れっつ脱獄!

れっつ脱獄!

 パン! と乾いた銃声が、だだっ広いグラウンドに響いた。走っていた最後の1人が、ゆっくりと倒れる。彼の胸からは、血がどくどくと流れた。

「たかが100キロ走るぐらいで、こんなに時間をかけるとはな。」

 そう言って鼻で笑ったのは、軍服を身にまとった中年の男だ。彼は銃を下ろすと、すでに100キロ走り終えて、自分の前にきっちりと整列している少年たちを見下ろした。その冷ややかな目からは、さきほど殺した少年について、なんとも思っていないことがうかがえる。

「本日の訓練はこれで終わりだ。さっさと戻れ。」

「はっ!」

 少年たちは、はじかれたようにぴしっと敬礼した。


 1007年、大国ニーダーハウゼン王国と、小国シャイト王国との間で、戦争が起きた。結果はニーダーハウゼン王国の圧勝で、シャイト王国からは戦争中に300人の少年が捕虜として連れて行かれ、ニーダーハウゼン王国の地下牢に収監された。


1班

班長 フェルディ・ハールトーク 総合成績 1/53

副班長 エドガー・ローデンヴァルト 総合成績 5/53

バルド・シュミット 総合成績 18/53

ノア・グロート 総合成績 21/53

 

「…今日は2人死んだな。」

 牢番が廊下からいなくなったのを確認すると、1人の背の高い少年が、呻くようにつぶやいた。薄暗い牢屋の中で、彼の金髪はとても目立った。

「これで俺たち捕虜は53人になった。連れてこられたときは、300人いたっていうのに…。」

 金髪の少年は、ため息をついて床に座り込んだ。前髪が彼の整った顔を、ほどよい具合で隠す。

「フェルディ、死んだヤツのこと嘆いてたって、どうしようもねぇだろ。そんなことしてる暇があったら、俺は寝て明日に備える。」

 大柄な短い茶髪の少年が、ごろんと床に寝転がる。フェルディと呼ばれた金髪の少年は、その広い背中を青い目でキッと睨みつけた。

「エドガー、お前はいつもいつもそうやって…。仲間の死をなんとも思わないのか?」

「逆に、仲間の死について何か思ったところで、なんかいいことでもあるのかよ?」

「少しは死んだヤツらの慰めになるだろ。」

「そんなんで慰められるかよ。」

 フェルディとエドガーの間の険悪な雰囲気を察知したのか、赤い巻き毛の少年――バルドが、穏やかに割って入った。

「おいおい、元気なのはいいけどさ、ケンカだけはやめろよ。こんな狭いところで、お前らみたいなでっかいのが殴り合いしたら大変なことになる。なぁ、ノア。」

「そうだね。あぁ、僕もキミたちみたいに大きくなれたらなぁ…。」

 部屋の隅っこで、膝を抱えて座っている黒髪の少年が、羨ましそうにフェルディとエドガーを見た。彼の体は華奢で、少女のようだった。顔立ちも女性的で、お世辞にも男らしい容貌とはいえない。

 フェルディは立ち上がりノアの隣りまで来ると、そこにあぐらをかいた。ノアの頭をわしゃわしゃと撫で、

「まだ成長期が来てないだけだ。気にするな。」

「そうだといいけど。ありがとう。」

 2人は顔を見合わせて、楽しそうに笑った。

 一方横目で見ていたエドガーが、バカにしたように笑う。

「勝手に仲良ししてろ、気持ち悪い。」

「エドガー、その言い方はねぇだろ。お前の顔面の方が、よっぽど気持ち悪ぃからな!」

 言い返したのはノアでもフェルディでもなく、バルドだった。

「お前のテンパの方が気持ち悪ぃわ、バカ。」

「ゴリラーのくせに意味わかんねぇこと言ってんじゃねぇぞ!」

「ゴリラーじゃねぇ、エドガーだ。」

「2人ともやめろ。教官に聞かれたらどうすんだ。」

 フェルディが2人をたしなめる。エドガーはチッと舌打ちし、バルドはエドガーを睨んだあと、そっぽを向いた。


 それからしばらく、無言の時間が続く。他の牢屋から話し声が聞こえるが、何を話しているのかはわからなかった。

 ノアは何気なく、隣りに座るフェルディに目を向ける。フェルディは、どこか思いつめたような顔をしていた。口を真一文字に結び、仏頂面のエドガーたちを、まるで穴でも空けようとしているのではないかと思われるほど、凝視している。こころなしか、ピリピリとした緊張感のようなものも感じられた。訓練中にしか見せないようなフェルディの真剣な表情に、何かあったのだろうかと心配になった。

「…フェルディ?」

 控えめにそう声をかけると、フェルディの体がほんの少し跳ねた。その後フェルディがノアに向けた顔は、いつもの朗らかなものであった。

「なんだ?」

「フェルディ…大丈夫? さっきすごい顔してたけど。」

「あぁ…。ちょっと考え事してたんだ。」

「どんな?」

 フェルディが口ごもり、ノアから目をそらす。その視線は、数秒ノアの周辺をさまよい続けた。ノアは何も言わずに、フェルディが口を開くのを待った。

 やがてフェルディは、薄い唇をかすかに動かして、小さく言った。

「脱獄について、だ。」


 エドガーとバルドは、思わずフェルディのほうに顔を向けた。

「だつ、ごく…?」

 バルドはその言葉の意味がわからないとでも言うように、妙なところにアクセントをおいて繰り返した。バルドだけでなく、エドガーとノアも、きょとんとした顔をしている。

「ずいぶん急な話だな。」

「急じゃないぜ、エドガー。俺はずっと前から…ここに連れてこられたときからずっと、考えてたんだ。いつ、誰と、どうやって脱出するかってな。」

「おいおい、脱獄って…。さすがに座学底辺の俺でも、ここから逃げ出すことが超絶難しいことぐらいわかるぜ。」

 バルドの意見に、エドガーも頷いた。

「俺もそう思う。しかも俺たち1期生は、あとちょっとすりゃ牢獄生活が終わって、ここの国の兵士として正式に使われるんだろ? 脱獄なんか考えなくたって、少し我慢すれば出られるぜ。」

 「そういえば今日でぴったり残り半年だな。」と、エドガーは思い出したように付け足した。

 ニーダーハウゼン王国とシャイト王国の戦争は、6年続いた。その際ニーダーハウゼン王国は、1年に1度、シャイト王国から50人前後の少年を、捕虜として国に連れてきた。捕虜はニーダーハウゼン王国の王宮の地下牢に収監され、10年間兵士になるための訓練を受ける。フェルディたちは1期生であり、収監されてから9年半が経過していた。

