第4話 暴走する列車の中で③
携帯を拾い上げて時間を確認する。都市部までの数少ない停車駅の一つがもう通過してもいい頃合いになっていた。
「もしかして、今のって」
列車の速度が心なしか上がっている気がする。窓の外を駆け抜けていく木々、再びこれから暫く停車駅は無くなる。だが、山間部だ。速度を上げるような場所でも無い。
迷いが産まれたその瞬間だった。
胸部に衝撃が走る。鈍い打撃が気道を圧迫する。壁に叩きつけられて初めて、胸部に一撃を受けたのだと気がついた。
「……能力者か」
吸血鬼が頭を支えて立ち上がる。赤い瞳は一層赤く、ソルトを睨めつける。手が小刻みに震えていた。
「一体私に何をした」
叩きつけられた身体が痺れる。ソルトはギリギリ手放さずに済んだ携帯を握りしめた。声を出そうとするが、咳込んで言葉にならない。一つ咳をする度に痛みが走る。指先を動かすだけで精一杯だ。
距離を取ったまま吸血鬼は床に落ちているソルトの銃を拾い上げた。
「……さっきの能力は触れなければ使えないのか?」
質問と発砲は同時だった。肩が銃弾で抉られた。熱い痛みと生暖かく広がる濡れた感触。
「使えない、ようだな」
銃が右手に向けられる。吸血鬼の歪んだ笑みは引き攣っていた。
(右手、左手、右足……かな)
恐怖は無かった。
指先を動かすことは出来たのだから。
「何を笑って……」
言葉を遮ったのは発砲音ではない。突如立ち込めた赤い霧だ。赤い視界が車内に広がる。吸血鬼の後ろに広がるのは赤い翼だ。比喩ではない。大きな赤い二枚の翼が広がり、中心に男が立ち、銃を握った吸血鬼の腕を掴んでいた。
血のように赤い髪に、明るい赤い瞳。ソルトの車内に入り込んできた赤い鳥と酷似した色。
「……それはソルトの大切な物だ」
吸血鬼の掴まれた腕が掴まれた箇所から赤い気泡を発生させながら爛れていく。
「フォル……スさん、後は任せました」
ようやく感覚を取り戻した身体を壁から引き剥がし、ソルトは列車の出口に走った。
「これを持っていけ」
後ろからかけられた声、振り返らずにソルトは右腕を上げた。掌に伝わる振動に肩が居たんだが、しっかりと指でそれを捉える。硬く冷たい、重い金属。
「取り戻してくれて有難うございます」
赤いベレッタを握りしめて、ソルトは前の車両へと走った。
先頭車両の方へエネルギー探知を試みたソルトは、自身の意識が後ろにばかり向いていたことを激しく後悔していた。寧ろ、前の車両に自分が行くべきだったのかもしれないと。
(いえ、そんな事は彼がいた以上させて貰えませんか)
一つ車両を進むごとに次の扉までの距離が延びているような錯覚に捕らわれる。速度は緩めていないのに、進んでいない錯覚が邪魔をする。
前の車両で何が起きているのか、脳がそればかりを考えようとする。
ソルトはその思考を拒絶した。不安に感じていては今やらなければならないことをなすことが出来ない。今なすべきことは、前の車両の状況を確認することだ。
エネルギーが不自然な程に無い。先頭車両には大きなエネルギー、これはイクシだろう。だが、本来その場にあった別の人間のエネルギーが今は感じるのもやっとなぐらいに弱っていた。。
最後の扉を開ける直前、ソルトは無意識に呼吸を止めた。
カードリーダーにカードを通す腕がとても重い。今までよりも位置が高いのではなかろうか。 全ては錯覚だと言い聞かせ、カードを滑らせるように通した。
もう、エネルギーは全く感じられない。
顔が歪む。噎せ返る血臭。血の臭いが、溶けた肉の臭いが鼻についた。
赤い世界、この世界は死に満ちている。赤い、赤い、赤い……。
脳裏に過るのはかつて無くなった一つの村だった。赤い街で、互いを傷つけながら腐るようにして死んでいく人間の姿。緑の瞳の奥にそれが蘇った気がした。
自分を要らない物を見るかのように取り囲んでいた人々も、地面に押し付け押さえてきた人々もあの光景の前では全てが同じだった。全ての命が虚しく――。
だが、瞳の外にいるソルトの表情は何も変わっていなかった。ただ、冷淡に、冷静に運転席に広がる現状を見つめる。
人が三人、入ってやっとの広さの運転室には運転に使う機器があるだけで何も無い。機器を覆い隠すように大男が機器を見つめて立ち尽くしているだけだ。
無機質な銀色の部屋。床にだけ絨毯を敷いたように赤い色が広がっていた。壁に血が散った形跡はなかった。しいていうなら、僅かに跳ねた程度の血糊がつい ているだけだ。
運転手の皮膚はまるで薬品でも上からかけられたように、爛れていた。外傷が有ったのか無かったのかは、皮膚を見る限り判別出来ない。
触って調べたい衝動に駆られたがやめた。
よく見ると皮膚が萎んでいたからだ。全身にあった水分を吐きだしたかのように肌が縮んでいる。恐らく、失 われたのは全身の血液。全身が真っ赤に染まっていることから、恐らく毛穴から噴き出したのだ。
医者を目指しているせいだろうか、そういうものには敏感だった。ウイルス、薬品によってもたらされた可能性を考えてしまう。いや、もう一つある。
それをソルトは嫌というほどにしっている。
「イクシさん」
