第17話

 10時の約束だったが、基樹は9時半にやって来た。『一華さん(他2名)とのデートが待ち遠しくて、早目に来てしまった』らしい。


「おい、礼二。何でこんな美少女と知り合ってんだよ」


 トランクに荷物を積みながら、基樹が言う。


「何でも良いだろ。お前はにデレデレしてりゃ良いんだよ」


 そう返す俺の後ろには、ウォレットチェーンをしっかりとつかんだユキがいる。初めて見る基樹を警戒しているのだろう。


「まぁ、たしかに俺のお目当ては一華さんだからな! ライバルは少ない方が良い」

「何で実の弟がライバルになり得るんだよ。――あ、このちっちゃいクーラーボックスは後ろの席に積むから」

「はぁ? 後ろに? 狭いだろ」

「良いんだ」


 このクーラーボックスにはありったけの保冷剤とコンビニで買ってきたブロックアイスが入っている。もちろんユキのためだ。窓が全開となる寒い車内では絶対に開けたくない代物だが、仕方がない。

 そして、後部座席の真ん中に置いて、ユキと身体が触れないようにするためでもある。


「――で、もちろん助手席は一華さんでいいんだよな?」


 その言葉に姉が目を見開いて俺を見る。


 たぶんこの目は『絶対いや』と言っている。それはわかっている。


 姉はしばらく無言で俺を見つめていたが、チェーンを左右に振っているユキを見て、大きくため息をつき、「そうね、今日は我慢するわ」とつぶやいた。


「――ぃやったぁぁぁ!」


 我慢、とまで言われたのに基樹は上機嫌だ。そのテンションのまま、ユキに向かって話しかける。


「えーと、ユキちゃんだっけ? 僕のことは『お義兄さん』と呼びたまえ。はっはっはー」

「『お……にいさん』……?」

「ユキ、無視して良い。悪いやつじゃないけど、アイツはバカなんだ。『下僕』とでも呼べばいいから」

「わかった。『下僕』だな!」

「おい! マジかよ! ……まぁ良いか。俺、いま超気分良いから! 何なら一華さんの下僕でもイイ!」

「はいはい。唐橋君落ち着いて。はい、コレ、お願いね」


 姉は興奮気味の基樹にデジカメを渡した。


「出発前に皆で撮りましょ」

「はい! ……って、俺は?」

「唐橋君は、カメラマン役」

「ええー……」


 やや不服そうな基樹であったが、姉のウィンク一発で一気に機嫌が直ったらしい。現金な野郎だ。


「お任せください! 何枚でも、何千枚でも!」


 馬鹿か。そんなに撮れねぇよ。


 母はせっかくだからと、遅番でまだ家にいた父さんにも声をかけた。思いがけず夏木家withユキの集合写真である。


 姉は、カメラマンの大役を果たした基樹からデジカメを受け取ると、ぐい、とその腕を取り、基樹と顔を近づけツーショットを撮る。

 母はそれを見て「あらあら」と良い、父は「む?」と眉をしかめた。

 

