インソムニア 乙編

 世界はとても静かだ。


 時計の針がチクタクと働き、呼吸は一定のリズムで繰り返している。心臓がドクドクと全身に血液を運んでいく。


 あれ、目覚ましをちゃんとセットしたっけ。不安が押し寄せてきた。時間には厳しくあれ。彼女にはいつも口酸っぱく言い聞かせていた。


「先輩は仕事ではちゃんとしていますけど、休日はちゃらんぽらんなんですね」


 そんな評価はごめんだった。


 俺はカッと眼を見開き、アラームを確認する。ちゃんとセットされていた。だが念には念を。俺は一分前にアラームを設定し、鳴るかどうかを検査した。アラームは一分後にけたたましく鳴った。


 俺は胸を撫で下ろし、ふたたび八時にセットしなおして眼を閉じた。すると別の不安が兆した。電池は大丈夫だろうか。いやいや、電池はたしか一ヶ月くらい前に取り替えたはずだ。


 だがそこで、今度は携帯が鳴るかが気になってきた。充電器に差したことは覚えている。けれどマナーモードにしていた可能性はないだろうか。


 もしも疲れがひどく、起きられなかった場合。


 彼女はきっと電話をしてくるだろう。もしもマナーモードになっていれば、電話が掛かってきても気付かずに、惰眠を貪り続けることになる。


 一応、確認はしておこう。

 馬鹿馬鹿しいとは分かっていたが、携帯の電源ボタンを押す。マナーモードをちゃんと解除されていた。とんだ杞憂だった。


 ディスプレイに表示された日付はすでに変わっていた。よし、今度こそ寝ようか。


 俺はやっとのことで人心地になり、毛布の優しい重さに身を委ねる。閉じた眼に浮かぶ、しゅわしゅわと万華鏡のように刻一刻と変わりゆく模様を凝視し続ける。それは穏やかな砂絵であり、湖面にたゆたう波紋でもある。


 これを見ていると次第に意識が遠のき、いつのまに雀が朝を知らせてくれるはずだ。俺はその模様を眺め続けた。


 だが一向に、眠気が立ちのぼる気配がしない。遠足前の小学生のような高揚感。どうも体勢が気に入らなかった。そうだ、俺はどちらかといえば横向きで寝るタイプだ。仰向けがいけないんだ。

 

 寝返りを打ち、手を抜いたり頭の下に置いたりと調節して眼を閉じる。だが意識は鮮明で眠れる気配がない。


 そういえば、携帯のブルーライトを見ると脳波が乱れ、十五分くらいは寝られなくなるとネットで見たことがある。


 十五分。


 頭のちいさな部屋のなかにホワイトボードが出現し、俺は水性ペンで計算式を並べていく。


 彼女との待ちあわせの十時だから、さっき携帯で見た時間を引く。それが彼女に会うまでに使える時間。そこから準備と移動の時間を引いた、残りの時間が睡眠時間だ。


 人間が良い睡眠だと感じるのは九十分周期らしい。

 その見地でいくと一時間半、三時間、四時間半、六時間、七時間半が候補に挙がることになる。つまりは。


 すぐ数式や理詰めで物事を判断しようとするのは、理系の悪い癖だ。俺は咳払いし、頭を空っぽにすることに集中する。


 経験的に分かっていることがある。


 俺は睡眠時間がすくないと面白い冗談が浮かばなくなり、無口になる傾向がある。彼女との初めてのデートで、それだけは避けたかった。


 だが眠れる気がしないのも事実。寝る前の呼吸は鼻呼吸か口呼吸か、どんなふ

うに息を吸って吐いていたか。それが分からない。時計の針が俺を急かす。身体の

熱が鬱陶しい。


 駄目だと分かりつつも、俺は眼を開けてしまった。


 天井が待っていた。埃が溜まる半透明のカバーの向こうに丸い蛍光灯。以上。


 眠れない熱帯夜に迷い込んでしまった。


 まずは身体の熱を覚まそうと、冷蔵庫から麦茶を引っぱりだして一気に空にした。シンクに飲み終わったコップを放置しようとして、こういうところを女子たちは見ているのだと思い直し、それを洗ってからベッドに戻った。


 胃に溜まった麦茶効果で、身体の芯から冷えていくのを感じた。寝られそうな気分。広大な海にたゆたっている気分だ。俺はゆっくり眼を閉じた。その瞬間、携帯がぶるっと震えた。


