インソムニア
神乃木 俊
インソムニア 甲編
我ながら、浮かれに浮かれまくっている。
明日の午前九時からのデートを控えた俺は有頂天だった。
定刻になるやいなや、五時ダッシュを決め、車を飛ばして街で買いものを済ませたスーツ姿の俺は、でっかい紙袋を携えてアパート三階に帰宅した。
荷物を玄関先に置き、皮靴と鞄をほっぽり出してネクタイを緩める。
そのまま部屋の電気を付けてベッドに背広を放り投げると、左手に下げていた紙袋を、大事に大事に机に置いた。中身は、明日のために新調したシャツやスラックスと、奮発した靴が入っていた。
デートなんて、いつぶりくらいだろうか。
仕事上の付き合いで飲みに行ったのを除けば、大学から付き合っていた彼女と社会人一年目に別れて以来だから、二年ぶりになる。
頬の筋肉が緩んでにやけそうになり、冷蔵庫から缶ビールをとって流し込む。だがむしろ気分は昂揚して浮かれるばかり。ホップの苦みの奥にある幸せを口一杯に味わう。
床に投げられたズボンやシャツを足で端に寄せ、開いたスペースに尻をつき、テレビのリモコンの電源を押しこんだ。明るくなった画面には『異例のロングラン、大絶賛上映中』の文字。
様々な映像がぶつ切りに挿入され、最後には、夜の教室で泣いている制服姿の女子を先生役の男性俳優が胸に引き寄せる。巷では話題沸騰中の美女とイケメンだ。二人は見つめ合い、ほとんど唇と唇が触れ合いそうな距離で映像が終わった。
テレビを付けた瞬間に、このCMが流れるなんて。
運命を感じずにはいられなかった。
もしも明日、うまいこと盛り上がり、彼女が俺の家に来たいなんて言いだそうものなら。
思わず手に力が入り、缶コーヒーがメキッと悲鳴をあげる。
据え膳食わぬは男の恥。
俺は缶ビールを手放し、床にバラまかれた衣類をかき集めてこんもり丸めると、洗面所にあった洗濯機に押しこんで蓋をした。
ついでに洗面所の一番下の棚を開ける。そこには前の彼女とのお楽しみで使用していたものの残りが、いかがわしい箱のなかで待機していた。男女の薄いエチケットに敬礼をし、俺は居間へと戻るとベッドの上に身を投げ、明日の幸せに酔いしれた。
明日のデートのお相手は、一つ下の新入生社員。
まだまだ職場の雰囲気や仕事に慣れてなくて、戸惑う姿もあどけない二十二歳だ。化粧も覚えたてって感じで薄めだが、その擦れてない感じがよかった。
一昨日、ずっと遅れていた議会対策資料作成の目処がつき、俺たちは閑散としたオフィスで詰めていた息を吐いた。時計はすでに二十一時を回っていた。
「仕事の打ち上げに、今週の終末に飯でも食いに行くか」
いつ誘おうか、いつ言おうか。虎視眈々とタイミングを見計らっていた俺は、ずっと温めていた言葉を切り出した。
「いいですね。先輩の驕りですか」
「お前も頑張ったからな。よっしゃ、いっちょ奢ってやるよ」
内心では心臓が飛び出そうなくらいだったが、さも慣れていますよと手に持っていたバインダーで頭をぽんぽんする。
反応が怖かったが、彼女は嫌がるふうもなく、小動物みたいに笑っていた。口角と目尻が重なろうとするように近づく。俺の鼓動はむやみに高鳴る。
「あの、私、ちょうど見たい映画があるんです。先輩も一緒にどうですか」
「え、映画だって。そ、それはいいな」
もしも暇なら、夕飯だけとは言わず、一緒にどこかに出掛けないか。
喉まで出掛かっていた言葉を前に、まさかの彼女からの提案。俺は平静を装うのがやっとだ。
「どんな映画なんだ」
「それがですね。感動系なんです」
彼女が嬉々として話してくれたのが、まさにさっき流れたCMの映画だ。たしか原作が小説で、書店には『何十万部突破』を謳った帯で平置きされていて、駅の広告でも大々的にPRしていた。
彼女の話によると、その映画のタイアップ主題歌は、彼女のお気に入りバンドがその映画のためだけに書き下ろした新曲らしく、是非とも映画で堪能したいとのことだった。
だがしばらくは仕事に追われ、仕事が一段落したときのご褒美としてとってお
いたらしい。だが公開も明後日で終了らしく、ギリギリのタイミングだとのこと。
「土曜日の十時半からですが、先輩、大丈夫ですか」
「俺を誰だと思っているんだ。起きられるに決まっている」
「そうですよね。失礼しました」
土曜日に一緒に食事するから、今日はお開きにしましょう。そうして俺たちは一昨日別れ、長い長い今日の仕事も終えたのだ。
ついに明日がデート。謂わばデートイブの夜だ。
しかしあんなベタベタな恋愛映画を見たいなんて、やはり年の差なのかな。俺は明日彼女に披露する面白エピソードを厳選しつつ、そんなことを考えていた。
彼女と俺とでは三歳差で、俺は今年で二十五歳になる。彼女とは仕事の面倒を見る役目を命じられており、なにかと接点が多い。
会議資料をどうすれば見やすく作れるか。データ処理はどうすれば効率的か。厄介な上司へのホウレンソウはどうすればいいか。
先輩風を吹かせながら、戸惑う彼女にさりげなく教えたとき、濡れそぼった瞳はキラキラと輝く。まるでピンチに駆けつけてくれたヒーローを見上げるような視線。
俺はそんな瞳に恋をした。キザでもなんでもなく、マジの話だ。
つい最近まで、業務をこなすことばかりに必死で、胸がときめくなんて皆無だった。なんかこういう、当たり前の幸せっていうか、人間的な営みを忘れていた気がする。思い出させてくれた彼女に感謝。
明日に標準を合わせた俺は、ずっと貯めていた食器を片し、ペットボトルをゴミ袋に納めた後で熱いシャワーを浴びた。
むだな体毛をT字カミソリでこそぎ落とし、いつもより多めのボディーソープで細胞表面を磨きあげる。そして風呂上がりには仕上げのクリームまで塗った。
ドライヤーで髪をふんわり乾かし、ふやけた皮膚のまま手足の長かった爪も処理した。それから紙袋を開いて服をハンガーに通し、カーテンレールに引っ掛けていく。靴には紐を通し、玄関の真ん中に陣取らせた。
彼女に会う。
たったそれだけのことで、すっかり干涸びてしまったはずの心が潤い、明日がこんなにも待ちきれない。そりゃあ、恋愛の漫画やドラマが無くならないはずだよな。
この世界の、人生の主人公は俺自身だった。
明日のデートにキャッチコピーを付けて楽しんだ後、俺はついに部屋の電気を消した。携帯のアラームは余裕をもって八時にセットし、ベッドの目覚まし時計にも同じ時間に針を回して設定する。
万事は整った。
あとは明日の朝もシャワーを浴び、しっかり髪をセットして新品の洋服に袖を通し、颯爽と彼女をさらうだけだ。
「先輩、その服はどうしたんですか。髪も決まってすごくカッコいいですね」
そんな童貞みたいな妄想を爆発させている自分がくすぐったい。
時間を確認すると、テッペンまで残り数分というところだった。
さようなら、長かった今日という一日。
俺はベッドに潜りこみ、瞼を閉じた。
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