「たしかに出られることは出られる。でも、俺たちが兵士として歓迎されるわけないだろ。俺たちは、ここの国の人間じゃない。どうせここの国の兵士に嬲り殺されておしまいだろ。」

 フェルディの低い声に、3人は言葉を詰まらせた。

「俺は脱獄して、故郷に帰りたい。そのためには、死ぬ前にこの国を出る必要がある。あと半年ある訓練で死ぬかもしれない。兵士になってから死ぬかもしれない。いつ死ぬかなんてわからないさ。だからこそ、今脱獄するべきだと思う。」

 一息ついて、フェルディはいたずらっ子のように、ニヤリと笑った。

「過去に収監されていた犯罪者を含め、ここから脱獄できたヤツはいないらしい。どうせ死ぬんなら、でかいことやってから死のうぜ。」

 フェルディは、3人を順番に見た。腕を組んで怪訝そうな顔のエドガー、首をかしげて困惑気味のバルド、縮こまって不安そうなノア。

「俺はやる。お前らはやるか?」


 沈黙が訪れる。フェルディ以外の3人はうつむいていたが、時折チラチラと互いの顔を盗み見ていた。誰か何か言ってくれ、と目で訴える。しかしフェルディも含め、誰も言葉を発さない時間が、1分ほど続いた。

 誰かがゴクッとつばを飲んだ。それはやたらと大きく、4人の耳に聞こえた。

「…俺、やる。」

 手を挙げたのは、バルドだった。今の彼には、普段の子供っぽさはまるでない。緑色の目に宿る光は、真剣そのものだった。

「おい、バルド正気か!? お前マジでやるのか!? そんなの自殺行為だぜ!?」

 エドガーの地を這うような低い声が、狭い牢屋に響いた。仲間の決断が予想外だったのだろう、その瞳孔は開いていた。バルドは躊躇なく「俺はやる。」と、もう一度はっきり断言する。

「家に帰りたいんだ。」

 バルドの決断の理由はたったそれだけであったが、シンプルであるがゆえに、その言葉はエドガーの胸に刺さった。

「…俺だって帰りてぇよ。」

 エドガーが目を伏せる。

「じゃ、帰ろうぜ。そんで、普通に暮らそうぜ、故郷で。」

 エドガーは、床に視線を落としたまま、じっと考え込んでいる。フェルディはその様子を、何も言わずに見つめていた。

 やがてエドガーは、チッと舌打ちし、茶色い頭をがしがしとかいた。

「俺もついてってやるよ。お前ら2人だけじゃ、心配だしな。」

「ありがとう、2人も。」

 フェルディは、バルドとエドガーに向かって、微笑んだ。

「で、ノアはどうする? どっちでもいいぞ。」

 ノアはまだ膝を抱えて、下を向いていた。その小さな体は小刻みに震えていたが、それに気づいたのは、ノアの隣りにいるフェルディだけだった。

「…僕も、行くよ…。」

 震えた小さな声だったが、たしかにノアはそう言った。

「脱獄なんて、ちょっと怖いけど…。でも僕は家に帰って、戦術以外の勉強をしたいんだ…。」

「ノアらしいな。」

 フェルディはノアの頭に手を乗せ、優しくポンポンと叩いた。

「なんで好んで勉強したがるのか、よくわかんねぇよ。そんなちっせぇ頭にこれ以上知識詰め込んだら、頭爆発するんじゃねぇの?」

 バルドがいつもの調子で、ノアに笑いかける。エドガーは「そんなわけねぇだろバカ。」と、笑ってからフェルディに向き直った。

「おい、フェルディ。いつ脱獄するつもりだ? まさか今日とか言うなよ。」

「よく分かったな、エドガー。今日だよ。」

「…はっ?」

 エドガーの反応が、少し遅れた。それに対し当たり前だろ、とでも言うような態度のフェルディ。

「俺さっき言ったろ、『脱獄するべきだと思う。』って。」

「そんな細かいところ覚えてねぇよ! なぁ、ノア!」

「いや、たしかにそう言ってたよ。『今』って。」

「…そうか、さすが座学1位の記憶力だな。お前が言うなら間違いねぇわ。」

 エドガーは諦めたように、へへっと笑った。その後すぐに真面目な顔になり、

「でも当然作戦はあるんだろうな? 今から色々考えたり準備したりするんじゃ、今日実行は無理だぞ。」

「もちろん。」

 フェルディは立ち上がり、反対側の壁に近づいた。壁は石造りだが決して平たくはなく、大きな石を積み上げ、隙間を接着剤で埋めただけの、雑な造りをしていた。フェルディは大きな石のひとつをつかみ、引っ張る。するとその石が、壁からすっぽりと抜けた。

 3人が唖然としている間に、フェルディはさっきまでいた場所に戻り、床に石を置いた。石は手のひら2つ分ほどのサイズだった。真ん中がくりぬかれていて、まるで引き出しのようである。中には折りたたまれた2枚の紙と、黒ずんだ鍵があった。

「俺はここに来たときからずっと、脱獄のことを考えていた。牢屋に逃げ道がないか調べてたら、こんな引き出しが見つかったんだよ。おそらく、昔収監されてた犯罪者が作ったんだろう。」

