第18話
「――?」
「行こう。シロクマ見るんだろ?」
俺に合わせてユキも歩き始めたので、チェーンから手を離した。
数メートル歩くとシロクマの水槽だ。シロクマはプールの中を悠然と泳いでいた。時折、プールから上がって、ぐるぐると岩場を歩く。岩場の奥には部屋とつながっている穴がある。
水槽の隣の壁に手書きのポスターが貼ってあり、それによると、どうやら他県から嫁い出来たお嫁さんが仔グマを産んだらしい。残念ながら、まだ一般公開はされていないとのことだった。
「ユキ、このシロクマはお父さんみたいだぞ。仔グマも産まれたらしい」
「仔グマ? もっと小さいのがいるのか?」
「ああ。でも、まだ小さすぎて見せてもらえないらしい」
「そうなのか……。それは残念だな……」
「母グマの方も見えないけど、仔グマと一緒にいるのかなぁ……」
俺は水槽に顔を近づけて、部屋に続く穴に目を凝らす。しかし、中は真っ暗で何も見えない。
「駄目だ。見えないな。もっと奥にいるのか、それとも、別室なのかな……」
ぐい、とチェーンを引っ張られる感覚がある。
「どうした? ユキ。疲れたか? 飯、食うか?」
「うん……」
「そうか。じゃ、飲食出来るとこ探そう。少し歩くぞ」
今日のユキはやけに浮き沈みが激しいな。たぶん、腹が減ったとかじゃ、ないよな。
館内の案内掲示板を見ると、どうやら3階に飲食可のコーナーがあるようだ。
階段を上って、3階へと向かう。
「ユキ、大丈夫か? それつかんでて上りづらくないか?」
「大丈夫だ」
俺を見上げるユキの目の端がうっすらと赤くなっている。
泣いていたのか?
そう聞こうとしたが、止めた。
きっと、もうすぐ『その時』なんだ。
聞けば『その時』がその分早く来てしまいそうで、聞けなかった。
「――ほら。着いたぞ」
そこには丸いテーブルと椅子が何組かあり、自動販売機も数台設置されていた。
昼時だというのに、誰もいない。
皆、1階のレストランにいるのかもしれない。
椅子を引き、ユキに勧める。本当は向かい合わせに座るのだが、椅子を移動させ、チェーンを放さなくても良いように隣に座った。
鞄からアルミホイルに包んだおにぎりを出す。冷えた飲み物は販売機で調達すれば良い。
「おにぎり、好きなだけ食え。まぁ、これしかないから、足りなかったら後でコンビニで買ってやるから」
俺がそう言っても、珍しく、ユキは手を伸ばさなかった。
「どうした? ユキ」
「レイジ……。あのな……」
……言うな。
「ありがとうな……」
……何だよ。こんなタイミングで礼とか言うなよ!
「たぶん、今日が最期だ……」
……最期とか、言うなよ!
「北海道に戻れなかったのは、残念だが……」
……そんな顔するなよ……ユキ……!
ユキは俺の顔をじっと見つめていたが、一度、俯き、またすぐに前を向くと、目の前に置いてあるおにぎりを1つつかんだ。
「――私は、行く!」
そう言うと、俺のチェーンを放して駆け出した。
「――え? ユキ?」
俺は一瞬何が起きたのかわからなかった。しかし、すぐに我に返って、その後を追う。とはいえかなり出遅れた形だ。
走りながら、尻ポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、姉に電話をする。
「姉ちゃん! 大変だ! っユキが! 最期だっつって走り出してっ! いま! 追ってんだけどっ!」
走りながらだとどうしても言葉が途切れ途切れになる。果たして伝わっただろうか。
「礼二、落ち着いて! とりあえず、アンタは追ってなさい! 話はしてあるから!」
「誰にだよ!」
「良いから! いったん切るわよ!」
くっそ! 切れた! ユキ! お前はどこに行くんだ!
***
「一華さん……? いまの礼二ですか? ……一体……?」
「唐橋君、ごめんね。事情は後で話すから!」
切羽詰まった姉弟のやり取りを不思議そうに見ていた基樹を制して、祥太朗に電話をかける。この時間ならもうとっくにこっちには着いてるはずだ。
「――櫻井? 大変なの! お父さんだけでも先にこっち来れない? 場所は……」
「いまからか? ……ああ、大丈夫だって言ってる。場所は……わかる。でも大変ってどういうことだ?」
「あたしもよくわかんないんだけど、一緒にいた弟が見失ったっぽくって。何かもう『最期』って言ってたみたい」
「『最期』か……。父さ……、――あれ? ああ、マジか」
「何? 櫻井? どうしたの?」
「いや……、もうそっち行ったわ……」
「――へ?」
「とりあえず、俺らも向かう。一応。あー、えーっと、着物着てるおっさ……、いってぇ! すてきなおじさま見かけたら、それ、ウチの父さんだから。じゃ、後で」
おっさんから『すてきなおじさま』に訂正したのは、おそらく、祥太朗の嫁から小突かれでもしたか、まぁそんなところだろう。
とりあえず、櫻井のお父さんが来れば何とか……なるのかな?
スマートフォンを握りしめ、「どれくらいで着くのかしら」とつぶやく。
基樹は何が何やらさっぱりわからない様子で、憧れの『一華さん』をただ眺めるだけだった。真剣な横顔も麗しい、くらいは思っていただろうが。
***
――ユキ、待て!
何でいきなり消えようとするんだ!
「ユキ! 待て! 頼むから!」
かろうじて、ユキの背中は見えている。
きっと、高校の時のクラスのアイツとか、アイツだったら、余裕で捕まえられるのに。
そんな思いがよぎる。
館内は走らないでください! そんな係員の声を振り切って、気付くと外だった。
それでもユキは止まらない。
――何だよ、ユキ! 北海道まで走るつもりかよ!
ヤバい、もう限界だ。
これ以上はスピード、出ねぇし。
待ってくれよユキ。
ユキとの差がどんどん広くなる。
もう駄目だ。もう、これきり会えないのか……。
ガクッと力が抜けて、足がもつれる。
「うわっ……!」
ズザァッと音を立てて、派手に転んだ。
「いってぇ……」
手をついて起き上がると、目の前にユキがいた。
「大丈夫か? レイジ」
「ユキ……」
腰のチェーンを引っ張って立たせようとする。
「無理だよ、お前の力じゃ。自分で……立てるよ」
痛みをこらえて立ち上がる。
「だいたい、お前が急に走り出すから、こんなことになったんだぞ。どうしてそんな急に……」
目の端に滲んでいた涙に気付かれないように憎まれ口を叩きながら、パンパンと膝を払う。
ユキはチェーンをつかんだまま、俯いていた。
「北の方に行くと言ったから、もしかしたら、北海道まで飛べるかと思ったんだ……。でも、もう私には、飛ぶ力が無くなってた。後はもう……雪を降らせるだけの力しか、残ってなかった」
「雪を……?」
「私の――女王の使命だ。北の大地に、強い雪を降らせる」
「北の大地って……。それで北海道に……?」
ユキはずっと下を向いたままだった。
ぽたり、ぽたりと地面に雫が落ちている。
「私のために、同胞達は
「ユキ……」
ざぁぁ、と強い風が吹く。こんな季節なのに、生暖かい、吐息のような風だった。
風は砂埃と小さな枯れ葉を巻き上げた。その中心に濃紺の着流しに身を包んだ男が立っていた。いつの間に現れたのだろう。
男は俺とユキを交互に見つめ、微笑みながらゆっくりと口を開いてこう言った。
「大丈夫です。お迎えに上がりましたよ、女王」――と。
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