運転手から目を背け、ソルトはイクシに声をかけた。
電車の運転はただレールに沿って走るだけなので、特別な運転は必要ない。だが、運転手が死体になっていては何かあった時対処する術がない。
今考えなくてはいけないのはそっちだ。この状況では分からない死因など考えても仕方ない。
安の条、イクシの目の前にある機器は大破していた。流石の【紅の空】の隊長といえど、これには顔を青くしたらしく立ち尽くしたまま返事もせず動かない。
「これは酷いですね」
機器がぐしゃぐしゃだった。誰の目からこれではスピードを緩めることもブレーキをかけることも出来ないのは明らかだ。機器はどうやったらここまで壊れる のかというぐらいに原型が分からなくなっていた。
しかしどれほどの衝撃を与えればここまで悲惨に壊れるのか分からない。
「なんというか」
言いづらそうに、罰が悪そうにイクシは呟いた。
「叩けば直ると思ったんだが」
何を言っているのか判断に困ったソルトだったが、イクシが壊れた計器を見て苦笑したのに気がつき全てを察する。先ほどの扉を意図も簡単に壊してしまうイ クシの怪力と照らし合わせれば簡単なことだ。
「一度死んでください」
現凶発言をした愚か者に絶対零度の微笑みを投げかけた。
「年上、何だがな」
「関係ありません」
ぴしゃりと言い切った言葉に反論は受け付けないという意思をこめたが、ここで言及しても事態は進展しない。
思考を一つ進めなければならない。今重要なのは、機械を壊した本人とどちらが悪いか言いあう事では無い。
イクシはまだ何か言いたそうだったが、ソルトは犯人が逃走のために外したであろう窓の外を覗きこむ。
犯人は何故、運転手を殺害し装置を壊したのだろうか。
「この先って何がありましたっけ」
眼鏡をあげ、目を細めて外を見る。眼鏡の奥でぼやけていた風景が次第にはっきり見えてくる。黒い影が遠くに見えた。それが煙だと分かるのに時間はかから ない。
「橋だな」
返って来た答えに、ソルトは表情を変えない。冷静な声で呟く。
「落ちてないといいですね」
額から汗が伝い、落ちた。声を抑え表情から余裕が消える。
「悪いが仮定の話をしている場合じゃあ――」
イクシの言葉を遮って、ソルトは服の裾を掴んで引っ張った。窓の外を見るように促す。自分の力でもイクシがびくともしないことくらいは分かっていた。分かっていても、全力でその袖をひっぱらずにはいられなかったのだ。全力で引かなければ手が震えてしまいそうだった。
「黒い煙が見えますか」
声のトーンを落としてそれを告げた。
「先に言え!」
前方、出発前に地図で見た時に橋を示していた位置だと思われる地点に煙が立ち上っている。考えたくはないことだったが、可能性としては無くは無い。
違うかもしれない。だが、この場合においてこの煙が最悪の事態ではないと判断するのは楽観的すぎるように思えた。
加速を続ける列車は一向に止まる気配無い。道が途切れている事実も気がつかず速度を上げながら走行を続けている。
イクシは精一杯知恵を絞っているようだった。ソルトにはそれを見ていることしか出来なかった。見た目、筋肉しかない馬鹿に見えなくもないが、これでも隊長を務めているらしい。冷静さを失っている自分よりはいい答えを出せるかもしれない。
「……俺が前に立ちはだかって止める」
まるで映画のワンシーンのような情景な案、誰もが一瞬思考を失うような答え。だが、ソルトは思考を失わずにその答えに更なる答えを返していた。
「それはそれは現実的な発想ですね」
隊長であっても外観通りの力任せな発想をしたイクシに、思わず冷たい視線を送るソルト。
「時速三百キロ近い速度で走る、重量数トンはあるであろう列車を立ちはだかって止めますか。乗客の重量も入れて一体どのぐらいのエネルギーがあると思いま すか。そもそもそれが出来るとして三百キロで走る列車の前にどうやって立ちはだかるんです。あ、そうですか、貴方はそれ以上の速度で走れるんですね」
一つ、一つ諭す様に笑顔で答える度に浮足立ちかけた気持ちが落ち着いて行く。再び自分の頭が冷静な思考を取り戻していくのが分かった。
「無理だ」
問題を定義され、明らかに落胆の声でイクシが返す。
「じゃあもっと現実的な発想をしてください。奇形種にだってそんなこと出来やしませんよ」
イクシの腕力が人並み外れていることは確かだが、こればかりはどう考えても可能だとは思えなかった。
しかし、流石は第七部隊隊長だというべきか案を否定されてもそれで途方にくれることはしない。
「連結器をはずすか」
「それ、いいですね」
にっこりと笑ってソルトは補佐の機器を見つめる。幸いこちらも多少潰れてはいるが、破壊は免れている。おもむろに操作のパネルに手を伸ばす。機械は得意なほうではなかったが、イクシに任せると補助の機器まで壊しかねない。幸い、連結部分の覆いを開くぐらいの作業ならソルトにも出来そうだった。
幾つかパネルを打ち込むとヴィイインと低い機会音がした。
「行きましょうか」
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