 フェルディは石の上の紙を取り出し、広げて床の上に並べた。2枚とも黄ばんでいて、いかにも古そうである。

「…地図?」

「ああ。この城の地図だ。といっても、地下だけだが。教官が落としたのを昔拾ったんだ。意外と無用心なんだな、アイツら。」

「そういえば俺らは、毎日見張られながら決められた通路を通っているから、この地下のことはほとんど知らないな。こりゃ便利だぜ。」

「ねぇフェルディ、やたらと細長い通路が部屋の壁からのびてるところがあるけど、これはなに?」

 ノアが尋ねると、フェルディはよくぞ聞いてくれたとでも言いたげに、腕を組んでニヤッと笑った。

「それは隠し通路だ。」

「隠し通路…?」

「そう。部屋の妙なところから妙な方向に、妙な通路がある。どう考えたって隠し通路だろ。」

 フェルディは紙を1枚手に取り、みんなに見せた。

「これは俺たちのいる、地下2階の地図だ。で、この地図には合計3ヶ所の隠し通路がのっている。そのうちの1ヶ所は…。」

 もう1枚の紙を取り、これもみんなに見せる。

「この地下1階の地図にある4ヶ所の隠し通路のうちの、1ヶ所とつながっている。」

「ほんとだ…。ということは、この隠し通路をうまく使って地上に出て、脱出するってわけだね?」

「そういうこと。隠し通路なら、見張りだってそんなウロついてないだろう。油断しなければ、倒せるはずだ。」

「でもよ、どうやって倒すんだ? 素手だったらちょっと無理があるぜ?」

「それは、これで解決だ。」

 フェルディは小さな鍵をつまんだ。

「これは武器庫の鍵だ。」

「それも拾ったのか?」

「いや、教官から盗ってきた。」

 3人が、いっせいに呆れ顔になる。3人を代表して、エドガーが口を開いた。

「は? お前バカなの?」

「バカじゃない。今後のことを見据えての行動だ。どうやって盗んだか、知りたいか? 長くなるが。」

「長いならいい。ってかそれ、ほんとに武器庫の鍵なんだろうな?」

「それは間違いない。ほら、ここに『武器庫』って文字が彫ってあるだろ?」

 3人は、鍵をのぞき込むようにして見た。牢屋が薄暗くて見えづらいが、たしかにうっすらと『武器庫』の文字が見えた。

「これで武器庫を開けて武器を見つけて、地図の隠し通路を通って地上に出る。で、そのまま故郷に直行ってわけだ。」

「それは分かったけどよ、その前にここから出なきゃだろ。それはどうすんだよ?」

 バルドが、くるくるした赤毛をいじりながら、首をかしげる。バルドの質問に答えたのは、ノアだった。「あの…。」と、控えめに手を挙げる。

「僕に考えがあるんだ。」


 消灯の時間になった。2人の軍服の男によって、廊下の壁のランプの火が、3個置きに消されていく。彼らが、今日の牢番だ。

 消し終わったあと、牢番の1人が、1班の牢屋と隣接している壁の前の椅子に、どっかりと座った。その拍子に、腰につけた鍵の束が音を立てて揺れる。もう1人の牢番は、この通路のもう一方の端にある牢屋のところにいるはずだ。

 フェルディたち1班は、皆床に寝転がっていた。だが目を閉じているだけで、寝てはいない。彼らは床のひんやりした冷たさを感じながら、廊下の様子を静かにうかがっていた。

 彼らが目を開けたのは、消灯から2時間後だった。遠い方の牢番が椅子から立ち上がる小さな音を聞き、4人はいっせいに目を開いた。足音が遠のき、完全に聞こえなくなると、フェルディとエドガーが、むくっと起き上がる。

 2人は目を合わせて小さく頷くと、足音を一切立てずに、牢番がいる方の鉄格子に近づいた。

 フェルディが、鉄格子に顔を近づけて、牢番の様子を伺う。牢番は寝ていて、彼らの接近に気づいていない。

 フェルディがしゃがんで鉄格子の間から手を伸ばし、牢番の手を引っ張る。牢番の体が傾いた。フェルディは反対の手で、牢番の口を抑える。その直後、エドガーが持っていた石の引き出しで、牢番の後頭部を殴った。ゴッという音がして、牢番が床に崩れる。フェルディが男の腰を咄嗟に支えたのと、口を抑えていたのとで、男が床に倒れた音も、呻いた声も大きく聞こえずにすんだ。

 フェルディの手が牢番の腰をまさぐる。服のベルトに鍵束がついているのを見つけると、フェルディは両手でいとも簡単にベルトを引きちぎった。そしてそれを、後ろで待機していたバルドに渡す。

 4人の中で一番視力が良いバルドは、互いの顔すらよく見えないほど暗い中でも、一瞬で1班と書かれた鍵を見つけることができた。バルドが1班の牢屋の鍵を、鍵穴に突っ込んで回す。カチャッと音がして、鉄格子の扉が開いた。4人は素早く外に出る。

 バルドが鍵を閉めている間に、他の3人は牢番が死んだことを確認し、元のように椅子に座らせた。後頭部からは血が流れ続けているが、それは牢番の帽子でうまく隠した。これで牢番は、寝ているようにしか見えないだろう。

 牢番の膝に鍵束を置き、ランプを持って、4人は地図の通り武器庫へ向かった。フェルディが古びた鍵で、扉を開ける。最初にフェルディが部屋に入り、誰もいないのを確認すると、手招きして外にいる3人を中に入れた。内側から鍵をかけ、ほうっと安堵のため息を洩らす。

「運がよかったな。ここまでは成功だ。」

「向こう側にいた牢番が、トイレ近いヤツでよかったぜ。」

 フェルディとエドガーが、ハイタッチをする。今の作戦は、2人の活躍が大きかった。成功したのが嬉しいのだろう。危機的状況であるにも関わらず、2人は曇りなく笑っていた。

「ノア、お前すげぇな! あの短時間で、この作戦を思いつくなんてよ! さすが座学1位!」

 バルドがノアの頭を、両手でめちゃくちゃに撫で回す。ノアは髪がひどいことになっているにも関わらず、「そんなことないよ。」と、頬を赤らめた。

「よし、皆好きな武器を持ってけ。なるべく多く持ってたほうがいいが、邪魔にならない程度にな。」

 大きな銃は肩にかけ、短剣や短銃、替えの弾はポケットに入れた。バルドは弓の扱いが上手であったが、弓は大きくて邪魔になりそうだったので、持って行くのをやめた。

「武器は持ったな? じゃ、急いで隠し通路のある部屋に行くぞ。俺たちには時間がない。この夜の間に、すべて終わらせなきゃいけないんだからな。」


 ランプを持ったフェルディが、武器庫の扉をそっと開け、外に誰もいないことを確認する。全員が部屋から出ると鍵を閉め、一行は隠し通路のある部屋へと向かった。

 先頭を歩くフェルディは、地図に目を落とす。その部屋は『死者の間』と書いてあった。入るのを遠慮したくなるような名称の部屋だが、上に行くにはこの部屋に入らなければならない。

「ここだな。」

 フェルディが立ち止まる。

「俺が開ける。お前らは下がってろ。扉の正面に来るんじゃないぞ。」

 フェルディは取っ手をつかみ、ゆっくりと扉を開ける。

 扉が半分まで開いたときだった。扉との向かい側にある壁に取り付けられた、人の頭の彫刻の口が、パカッと開いた。それにいち早く気づいたのは、バルドだった。バルドは渾身の力で、フェルディに体当たりする。それとほぼ同時に、彫刻の口から放たれた矢が、さきほどまでフェルディがいた場所に突き刺さった。

