに消えてしまう。冷たい空気は絶え間なく肌に触れて、頬がビリビリしてくる。
今だけは好きな人と一緒にいたいなんて乙女チックなことを考えてしまう自分に恥ずかしさを覚える。
来美は速度を落とさず居酒屋まで歩いていく。
しばらくすると居酒屋が見え、安堵する。来美は速度を落とし、居酒屋の玄関を開けた。来美の視界に見慣れた居酒屋の内装が入り込む。来美はカウンターを見て、目を細めた。
鷹野が髭を蓄えた口元をニヤつかせ、ビールを掲げた。
来美は無視して、座敷に移動する。
「おいおい」
鷹野は来美を引き留めようとするが、来美は鷹野の後ろを通り、座敷に行ってしまう。
来美が入った座敷にバイトちゃんがお冷とおしぼりを持ってくる。
「あとで2人来るから」
「あ、はい。かしこまりました」
バイトちゃんは去っていき、代わりに鷹野が座敷に入ってくる。
「相変わらず冷たい女だなぁ。君の脳は鉄でできてるんですかぁ?」
酒の匂いを纏わせたくだらないジョークを吐く鷹野は、来美の隣に座る。
「前に座ってくれませんか?」
来美は顔を歪めて促す。
「なんだ、やっぱり俺の顔を見ていたいのかぁ」
「隣に並ばれるのが嫌なんです」
「はいはい。行きますよ」
鷹野は来美の肩に手を置いて立ち上がる。
「ちょっと!」
来美は鷹野の手を払う。
「あー悪い悪い。今クラッと来た。酒のせいかな?君にもクラッと来た。ふふふふふ」
鷹野はいやらしく笑って前に座る。
来美は背筋を駆け上る嫌悪感に身をよじる。
「1人で飲んでたんじゃないんですか?」
「いや、今日は君を待ってたんだよ。君も気になってるだろうと思ってな。あの日、何があったか?」
鷹野は座敷のテーブルに自分のグラスを置いて、来美に微笑みを投げかける。
来美は眼力のある目で睨みつける。
「顔は嘘をつかない。知りたくてしょうがないって顔だ」
「結婚が怖い鷹野教授の方が話したくてしょうがないって顔してますよ?」
「無駄口を叩いている暇があったら教えて下さい鷹野先生とせがんだらどうなんだ?」
「すみません、ビールと野菜スティック、あと温生豆腐を」
「無視してんじゃねぇよ!」
声を潜めて怒る鷹野。
「勝手に話せばいいじゃないですか。私は携帯を見ながら聞いてるんで。さ、どうぞ」
来美は余裕げに言う。鷹野は口端を歪める。
「そんな態度を取ってられるのも今のうちだ」
来美は気にせず携帯を見る。携帯には前嶋からのメールが届いていた。
来美はメールを開く。
『結婚しても家事はお互いにやればいいし、仕事がしたかったら協力する。俺は瀬理の意志をできるだけ尊重したいと思ってる。
話し合うことはたくさんあると思うけど、結婚生活の中で1つ1つ解決していけばいいんじゃないかな。瀬理も知ってると思うけど、俺って大雑把だから、そういうことあんまり考えてなかったかもしれない。
ギクシャクすることで俺達の関係が必ずしも終わるわけじゃない。早く結婚して、瀬理と共に生きる時間を長く持っていたいと思った。誰でもいいわけじゃない。
瀬理と長く一緒にいたいから、瀬理にプロポーズしたんだ』
前嶋のメールに来美の表情がとろけるような笑みになる。久しぶりに感じたときめきに胸が躍る。
「おい」
「ん?」
「携帯を見ながらニヤけてると、変な奴に見えるからやめろ」
「ほっといて下さい。興味のない与太話は終わりましたか?」
「もういいよ」
鷹野は拗ねた様子でビールを飲み干す。
バイトちゃん2人が来美の頼んだビールと料理2品を置いて行く。
すると、鷹野はビールを追加注文した。
「いつからいたんですか?」
「あ?かれこれ2時間くらいかな」
「ほんとよく飲みますね」
「ふふ、このくらい序の口なんだよ。大学時代は瓶の日本酒を8本飲み切った」
「へー……」
来美は本当にどうでもいいなと思いながらビールを一口つける。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます