彼女は果たして、元気だろうか

高村千里

第三作目

 彼女は果たして、元気だろうか。”彼女”とは、高校時代の同級生のことだ。あまり目立つ方ではない、顔も身長もごく普通でいて、性格だけが少し変わった女の子。二十代後半に差しかかり、十年が経とうとした今では、卒業アルバムを見ないと顔は思い出せなくなっていた。けれど。あの頃まだ青くさかった私の、柔らかい産毛がふさふさと揺れてそうな心を傷つけたことだけ、それだけ、私ははっきりと覚えている。

 中学校を卒業して高校に進学するとき、中学二年生から三年生に変わった月日と同じだけの時間を過ごしてきたはずなのに、何倍も大人になったような気がする。私は新しい制服を身につけて登校し、見知らぬ他中の子と出会う。入試に合格した子だけの塊が私を包容し、あっという間に友達を見繕ってくれる。新しい生活が楽しみだと胸が膨らんだ。話しかけることに、さほど勇気はいらなかった。皆親切で優しく、面白いことが好きだったから。そして、一年生の教室に入ってからしばらくして彼女にも出会った。出会った、という表現よりも、見つけたという表現のほうがいいだろう。私が、見つけた。

 教室の一番前の席に座り、サイドがやけに長いショートカットの少女を初めて見たとき、私は目を釘づけにされた。骨の細い輪郭は白くて、ぼやっとしていて、黒い線のおかげでやっと首との境界が分かる。サイドの毛と長い前髪で目は見えなかったが、血色の悪そうな薄い唇が小さく開いているのは見えた。その唇の開いたところから、彼女は息を吸い込み吸い込み……、

「何? 何か用?」

 私が近づくと、彼女は迷惑そうに息をついた。体を左右に揺らし、目線はぐらぐらとさまよわせて。薄い唇はをしたことで僅かに赤みを取り戻していた。私の視線は唇から下へと移る。首の筋を通って進み、そして手首へ──。

「犬……?」

 犬がいた。もちろん、本物ではない。ないが、確かに犬だった。机上に張り付いたぺらぺらの白紙。そこで黒い艶のある毛並をした犬が、凛と前を見据えていた。濃い筆圧だった。それでシャーペンの芯が砕けて、紙面をつやつやとさせ、異様なまでに黒光りしている。それは絵だった。画用紙も鉛筆も使っていない単なる落書きだったが、並の絵じゃないことは素人目でも分かった。彼女は薄い唇から吸い込んだ空気をもって、犬を造っていた。

「絵、上手いんだね。この犬、今にも動き出しそう」

 私の感想に、彼女は答える代わりに体の動きをぴたりと止めた。私はまた彼女の手元に視線を落とす。光を受けてみずみずしく輝く黒目がちな眼、うねった立派な尾。

「この犬、ラブラドールでしょ? 絶対にそう。垂れた耳が特徴的で、可愛い!」

 たたみかけて言った。私は彼女の返事がないのを怖がったのだ。一拍置いて、ずっと机とにらめっこしていた彼女が上を向き、私を見た。その拍子に彼女の前髪は彼女の顔の横をさらさらと滑り落ち、切れ目からようやく目が合った。一重で、まぶたの薄い目。

「…………ありがとう」

 私と彼女の会話は、この年これが最初で最後だった。けれどこれは、全然少ないと言うわけではなかった。クラス内ではむしろ多いくらいだった。一年間彼女を見てきたが、彼女はクラス内で孤立していた。友達作りに失敗したというより、性格が悪くて嫌われていたというより、人と喋ることをかたくなに拒んだ。そんな彼女の半径一メートルには膜が出来ていて、そこには僅か十センチの入り口が存在していたのだが、彼女は誰の入場もさせなかった。

 唯一入学当初で無垢だった私の少々強引な方法だけが、その入り口の下のほうのつっかえ棒を短くした。それはその一瞬だけだったけれど、私の中では大きな優越感が残り、空気のように扱われながらもクラス内の異質として在り続けた彼女を、私は人知れず気にしていた。

 彼女の描いた、あの黒い獣も忘れられなかった。一年生のときの私は、一度だけ見たあの絵に惹かれる気持ちがどうしてか強く残り、彼女の姿を教室で見かけるたびにどきどきしていたからだ。友達と話しているときも、授業中も、ふいに思い出しては脳裏でなぶるように見た。毛の一本一本を想像して、その毛並に触れている自分を思い浮かべた。

 しかし二年生になると彼女とクラスが分かれたので、何かあると彼女の姿を追っていた私も段々、その姿を見かけても気にしなくなった。

 もう一度彼女と話そうとなったのは、二年生も終わりに差しかかろうとしていた時期だ。

 学期末恒例の授賞式のとき、後ろにいる友達とひそひそ話をして過ごしていた私は、そのときまでは彼女のことを何もかも忘れていた。体育館に、先生の声がマイクを通して響く。

 彼女の名前が呼ばれ、登壇する足音がした。

 そこまでいって初めて、私はステージのほうを見た。

 少し髪が伸びた彼女の後ろ姿は、まるで黒毛のラブラドール。校長はよく分からない長ったらしいコンテスト名を声に出し、次いで絵画部門、優秀賞と述べる。友達はまだ私の後ろで話を続けていたが、私はもう聞いていなかった。胸の中が騒いでいた。やっぱり、彼女はすごかったんだ!

 彼女の許に駆け寄りたい衝動が私を襲って来て、式が全て終わるまでが、それからはとても長く感じた。

「おめでとう! 優秀賞なんてすごいね、さすがだね」

 式が終わると私はすぐに彼女の許へ駆け寄っていき、堪えていた衝動を解放するようにそう告げた。私の中にまた、あの黒い獣が再来していた。太い足で大地を掴み、尾を大きく振り、こちらに身を翻して一度吠える。その野太い声は、私の心臓の下のほうから上に向かって強く響いた。突然の言葉に驚いたのか彼女はしばらく動かなかったが、やや置いてから私へ、およそ二年ぶりに「ありがとう」を言った。

 教室棟へ戻る流れに乗り、私は彼女の隣をキープした。天才の隣を。一年経ってもやっぱり、彼女のサイドは長いままだった。

「どんな絵を描いたの?」

 どきどきしながら訊ねてみた。彼女は迷惑そうにしながらも、小さく答えた。

「動物。」

「へぇ、動物かぁ。もしかして、動物好きなの? 前に見せてもらった絵も動物だった」

 彼女は頷いて、気持ち歩調を早めた。もう彼女の教室が見えてしまっていた。私はまだ訊きたいことがあるのに、と思ったが、教室の外で二人で話してくれるような空気はもちろんなかった。

 彼女の描いた絵を、もう一度見たい。今度はどんな動物を描いたんだろう。あのラブラドールだろうか。それとも別の哺乳類か。もしかして、全然ふわふわしていない蛇や蛙だったりして……。しかし私は、最後の考えを即座に打ち消した。なんとなく、なんとなくだが、彼女はそういう類は描かないような気がしたのだ。

 ばいばいもじゃあねも言わずに、教室へ入っていってしまった彼女の後ろ姿に、私はまた、ラブラドールを思い出していた。

 その日から私は、どうしても彼女の絵が恋しくなり、同じ週に迫った冬休みも全く楽しみにならなかった。学校に彼女が来なくなるんじゃ、彼女の絵を見られるチャンスはなくなるんじゃないだろうか。この気持ちのまま年を越すなんて、無理だ。苦しい、彼女の絵は天才そのものだったから、見てしまったらもう最後。求めて堪らなくなる。

 彼女の絵には、終業式の日、やっと出会えた。

 終業式が終わったあと、意味もなく一人で教室に残っていた。いや、意図はちゃんとあった。彼女の絵を求めて、もう絶対、見せてもらおうと思ったのだ。隣の教室から出てきた彼女にばれないように尾行して、たどり着いたのは美術室だった。

 恐る恐る中に入ると、絵の具独特のにおいがして、大きなキャンバスが無造作に作業台の上に置いてあった。彼女はその上で、絵を覆うように半身を横たえていた。そのせいで彼女の絵は見えなかったが、すぐそこに彼女の絵があるという事実で、私の喉から静かな興奮がほとばしりそうになった。

 足を踏み出したそのとき、

「来るな!」突然、大きな声がした。

 美術室中に響き渡った大きな声に、私は耳を疑った。その声は、まぎれもない彼女のものだった。

「二度とおまえの、凡人の、賛辞なんか聞きたくない!」

 その叫びを聞いたとき、私の心臓をがんじがらめにしていた何かが、するするとほどけていくのが分かった。普段の彼女の言動からは想像がつかない苛烈な一面に、私はただただ圧倒され、もう絵を忘れるほか為す術がなかった。

 私は卒業アルバムを閉じて、あのときの絵を想像する。あとで知ったことだが、彼女の優秀賞は、二番目だったらしい。何か月も月日を投じて、ようやく完成させた才能の珠玉だったが故に、彼女は。

 私は唐突に、高校生のとき国語の授業でやった山月記を思い出していた。

──臆病な自尊心と、尊大な羞恥心……。

 あの絵は虎ではなかったか。

 彼女は果たして、元気だろうか。

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彼女は果たして、元気だろうか 高村千里 @senri421

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