「いてててて…。」

 フェルディもろとも吹っ飛んだバルドが、ぶつけたらしい頭をさすりながら、起き上がる。

「悪い、バルド。助かったよ。お前大丈夫か?」

「おう。たいしたことねぇよ。ちょっと頭がバカになったかもしれねぇけど。」

「それ以上バカになったら、大惨事じゃないか。」

 バルドが、フェルディに手を差し出す。フェルディはがっしりした手でその手をつかみ、立ち上がった。

「おい、お前ら! 中は入っても大丈夫そうだぜ!」

 部屋の中から、エドガーが叫んだ。フェルディとバルドも、部屋の中に入る。

「…なんだここ?」

 バルドは部屋をぐるりと見回して、眉を寄せた。

 部屋は必要以上にランプがついていて、やたらと明るかった。天井付近の壁には、何枚もの肖像画が飾ってあり、床には大量の石碑が並んでいる。

「あの肖像画の人たち、誰だ?」

「たぶんニーダーハウゼン王国の、死んだ王家の人たちじゃないかな。昔本で見たことあるよ、この絵。」

 そう言うノアの賢そうな灰色の瞳は、キラキラしていた。半ばうっとりしたように、肖像画を見つめる。

「俺シャイト王国の王家の人ですら、今の王様以外1人も顔知らね…あ、おい、アイツ見たことあるぜ!」

 バルドが指さしたのは、1番端にある肖像画だった。5歳くらいの、肩まである金髪の男の子の絵だ。男の子は病人のように青白く、顔は見事なまんまるで、やたらと大きかった。その青い目は顔の肉に埋もれているため、かなり小さかった。

「『ディルク・アルトマイアー』。」

 ノアが、肖像画の下の札にある名前を、声に出して読む。そして思い出したように、パン! と手を叩いた。

「そういえば、僕たちが収監されたばかりの頃、この国の王子様が、牢屋の様子を見に来てたね。こんな顔と名前だったかも。」

「記憶力がない俺でも、さすがにこのぶくぶく顔は覚えてるぜ。ここに肖像画があるってことは、死んだのか。きっと食いすぎで体壊したんだろうな。」

「そうだね。」

 バルドの推測に、ノアは苦笑した。

「おい、フェルディ。もう変な仕掛けもなさそうだし、さっさと隠し通路見つけようぜ。」

 エドガーが、フェルディに声をかける。フェルディは、反応しなかった。部屋の端にある石碑を前にして、棒のように突っ立っている。石碑を見つめるその目は、どこかうつろだった。

「…おい。」

 フェルディの肩に、エドガーの手が置かれる。フェルディはビクッと体を震わせ、驚いたようにエドガーを見た。

「何見てんだよ?」

 エドガーも、さっきまでフェルディが見ていたあたりに、目を向ける。石碑には、たくさんの名前が綴られていた。

「…死んだ兵士の、名前だ。」

「なんでそうだと分かる?」

「なんとなく、な…。」

 そう答えて、フェルディは目を伏せる。その美しい横顔は暗く、途方に暮れているように見えたが、エドガーにはなぜフェルディがそんな顔をするのか、理解できなかった。

「…フェルディ?」

「もう大丈夫だ。隠し通路を探そう。時間がない。」

 フェルディは釈然としない表情のエドガーに背を向け、「きっとあれだな。」と言い、部屋の隅っこにある棚に近づいた。

「地図の隠し通路の位置的に、この棚の裏にあるに違いない。調べてみるか。」

 フェルディが棚に手を伸ばす。その手を、バルドが抑えた。不意をつかれ驚くフェルディに、バルドは歯を見せて、ニカッと笑う。

「お前ばっか先陣切ってんじゃねぇよ。俺にも活躍させろ。」

「別に今のは先陣を切ったつもりはないが…。まぁいい、頼む。」

 バルドは「へへっ。」と笑い、上から順に、引き出しや小さな扉を開けていった。中には手帳や手紙、本、瓶など、様々なものが乱雑に入れられている。

「やっぱ上の方にはなんもねぇか。ってことは…。」

 1番下の扉は、両開きになっていた。高さはバルドの膝あたりまであり、この棚の扉の中では1番大きい。

「やっぱ怪しいのはここだよな。」

 バルドはしゃがんで、扉を勢いよく開ける。その瞬間扉の奥から、銀色に光るナイフが飛び出してきた。それは動くことすらできなかったバルドの左胸に深く突き刺さり、バルドは「うっ。」と、呻き声を上げて倒れた。

「バルド!?」

 バルドのシャツが、左胸からの血によって染められていく。赤黒いそのシミは、みるみるうちに大きくなった。

「バルド! しっかりしろ!」

 フェルディが、バルドを抱きかかえる。バルドの顔は、脂汗でびっしょりだった。呼吸も荒く、あふれる血は止まらないどころか、勢いを増している。それでもバルドは、うっすらとではあるが目を開いて、3人の少年を涙を浮かべて見つめた。その姿は痛みに耐えているというよりも、薄れゆく意識をなんとかして保っているように見えた。

「バルド! お前こんなナイフごときに負けてんじゃねぇよ! 何死にそうな顔してんだよ!」

 フェルディは、静かにしなければならない状況であることを忘れ、金切り声で叫ぶ。彼のこんな大声は、他の3人にとって、初めて聞くものだった。バルドは必死なフェルディを見て、引きつり笑いをする。その口がわずかに動き、かすれ声が洩れた。

「か…れ、よ…。」

 バルドの首から力が抜け、頭がガクッと傾く。バルドは17歳で、その生涯を終えた。


 フェルディは、血が自分につくのも構わずに、震えながらバルドを抱きしめた。その間ずっと、「俺のせいだ。」「俺が扉を開けていれば。」などと、うわごとのようにつぶやいていた。一方ノアは、バルドが倒れたときから泣きっぱなしだった。身を震わせて、すすり泣いている。

 エドガーは、バルドが刺されたときこそ動揺していたが、今はもう落ち着いていた。その場から動こうとしない2人に、「おい。」と短く声をかける。

「いつまでメソメソしてんだ。行くぞ。」

「…バルドをほっとけっていうのか?」

 フェルディが顔を上げ、エドガーを睨む。エドガーも負けじと、フェルディをいかつい目で見下ろす。巨体であるがゆえに、その威圧感はフェルディの比ではなかった。

「そうだ。もうバルドは死んだ。死人にかまう理由なんてあるのか?」

「でもバルドだぞ! 大事な仲間じゃねぇか! お前は仲間が死んでなんとも思わねぇのかよ!?」

「そんなわけねぇだろっ!」

 エドガーの叫び声が、部屋に大きく響いた。野太く強い声だ。ノアの、目をこすっていた手が、ピタリと止まった。

「大事な仲間だからこそ、置いていくんだよ。このままここにいても、時間が過ぎていくだけだ。そのせいで後々誰かに見つかったら、元も子もねぇんだよ。バルドが死んでまで棚調べた意味もなくなるんだよ。それに、自分が死んだせいで俺らが見つかったなんて、思わせたくねぇだろ。」

「…。」

 フェルディもノアも、黙ったまま答えない。エドガーは棚の前にしゃがみ、棚の中をのぞき込んだ。

「分かったらさっさと行くぞ。そこに罠があったってことは、隠し通路はこの棚の奥のはずだ。罠も作動したことだし、安心だな。」

 エドガーの上半身が、1番下の棚に入る。すぐにバリッと音がした。棚の壁に接しているほうの面を殴ったのだろう。それから数回バリバリという音が聞こえた。「もういいだろう。」と言って、エドガーの巨体が棚の奥へと消える。

「お前らも来い。罠はねぇみてぇだ。」

 ノアはしゃくりあげながら、フェルディを横目で見る。フェルディはバルドを抱きかかえたまま、その巻き毛に手を乗せていた。フェルディの唇は、わずかに震えていた。

「…。」

 ノアは棚の中に入り、エドガーが空けた穴に腕を通す。そのとき後ろで、フェルディの低い声がした。ノアの動きが止まる。

「…お前に2度も助けられたこの命、無駄にはしない…。」

「…。」

 ノアは穴をくぐり抜け、隠し通路へ出た。


「この通路をまっすぐだ。途中曲がり角があるが、無視してまっすぐ進む。曲がったら、別の部屋に出るからな。」

 3人は、1列になって歩いていた。先頭がランプと地図を持ったフェルディ、真ん中がノア、殿がエドガーだ。

「これだけ暗いと、いつ何が起きるかわからない。気を引き締めて行くぞ。」

「んなこたぁ分かってるぜ。それにしてもお前、切り替え早ぇな。」

 フェルディはふっと笑い、頭だけを動かして、エドガーと目を合わせた。

「お前のおかげだ、エドガー。俺はさっき冷静じゃなかった。俺は進まなきゃいけないんだ。たとえ、計画が狂ってもな。」

「そうだな。正直言って、誰かは死ぬだろうと思っていた。でも、バルドが死ぬのは誤算だったな。アイツはバカだけど、運動神経だけは抜群だからよ。」

「じゃ、エドガーは、誰が1番先に死ぬと思ってたの?」

 ノアが控えめに尋ねた。

「フェルディだ。」

 ノアが意外そうな顔をして、後ろを振り向く。

「総合成績1位なのに? 4人の中で1番運動できないの、僕だけど…。」

「フェルディは頭もいいし、体力も技術もある。ってかなんでもできる。でもフェルディは、危険なことを率先してやるタイプだろ? 現にさっきからずっと、先頭歩いてるし。だから真っ先に死ぬのは、フェルディだと思ってたよ。」

「なんかそう言われると、照れるな。」

「褒めてねぇよ、バーカ。」

 左に曲がり角が見えてきた。フェルディが銃を下ろすと、後ろの2人もそれに続いて、銃を下ろした。

 フェルディは銃をかまえたまま、壁に背中をくっつけて、曲がり角に近づく。その表情は、石のように力んでいる。

 足に力を込めて、一気に飛び出そうとした瞬間だった。

 曲がり角から、1人の男が飛び出してきた。男の手にしたナイフが、フェルディの目の前で冷たく光る。フェルディは咄嗟に首を守り、体を勢いよくひねる。頬に小さな痛みが走った。

「フェルディ! ノア! しゃがめ!」

 エドガーが叫ぶ。2人がしゃがむと、バン! という銃声とともに、男が絶叫しながら倒れて足を抑えた。

「俺がとどめをさす! お前らは早く隠し通路の外に行け!」

「了解!」

「すぐ来るんだよ!?」

 フェルディとノアは、倒れた男を飛び越えて走った。残ったエドガーは男に近づき、暗い中男の頭に銃の狙いを定める。

 エドガーが引き金を引こうとしたとき、右足首の後ろに、焼けるような痛みを感じた。バランスを崩したエドガーは、銃を落としてその場に倒れる。

 殺そうとしていた男の手に、血のついたナイフが握られていた。倒れながらも、なんとか抵抗したのだろう。切られた場所はアキレス腱だった。これでは、右足が使い物にならない。

「クソっ…!」

 エドガーはポケットから、短銃を取り出す。だがそれを男に突きつける前に、新たな敵が自分を見下ろしていることに気づいた。倒れた男と同じ軍服を着たその男は、銃をかまえていた。そしてその銃口は、エドガーの頭に向けられていた。エドガーは、自分の顔の血が、ザラリと引いていくのが分かった。稲妻のように、戦慄が体中を駆け巡る。

「…!」

 カチリと音がする。エドガーの心臓が、ドクンと大きく脈打った。

 

 1発の銃声が、隠し通路の方から聞こえた。

「…やったみたいだね。」

 フェルディは頷く。彼らはすでに、隠し通路の先にあった、地下1階の食料庫にたどり着いていた。こちらは隠し通路の行き止まりの壁にあるレバーを押すと、壁がスライドして部屋の中に入れるという仕組みだった。

「すぐに来るだろう。それまで待つか。」

 しかし2分ほど待っても、壁が動く気配は一向になかった。2人は顔を見合わせる。2人とも、驚きと不安が混ざった、複雑な表情をしていた。

 ノアが怯えたように、口を開く。

「…まさかとは思うけど、さっきの銃声って…。」

「…エドガーのじゃないな、きっと。」

 フェルディが苦々しく言った途端、ノアは隠し通路があるあたりの壁を、ペタペタと触り始めた。切羽詰った表情で、普段おとなしそうな彼からは想像もできないような、取り乱し様だった。

「…レバーを探してるのか?」

「そうだよ! まだエドガーは生きてるかもしれない! 早く隠し通路に戻って、助けないと…!」

「レバーはない。この地図によると、ちょうどこのあたりにバツ印がついてる。一方通行なんだよ、あの通路は。」

「でも…!」

「もうエドガーは助からない。もう死んでるんだろうな。」

「フェルディ!」

 ノアはようやく調べる手を止め、潤んだ瞳でフェルディを見る。ノアはハッとして、次に言おうとした言葉を飲み込んだ。

 フェルディは淡々とした口調と裏腹に、気の抜けたような顔で、宙をボーッと見つめていた。綺麗な形の青い目には生気がなく、まるで死んだ魚のようだった。

「…フェルディ?」

「あぁ、そうか…。俺はまた、死なせたんだな…。」

 フェルディは銃を下ろして壁に背中をつけると、ずるずるとその場に座り込んだ。両手で頭を抱え、熱に浮かされたようにポツポツとつぶやく。

「…こんなことになるなら、さっさと死んでおくんだった…。俺が死んだとなれば、アイツだって考え直しただろうに…。」

「フェルディ? 何を言っているの…?」

 それには答えずに、フェルディは自嘲気味に笑った。その様子は、ノアの存在を忘れて、何かに取り憑かれているようだった。

「バルドとエドガーには、ひどいことをした…。アイツらは俺に騙されたまま、死んだってことか…。最低な男だな、俺は。」

「フェルディ!」

 フェルディは目が覚めたように、顔を上げる。気づけばノアが、しゃがんでフェルディの両肩をつかんでいた。

「キミが何を言っているのか、僕にはよくわからない。でも、自分を責めないで。エドガーとバルドが死んだのは、フェルディだけの責任じゃない。僕のせいでもあるんだよ。それに…上から目線になっちゃうけど、キミはよく頑張ってると思う。」

「…仲間を死なせておいてか? それに俺は、アイツらを騙した。いや、アイツらだけじゃなく、大量の人間を…。」

「ねぇ、さっきから言ってる『騙した』って、なんのこと?」

 フェルディは、どんよりした目でノアを見つめた。感傷的な暗い声で、

「本当のことを話したら、きっとお前は俺を殺したくなるぞ。ま、こんな身勝手なことしたあとだし、殺されても文句は言わないが。」

「絶対に殺さないよ。だから言って。」

 フェルディはためらうように、ノアの目から視線を外した。だがすぐにノアの目をしっかりと見て、すっと息を吸い込んだ。


「俺は、シャイト王国の人間じゃない。ニーダーハウゼン王国の人間だ。」


 ノアは表情をピクリとも変えなかった。

「あのとき、戦争の混乱に乗じて、俺はシャイト人のふりをして捕まった。2期生として入れられたんだが、成績がよかったおかげで、3年目には1期生として、お前らと一緒に訓練することになった。俺が上がってきたことなんて、お前らは覚えちゃいないだろうけどな。」

「覚えてるよ。」

 ノアはそう言って、優しそうに軽く微笑んだ。

「教官から紹介されてるキミを見て、すごい綺麗な顔だなって思ったんだ。」

「男にそう言われても、嬉しくないな。」

「ほんとだよ。あと、そのときの雰囲気は今と違って、貴族的だったというか、高圧的だったというか…。近寄り難かったかな。だから印象的だったよ。」

「貴族的、ねぇ…。」

 フェルディの口元がほころぶ。ノアは微笑んだまま、首をかしげた。

「ほんとに貴族だったの?」

「まぁ、そんなところだ。だから俺の家は、ニーダーハウゼン王国のお偉いさんとも親しかった。その中でも、俺を弟みたいに可愛がってくれたヤツがいてな。戦争のときソイツは、10代後半にして大佐だった。俺は捕虜になる少し前、ソイツに頼んだんだ。自分が捕虜になってちょうど9年半経ったら、俺を助けに来いって。で、そのときになったら、この部屋で合流しようってことになった。でもこの部屋に来るまでは、地下2階にある武器庫の隠し通路を通らなきゃいけないって言われてな。ソイツは俺に、地下の地図と武器庫の鍵を渡してくれた。」

「地図を拾ったっていうのは、嘘だったんだね?」

「あぁ…。悪かったよ、嘘ばっかついて。」

 ノアは「いいんだ。」と、首を横に振った。その顔からは、怒りはまったく感じられなかった。それどころか、嬉しそうに笑っていた。

「じゃ、大佐とやらは、もうすぐここに来るってことだ。」

「いや、来ない。」

「えっ?」

 ノアの表情が固まる。

「でも、ここで合流って…。」

「アイツは死んだ。」

 ノアの顔から、笑顔が徐々に抜け落ちる。それと入れ替わるように、顔がさーっと青ざめていった。

「さっき肖像画だらけの、気持ち悪い部屋に入ったろ。あそこにあった石碑には、死んだニーダーハウゼンの兵士の名前が書いてあった。そこに、アイツの名前もあった。」

 フェルディは、はーっと長く息を吐く。金色の髪に細長い指を差し込み、再び頭を抱えてしまった。

「そこで計画が狂った。だから俺は、気が動転したんだろうな。そのあと一気に、仲間を2人失った。俺がもっとまわりに気を配っていれば、こんなことには…。」

「だから、自分を責めないでって言ってるでしょ。責任は僕にもあるんだから。それで、フェルディはなんで、わざわざ捕虜になったの?」

「それは…。」

 フェルディの目が泳ぐ。そのとき部屋の外から、かすかな足音が聞こえた。フェルディとノアは、さっと立ち上がる。

「隠れるぞ。」

「うん。」

 フェルディはランプの炎を消し、それを近くの木箱に入れた。部屋を見渡して、隅に大きな樽があるのを見つけると、それにつかつかと歩み寄る。

 樽の中には、じゃがいもが入っていた。じゃがいもは、樽の高さの5分の1程度しか入っていない。小柄な人間なら、簡単に入りそうだ。

「ノア、ここに入れ。」

「えっ、でもじゃがいもが…。」

「いいから入れ。」

「えっ、うわぁっ!」

 ノアが小さく悲鳴を上げる。フェルディがノアの体を抱えて、樽の中に入れたのだ。ノアは何か言いたげにフェルディを見上げたが、フェルディは問答無用で樽の蓋を閉めた。

 残されたフェルディは、立てかけてあったはしごを使って、天井のすぐ下にある、棚の1番上まで上った。その動きはまるで猫のようにしなやかで、無駄がなかった。上ってきたことが悟られないよう、はしごを適当なところにぶん投げる。そのあと木箱に隠れて体を棚の上に横たえ、息をひそめた。

 足音が部屋の前で止まった。バン! と乱暴に扉が開けられる。ノアは、樽の板と板のわずかな隙間から、外の様子を見た。4人の男たちが、銃をかまえながら入ってくる。

「おい、ここにいることは分かってんだぞ! 出てこい!」

 1人が叫んだ。当然のことながら、反応はない。

「探せ。」

 男たちがいっせいに散らばる。木箱を開けたり、棚をのぞき込んだりと、人が入れそうなところを調べ始めた。

 ノアは銃を抱えながら、来るな来るなと祈る。しかし、こんな大きな樽を見過ごすわけがなかった。1人の男が、まっすぐこちらに向かって歩いてくる。ノアは、荒くなっていく自分の呼吸を殺すように、両手で口を抑えた。ぎゅっと目を閉じると、いつの間にかたまっていた涙が、つーっと目尻からこぼれた。もう終わりだ。見つかって撃たれて死ぬんだ…。

