陽炎になく蝉

星野 驟雨

陽炎になく蝉

――誰かに思いを馳せたのは幾つからだったか。

蝉しぐれのなかに佇む陽炎を見つめてはそんなことを思い浮かべる。

そこに立ち呆けのそれは何を待っているのだろう。

この季節の事だ、墓参りだろうか。ならばあれはご先祖様か。


陽炎のように静かに移っていく思考はうだる暑さの中でカラカラに澄み渡っていた。


私が一人で墓参りをするようになったのは母親が死んでからだ。

私の中の母との思い出は、ひと昔前の生活の体裁をしていた。


こんな夏の日には、スイカを冷水で冷やし、蝉の声のなかで額に汗をかきながら贅沢のアイスキャンディーを食べていた。隣には彼女がいて、今日は暑いね、なんてとりとめのない会話をする。

山は青々と茂り、雨風に晒された塀は退廃をひそかにたたえている。ひどく高い空には日ごろ憂鬱にさせる雲が清涼を告げ、頭上から聞こえる風鈴の音が姿見えぬ来客を知らせた。


あの景色すべてをよく覚えている。父が早くに死んでから母はよく笑うようになった。子どもだった私に不安を感じさせまいと振舞っていたのだろう。

――しかし私は知っていた。あなたが暗がりの中で泣いていたことを。


あなたは夏にしか泣かなかった。

春は祝いの季節であり、秋は豊穣の季節、冬は辛抱の季節であったから。

あなたはよく言った。夏は刹那の季節だと。

すべてがすぐに消え去っていく。蝉の声も、萌ゆる緑も、陽炎も。色香漂わす汗も、青く純粋だった恋も、そこにいた誰かも。

だからこそあなたは泣いていたのだろう。涙はうだる暑さが連れていき、嗚咽は蝉が掻き消してくれるその夏に。


そうしてあなたは夏に死んだ。いつかの思い出のような日々のなかで死んだ。

台所のすえた匂いと同じ匂いが居間を満たし、大人になった私はあなたの死を理解した。芯から冷えた身体に固くなった関節がやけに夏に似合っていた。

アイスキャンディーはもう贅沢品ではなくなったが、あの日常にあった景色が贅沢品になった。


今日はあなたを迎えに来た。

またいつかの日のようにアイスキャンディーを舐めながらあの景色を味わいたい。

今日は風がないから、扇風機をつけて。


――あなたはどうだろう。あの日々を覚えているだろうか。


陽炎になく蝉しぐれはひと夏の思い出。

しかしそれは色褪せることなく今もなお聞こえる。

夏は刹那の季節だ。

覆水は盆に返らずとも、小さな川をつくる。

それはあなたと私が出会えるほんの少しの時間なのだ。

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