 俺の冷たい頭に、熱い血がどっと濁流のように流れこんだ。


 だれだ、こんな時間に連絡してくる馬鹿は。赦せん、赦せんぞ。


 同年代、あるいは後輩ならば血祭りにあげようと決意して、携帯をタップする。だが怒りは興奮へと変わった。




“ 私です。こんな時間に申し訳ありません。


 一つ、明日のことで伝え忘れていたことがありました。もうすでにインターネット販売でチケットは購入してあります。明日映画館で発券することになります。


 気が利く先輩のことです、前もって券を購入されるといけないなと思い、こんな時間にも関わらず連絡させていただきました。起こしてしまったのなら申し訳ありません。夜分遅く失礼しました。


 PS.私は楽しみのあまり、ドキドキして眠れないくらいです。先輩もそうだったらいいなぁ ”




 俺の課の四十代前半の女係長が、彼女のことをぶりっ子だと称したことがあった。


「彼女は男に色目を使うから、あんた、騙されないように気を付けなさいよ」


 課の親睦会の酒の席で心配されたのだ。


 だが仮に、上司の言うことが正しく、このメールや彼女の普段の態度がすべて演技で、本心はどす黒く汚れているとしても、やはり俺は彼女に恋をしただろう。


 男に期待を持たせ、男をだまくらかす悪女もいる。だが女に期待を持ち、騙されてもいいという男もこの世にはいる。すくなくともここに、一人いる。


 彼女を守り抜く騎士のように、高らかに志を掲げ、携帯をベッドに置いて眼を閉じる。彼女のメッセージに心臓はさらに興奮し、頭には脳内麻薬物質が飛び交って火花散る。


 胃の麦茶効果も消え失せ、身体は興奮の一途。やがて興奮が下半身の一部に集中し、俺は彼女を思いながら下半身に手を伸ばしかけて、はっと我に返る。


 明日、俺は彼女の隣を独占する。

 それなのに彼女をおかずにしようとしている。言語道断だ。人間としての尊厳、とまでは言わないが、男としての沽券に関わる。


 それにもしも明日、俺たちの距離が急接近するような展開が待っているのなら、今日の我慢はよりよい明日の快楽へ繋がるはずだ。


 夜の試みを自粛という方針に決め、この興奮をどう処理しようかと考える。悩みに悩み、ショック療法ということで、筋トレという手段を講じてみることにした。身体を動かして疲れさせ、スコンと寝てやろうというアイデアだ。


 暗いままベッドを抜けだし、床に掌と足をつけて身体を伸ばす。ここで床を片付けていたことが効いてきた。いいサイクルに入っている。眠れない自分に言い聞かせる。


 腕立て伏せなんて、久しぶりだな。


 高校、大学とテニス部に所属して、体力と腕力には比較的自信があった。だが衰えは進行していて、十五回目に差し掛かるころにはプルプルと二の腕が白旗に追い込まれる。


 気合いで二十回をこなした後、ベッドに戻って腹筋五十回に挑戦する。ベッドのバネがギシギシとやかましかったが、腹筋は苦労なく達成することができた。下腹部が出てきたと悩んでいたけれど、脂肪の下に埋まっている六つの腹筋は、まだまだ現役らしい。


 背筋二十回もやり抜き、これ以上の負荷は明日に響くと察した俺は、冷房を付けてベッドに滑り込む。最近使っていなかったからか、カビ臭い匂いが部屋に循環する。だが身体が一気に冷却されていくのは快感だった。


 漁船に打ち上げられたマグロが、マイナス数十度の冷蔵庫に担ぎ込まれてカチカチになる。そんな夢を見たなら、是非とも彼女に話そうと夢想していた。


 だがそれから、どれだけの時間が経っても眠気はやってこなかった。


 徐々に不安を募らせる俺は、見なければいいのに、時計を見ては睡眠時間を逆算し、また焦ってしまうもんだから、また眠気が遠くなる。


 午前の二時を回っても眠れない俺はついにベッドを抜けだし、途中までで止まっていた文庫本のページをめくることにした。ヒーリング効果があるとかいう、川のせせらぎや野鳥のさえずりを録音した動画も携帯で再生する。


 だがその努力も虚しく、活字を追っても上滑りし、川のせせらぎや野鳥も騒音にしか聞こえない。時計は三時を回る。


 まずい、まずい、まずい。


 ついに俺は、これだけはすまいと決めていた禁断のパソコンを立ち上げ、眠れないときの対処法を教えてくれるサイトを巡っていく。


 携帯のブルーライトで十五分眠れないというのなら、パソコンの光はいかほど効力が増強するのか。それは分かっていたがすがるものが欲しかった。藁をも掴む想いだった。


 ぐっすり眠るには『頭寒足熱』がいいらしいと知った。文字通り、頭を冷たくして、足を温めたほうがいいということだ。なるほど、俺は筋トレによって頭を温め、冷房で足を冷やしてしまった。通りで眠れないわけだ。


 俺は洋服箪笥から靴下を引っ張りだして履く。頭はそうだなぁと考え、保冷剤をハンドタオルに包んで首元に当ててみた。


 テニスで日焼けしたときみたいだなと懐かしくなり、学生の想い出つながりで、そういえば大学の天文部の旧友が、家庭用プラネタリウムを見上げているといつのまにか眠ってしまうと言っていたことを思い出す。


 すのこが敷いてあるベランダで、夜空を見上げてみる。ベランダに吹く夜風は冷たく、頭を冷やすにはうってつけだ。


 屋根越しに見える空には切れ切れの雲がただよっていて、その雲間から星の光がのぞいていた。しばらくぼうっと眺めているあいだに雲が流れ、弓なりの銀白色の月が顔を出す。


 その直下を流れ星が走った。窓の表面に溜まっていた水滴がすこしずつ大きくなり、ついに零れるかのように。


 あっというまもなく流れた星に、両手を合わせて願う。




 神様、どうか聞いてくれ。


 俺は不治の病を治したいわけでも、遠くの地で別々に生きる異性に逢いたいわけでも、湯水のごとく大金をはたく大富豪になりたいわけでもない。


 ただ、眠らせてほしい。


 色々な願いを聞き届けるあんたからしたら、そんな願いと笑うかもしれないが、俺にとっては切実な願いなんだ。頼む、頼むよ。




 眼を開けてみる。さっきまで見えていたはずの銀色の月は、逃げるように雲隠れしていた。俺はくしゃみをして部屋に戻った。


 ベッドの上の時計は四時を差していた。


 俺はまだまだ調べ物を続けた。不眠症の対策の一つとして、寝る時間にはこだわらず、好きな時間に寝ましょうというものがあった。泣きたい気持ちになった。こんなの詐欺じゃないか。


 ほかにも、手に備わっている眠れるツボを押すといいとか、眠れる呼吸法を試すといいとあったので片っ端から試した。結果的には試してみただけだった。


 なにか、なにか方法は。


 検索に没頭していたら、時計は無情にも五時を超えた。頭はどんより重く、眼の奥にしこりのような違和感を感じる。笑いたい気分だった。時計は絶望のカウントダウンと化し始めている。


 俺はそこで、ついにパソコンの電源を切った。


 発想の転換。俺は自分が保ち続けたパラダイムをシフトさせることにした。


 眠れないのなら、寝なければいいのだ。


 俺は寝間着のまま扉を開ける。漆黒の闇は終わり、朝の気配が混ざり始めていた。早朝の張りつめた空気が肌をくすぐる。


 俺は階段を降りていく。入口前にあった植物の葉は朝露で濡れていた。自動販売機で冷たい缶コーヒーを買って飲んだ。


 部屋に戻ってテレビを付け、テンションをあげるときのための曲を流す。カーテンを開け、朝日が部屋を照らすころにシャワーを浴びた。


 気持ちはすこし上向きになった。


 早めに新品の服に着替えて鏡の前に立ってみる。眼も当てられなかった。


 眼窩は落ち窪み、眼の白い部分は充血していた。口は半開きで頬が乾燥して生気に乏しい。剃ったはずの髭も心なしか濃くなっている。ひどい有様だ。


 言い訳を考えなくては。そのためにはまず朝飯を食おう。俺は身体を動かすことにした。


 ある恐怖が芽生え始めていた。


 ここで寝てしまえば確実に起きられないという恐怖。


 俺は自分で掛けた夜空の願いに叛逆する必要があった。近くのコンビニで立ち読みでもして時間を潰そう。国道沿いを歩き始めるころには、通勤する車の排気ガスで街は覆われていた。




 待ち合わせの時間の一時間前に到着した俺は、映画館前のベンチにどっかりと腰かけていた。疲労はピークを超えていた。夜通しカラオケに興じ、徹夜で麻雀の卓を囲っていたのも、もはや過去の栄光だ。

 

 左右の両膝にそれぞれの肘を乗せ、なんとか寝ないようにと顔を支えていると、花形の付属品が付いたサンダルが眼の前で止まった。俺は顔をあげた。


 期待に胸を膨らませる彼女と眼が合った。その顔は一瞬にして雲行きが怪しくなる。


「先輩、どうしたんですか。そのひどい顔」


 いつもは地味な髪留めで結んでいるポニーテールを解き、彼女は一層幼く可愛く見えた。腰元をリボンの形にした水色のワンピースを着ていて、大学生くらいにも映る。


「元々、こういう顔だよ」


「そんなの嘘です。なにかありましたね」


「ちょっと仕事があって」


「そう、ですか。お疲れ様です」


 彼女は同じ課にいるのだ。これが嘘だということは勘づいているだろう。


 俺は空元気に膝をパンと叩いて立ちあがる。だが身体は正直なもので、立ちあがった途端に貧血のようにくらっとした。体調は絶不調だ。


「それじゃあ、行くか」


「は、はい」


 足元がおぼつかなかったが、なんとか発券機を目印に進んだ。彼女は携帯で予約番号を確認する。


 発券が終わったら、これから公開予定の映画を掲載した無料パンフレットを見て回った。彼女はやはり映画が好きなのか、この監督の作風が好きとか、この俳優さんの演技はすごいなどと分かりやすく教えてくれる。


 だが俺に楽しむ余裕はなかった。


 眠い。


 その想いが、楽しいはずのデートを台無しにしていた。彼女が笑いかけてくれるが、俺は相づちに必死で、なにひとつうまくいかない。


 なんとなく気まずい雰囲気になり、ポップコーンやらドリンクの売店前で立ち止まる。


「なにか食べるか」


 起死回生の一手として話しかけてみた。


「遠慮しておきます。私、映画には集中したいタイプなんです。飲んだり食べたりしちゃうと気が散っちゃって」


「そうか」


 必死に紡いだ会話も続かない。


「お手洗いに行ってきますね」


 彼女がお手洗いの角に消えてから、俺は頭を抱える。次の映画を待つ人たちがテラス席に座っていた。男子高校生らしき三人組のジロジロとした視線とヒソヒソ話が視界に映る。


 だがもはやどうでもよかった。


 彼女がお手洗いから帰ってきたと同時に、係員は閉めていたゲートを開けた。


「十時半の映画観賞の方は、三番シネマへとお進みください」


 俺たちは列の最後尾に並んだ。長蛇の列とはいかないが、かなりたくさんの人が並んでいる。


「楽しみですね」


「ああ、そうだな」


 ゲートをくぐる際に、女の係員がチケットを確認してにっこりと営業用スマイルで言う。


「三番シネマです。楽しんでくださいね」


 楽しみたかった。俺だって、心の底から楽しみたかったよ。


 そう叫びたい気持ちをぐっとこらえて、代わりに口から出した言葉は「ありがとう」だ。


 三番シネマの前に飾られた大きな看板で映画を確認し、ホールへと入る。明日で上映が終わることもあり、駆け込み客が多いのか、席はほとんど埋まっていた。


 チケットで席を確認し、すでにいた家族連れに足を引っ込めてもらって指定された席へたどり着く。


 携帯の電源を切り、ガヤガヤと聞こえる観客の騒音をBGMにしていると、ついウトウトし始めた。横にいた彼女が肘で俺の肩を突つく。


「先輩」


「ああ、すまん」


 信じられない、という文字が彼女の顔に浮かんでいる。だけど睡魔は手加減してくれない。意志薄弱とかではなく、もはや抵抗不能だ。


 そしてついに上映開始を告げるブザーが鳴って、ホールが暗くなる。スクリーンに地方広告が始まる。意識はすでにないも同然だ。


 底なし沼に足が取られながらも、必死でもがき続けているかのようだった。引きずりこまれたらもう戻れない。だがすでに喉まで浸かってる。自分を保っていられる最後の時間。


 最後のあがきで顔を隣に向けてみた。彼女はすでにスクリーンに釘つけだった。これからの待ち受ける未来を想像する。


「せっかく招待したのに、眠っていたなんてどういうことですか」


 彼女は怒り、その場でさよならになるかもしれない。


 やるせなかった。けれどそれ以上にやはり、眠かった。


 今や固いはずのシートも温かなベッドさながらで、広告の音声は子守唄に等しい。スクリーンには次期公開予定の映画が流れている。


 上瞼と下瞼が合わさりあう瞬間に、ふと想った。




 映画館は、願いを掛けた夜空に似ている。


 天井に薄く付いているライトが星々で、暗がりのホールは夜の帳。そして銀幕のスクリーンは、眠らずの銀白色の月。




 神様。俺の願いを叶えるのは今じゃない。今じゃないんだよ。


 だけど俺の抗議が聞き入られることはない。


 神様が掛けてくれた、効果発現の遅い魔法に包まれながら、俺は頭から爪の先まで、どっぷりと睡魔の沼に沈んでいった。

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インソムニア 神乃木 俊 @Kaminogi-syun

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