 そう思ったとき、銃声がした。樽に何か重いものがぶつかったらしく、樽が左右に揺れる。

「おい、ルーカス!」

 誰かの名前を呼ぶ声。続いて、銃声が2発連続で聞こえた。断末魔が、部屋を支配する。何が起きているのかわからないノアは、混乱しながら樽に顔をくっつけ、外を見た。

 2人の男が、血まみれになって床に倒れていた。1人はノアが隠れている樽のそば、もう1人は、部屋の真ん中だ。

 おそらく、フェルディが銃を撃ったのだろう。だがノアには、フェルディがどこに隠れているのかわからない。ノアは必死に目だけを動かしてフェルディを探すが、見つからなかった。

 再び銃声。1人の男が倒れる。残った最後の男は、今のでどこから弾が飛んできたのか分かったらしく、棚の2段目に飛び込んだ。その行動で、ノアもフェルディの居場所を察する。棚の1番上に目を凝らすと、木箱と木箱の間から、黒光りする銃口が見えた。フェルディの銃に違いない。だが自分の真下に敵が来られては、撃つことができない。

「僕だって…!」

 ノアは、勢いよく樽の蓋を押し開けた。その派手な音で、男がぎょっとしたように、こちらを向く。すかさずノアは銃をかまえ、引き金を引いた。男の肩に命中する。もう1度撃つと、今度は男の頭から血が吹き出した。

 フェルディが棚から飛び降りる。たんっという軽い着地音がした。

「よくやった! 行くぞ!」

 ノアは樽から出ると、銃を肩にかけた。

「うん!」

 

 倉庫を飛び出し、廊下を全力で走る。後ろから「待て!」という声がして、弾丸が2人から3メートルほど離れた花瓶を貫いた。

「銃の腕前は大したことないな。」

 フェルディは短銃を取り出し、走ったまま後ろの男に向かって引き金を引いた。男は腹を抑えて、その場にうずくまる。

 フェルディは角を曲がり、狭い階段を2段飛ばしに駆け上がる。ノアはそれに続きながらも、「待って!」と制するように叫んだ。

「隠し通路を通らなくていいの!?」

「そんな暇はねぇ! 近道して強行突破だ!」

「でも、その階段を上がったところには、きっと敵が待ち伏せして…!」

「俺に考えがある! 任せろ!」

 フェルディが階段を上りきる。だがその足は、それ以上進むことはなかった。

 ノアも階段を上りきる。そこは大広間だった。おとぎ話に出てきそうな、美しく輝く広間。なんて綺麗な場所だろうと思ったのもつかの間、自分の周りから聞こえるカチャッという音で、現実に引き戻された。

 2人は、大勢の男たちに囲まれていた。今上ってきた階段を見ると、そこにも男たちがいた。ざっと20人ほどいるだろうか。その誰もが銃を2人に向けていた。冷たい40個の目玉が、2人を見つめる。逃げ場はなかった。

「シャイトの落ちこぼれが。脱獄なんてバカなことしやがって。」

 思わず後ずさるノア。背中が、何か硬いものにあたった。それはフェルディの背中であると、伝わってくる温かさが証明していた。だがそれでも、ノアの不安が消えることはない。足がガクガクと震え、今にも膝から崩れ落ちそうだった。逃げ出したいのに、逃げられない。息がつまるような恐怖だ。今度こそ死ぬんだと思うと、気が気でなかった。

「武器をすべて捨てろ。」

 胸に大量の勲章をつけた男が、2人に命じた。おそらくこの男がリーダーなのだろう。フェルディとノアは、無言で銃を床に置く。ポケットの中の武器も、すべて捨てた。

「それで全部だな?」

「ああ。」

 フェルディが答える。

「よろしい。フェルディ・ハールトーク、ノア・グロート、貴様らを逃走の罪で、射殺する。ここでだ。」

 ノアが「ひっ。」と、喉の奥で高い声を上げた。どこを見ても銃口、銃口、銃口。圧迫されるような恐怖に、涙も出ない。

 フェルディの口から思いもよらない言葉が出たのは、そのときだった。

「やめとけ。今ここで俺を殺したら、大逆罪だぜ。」

 フェルディはなんの前触れも無く、シャツの左肩をビリッと裂いた。ノアは一瞬怖いのを忘れ、自分の肩越しに音がしたほうを反射的に振り返る。

「おい、妙なことをするな! 撃つ…。」

 リーダー格の男の言葉が途切れた。その目は、露になったフェルディの肩に釘付けになっている。

 肩には、3匹のライオンが剣をくわえている青いマークが浮かんでいた。風呂の度にフェルディのこの肩の模様を見てきたノアは、とくに何も思わなかったが、周りの男たちは激しく動揺していた。

「あれは、王家の印…!?」

「おい、金髪に青目ってことは、まさか…!」

 ノアはハッとして、フェルディを凝視する。王家、金髪、青目という言葉が、脳内をぐるぐると駆け回った。

 地下2階で見た、ディルク・アルトマイアーという金髪青目の少年の肖像画。あの長い金髪をフェルディの今の髪の長さまで切り、痩せさせたら…。

 脳内で出来上がった少年と、フェルディの顔が重なった。ノアの心臓が、ドッドッドッと次第に早くなる。

「まさか…!」

 男たちの軍服の胸にある紋章を見る。それは、3匹のライオンが、剣をくわえたものだった。ハッと息を呑む。


「俺はディルク・アルトマイアー。ニーダーハウゼン王国の、王位第一継承者だ。」


 フェルディは、力強くそう言い放った。

 少しの沈黙のあと、1人の男が銃を下ろし、ゆっくりとその場に跪く。他の男たちもそれにならい、跪いた。だがリーダー格の男は、険しい顔で銃をかまえたままだった。

「嘘だ! ディルク王子は、あのときの戦争に巻き込まれて亡くなられたはず! だいたいお前が王子なら、なんで捕虜になっていたんだ!?」

「死んでない、勝手に殺すな。俺が捕虜になったのは、捕虜を助けるためだ。俺は小さい頃、地下牢で捕虜の見学をさせられた。そのとき俺は父に言った。これはひどい、捕虜を解放しろ、と。でも父は、聞く耳を持たなかった。だから王子である自分が、自ら捕虜と同じ体験をし、今まで彼らがされた残酷な仕打ちを国中に知らせることで、彼らを解放するためのきっかけを作ろうとしたんだ。」

 これが、倉庫でノアが尋ねたものの聞くことができなかった、ディルクが捕虜になった理由だった。ノアは目を涙でいっぱいにして、ディルクの服の袖を引っ張った。その仕草は、まるで小さい子のようだった。

「なんだ? ノア。」

「フェルディ…いえ、ディルク王子。あなたは…。」

 フェルディは苦笑して、いつものようにノアの頭に手を置く。

「王子なんてつけるな。あと、敬語もいらない。ディルクでいい。」

 ノアはくすぐったそうに、ふふっと笑った。

「じゃあ、ディルク。キミは…親切すぎるよ。」

「そんなことない。」

 ディルクはそっぽを向いた。

「俺は親切なんかじゃない。俺がたまたま王子だったから、その権限を使おうとしただけだ。そうじゃなきゃ、命かけてまで敵を救ったりしない。」

 ディルクの頬には、うっすらと赤みがさしていた。それを隠すかのように、ディルクは声を張り上げる。

「立ち話はもういいだろう! 父に会わせてくれ。話したいことが山ほどあるんだ。」

 ディルクとリーダー格の男が、無言で視線を絡ませる。リーダー格の男が威圧的に睨んでいるのに対し、ディルクは口元に笑みを浮かべて、余裕そうであった。勝ちを――脱獄成功を確信した顔だった。

 先に折れたのは、リーダー格の男だった。銃を下ろし、諦めたように、

「分かりました、王子。陛下のもとへ、ご案内します。」

 ディルクは静かに頷いた。

「フェル…じゃなかった、ディルク、僕はどこに行けば…?」

「お前もついて来い。お前には今まで経験した辛いことを、王の前で全部吐き出してもらう。」

「うん、分かった。」

 男が2人の横に立ち「ついてきてください。」と、声をかける。2人が男の後ろにつくと、さらにその後ろに、さっきまでディルクたちを取り囲んでいた男たちが、2列になってゾロゾロと続いた。

「それにしても、まさか王子様だったなんて。昔感じた貴族的な雰囲気は、王宮暮らしで身についたものだったんだね。」

「まぁ、そういうことだ。今じゃそんな雰囲気カケラもないだろうけどな。」

「うん、全然ない。」

「別にいいさ。これからお上品になってやるよ。」

「んー…。難しいんじゃない?」

 2人は顔を見合わせて、声を上げて笑った。人目を気にせずに、心の底から笑うのは、久しぶりだった。

「…?」

 笑いながらディルクは視界の端で、先頭を歩く男の右手が、不自然な動きをしているのに気がついた。緩んでいた緊張が、一気にマックスまで高まる。男が素早く振り向いて、こちらにナイフを持った右腕を突き出したのと、ディルクが肘でノアを突き飛ばしたのは、同じタイミングだった。

「うぐっ…!」

 ナイフがディルクの脇腹を、深くえぐる。男は信じられないといった表情で、ディルクから1歩、2歩と離れる。

「王子!? なぜ…!?」

 ディルクは刺さったナイフを抜くと、力が抜けたように倒れた。

「ディルク!」

 すっ飛ばされて尻餅をついていたノアは、四つん這いのままディルクに近づく。床に広がる赤黒い血がシャンデリアの光りで、てらてらと生々しく光っていた。

「ノア…。」

 ディルクの手が、ノアの右手をつかんだ。その手のひらを、自分の肩――紋章に押しつける。その力は瀕死の人間のものとは思えないほど強く、ノアが振りほどこうとしても、ビクともしなかった。

「なにを…!?」

 5秒ほど経ったあと、ディルクは手の力を抜いた。ノアは自分の手のひらを見る。するとそこには、3匹のライオンの紋章があった。代わりに、ディルクの肩にあった紋章がなくなっている。

「どういうこと…?」

「王族にしか…できない、魔法、だ…。」

 喘ぎ喘ぎディルクはそう言った。顔は辛そうにに歪んでいる。苦しいはずなのに、しっかりとノアの黒い目を見つめていた。

「この意味が…分かるな? これからはお前が、王位第一継承者だ。」

「わかんないよ! 何言ってるの!? あと少しだっていうのに死ぬのか!?」

 ノアが両手で、ディルクの右手を包み込む。大粒の涙が何滴も何滴も、ディルクの顔に落ちた。

「悔しいことにな…。」

 ディルクは力なく笑った。

「あとは頼んだぞ、ノア。」

 かすれた声で言うと、ディルクはその青い瞳を永遠に閉じた。


 ドイツのとある公園で、2人の男子高校生が歩いていた。1人は短い茶髪、もう1人は赤い巻き毛だ。

「おいバルド、『れっつ脱獄!』の最新話読んだか?」

「おう。ってか、今持ってる。」

 バルドと呼ばれた巻き毛の男子は、リュックから黒い表紙のマンガを取り出した。

「俺の死に際に、ナイフごときに負けるのかとか言ってきたけど、フェル…じゃなくてディルクも、ナイフにあっさり負けたな。」

「ナイフ最強説。」

「あるな。」

 2人の横で、女子大生と思われる2人組が立ち止まった。ひそひそと、顔を寄せ合って話し始める。

「ねぇ、あの人かっこよくない?」

「それ! 今思った!」

 2人の男子は一瞬、それが自分のことかと思ったが、女子大生の視線の向きは2人から大きく外れていた。思春期の2人の、淡い期待が砕け散る。

 彼女たちの視線の先は、木陰のベンチだった。金髪で青い瞳の男が長い脚を投げ出して、空を見上げながら座っている。

「いたな。」

「ああ。」

 エドガーとバルドは、そのベンチに近づいていった。金髪の男の目が、2人を捉える。その瞬間、彼は目を丸くして立ち上がった。

「エドガー! バルド!」

 ディルクは駆け出し、仲間に飛びついた。そして涙声で、

「俺っ、俺ぇ…! ノアを置いてきちまった…っ!」

 収監されている間、何があっても涙を流さなかったディルクが、今ここで初めて仲間に涙を見せた。

「大丈夫だ、お前はよく頑張った。」

 エドガーが、ディルクの金髪を大きな手でかき回す。かつてのフェルディが、ノアによくしていたように。

「ほら、見ろよ!」

 バルドが、『れっつ脱獄!』の最新刊の最後のページを、ディルクに見せる。血のついたシャツを着た小柄な少年の絵が、見開き1ページにわたって描かれていた。果てしなく広がる空に向かって、手のひらを内側にした状態で、右手をかざしている。手のひらには、あの紋章があった。

「これは『マンガ』っていうらしいぜ。これには、俺たちが体験したことが、第3者からの視線で書かれてる。しかも絵付きでな。」

「俺たちはこの舞台から下りたんだ。だからここにいる。でも、ノアの心配はしなくてよさそうだぜ。」

 紙に描かれた、白黒のノア。彼は凛とした表情で、真剣な眼差しで、手の紋章を見つめていた。

「ああ…。そうだな…。」

 ディルクの目から、安堵の涙がほろりと流れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

れっつ脱獄! @setamai46

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