「お礼」


 基樹は驚いた顔のまま、しばらく硬直していた。その隙に、姉はするりと腕を離し、その様子を並んで見ていた俺とユキのツーショットも収める。



「ほーら、ぼけーっとしてないで、出発、出発!」


 姉の号令で我に返った基樹が車のロックを解除し、俺達は5人乗りのミニバンに乗り込んだ。


 ユキは、チェーンを離さなければならないので、間にクーラーボックスを挟むことに難色を示していたが俺が中を見せると目を輝かせて承諾した。


 一応、滅多に開けるなよと念は押したが――。


 もう開けてやがる……。閉めろ。


 車は両親に見送られながら発進した。 


「唐橋君、荷物、多くない? これはトランク入れないの?」


 基樹は運転席と助手席の間に大きめの保温バッグを置いている。

 運転の邪魔にはならないのだろうが、姉は何とも落ち着かない様子だ。


 まぁ、基樹との間の壁とでも考えれば悪くはないと思うのだが。


「一華さん、よくぞ聞いてくれました! この中はですね……」


 すっかり落ち着いた基樹が、赤信号で停まったタイミングでチャックを開けると、中には魔法瓶が3本入っていた。


「何これ、全部魔法瓶なの?」

「そうです! 寒い車内でも一華さんが凍えないように、中にはホットコーヒーとジンジャーティー、そしてほうじ茶が入っています!」

「気が……利くのね……」

「ふふふ。それだけではないんですよ。コーヒーも紅茶もほうじ茶もすべてノンカフェインなんです!」

「ノンカフェイン? 何で?」

「カフェインというのはですね、利尿作用があるんですよ。もちろん、トイレにはちょくちょく寄りますけど、なるべく少ない方が良いじゃないですか」

「まぁ……それもそうね」

「それにですね! カフェインを摂りすぎると胃やお肌が荒れちゃうんですよ! あぁ、一華さんの美しい白肌が……!」

「ありがと……。気を遣ってくれて……」


 俺にはわかる。姉は完全にドン引きだ。


「いえいえこれくらい!」


 本当にまめな奴だ。俺にはねぇのかよ。くそ。


「レイジ、これは、北へ向かっているのか?」

「そうだ。北っつっても、北海道までは行かないぞ。でも、ここよりはもう少し涼しいかもな」

「そうか……」


 窓はさすがに全開ではなく、10㎝程度に止めたが、それでもやはり寒い。俺はマフラーで耳と口元を覆った。

 ユキは身体をゆらゆらと揺らしながら、指先を弄んでいる。


「どうしたんだ?」

「なぁ、レイジ。『水族館』ではずっとつかんでていいのか?」

「え? ああ、良いけど、トイレの時は放してくれよ」

「……楽しみか?」

「そうだな……。しばらく行ってなかったし、楽しみだよ」

「……それなら、良いんだ」


 そう言ったっきり、ユキは黙ってしまった。


 それからは目的地に着くまで、ユキはたまにクーラーボックスを開けてブロックアイスを撫でたり、窓から吹いてくる風に手を当てたりしていた。


 姉は遠慮なく魔法瓶の中のホットドリンクを飲んでいた。ほうじ茶を注ぎ、基樹にも手渡す。

 基樹は姉から手渡される度、いちいち感涙せんばかりに感激していた。


 俺もホットコーヒーを一杯もらった。ノンカフェインの物は初めて飲んだが、カフェインが入っているものと味は大して変わらない。もしかしたら、『良い豆』ってやつなのかもしれない。だとしたら、基樹は姉に飲ませるためにわざわざ選んで来たのだろう。


 途中何度かコンビニに寄り、トイレ休憩を経て、目的地である水族館に着いたのは11時半を少し過ぎた頃だった。


 入り口でチケットを購入する。中へ入ると、薄暗い。

 ぐい、とユキがチェーンを引っ張る。


「怖いのか? ユキ。これくらいの暗さ、ウチの中でもあったろ?」


 そう声をかける。


「怖くなど!」


 ユキはそう返したが、チェーンはピンと張ったままだ。


「ゆっくり回ろう。きれいだぞ」

「じゃ、礼二はユキちゃんと回れよ。俺は一華さんと回るからさ!」

「……ユキちゃん、礼二とデートしてらっしゃいな。……あたしに……構わずね……」


 姉はもう観念したらしい。

 それに反して、ユキの顔は明るい。


「そうか。イチカは『下僕』と『デート』なのだな。では、行こう、レイジ」


 ユキはチェーンを引っ張り、奥へと進んだ。悪いな、という気持ちを込めて姉を見ると、ユキから言われた『デート』という言葉にガッツポーズをキメている基樹が視界に入って来た。その隣でうんざりした様子の姉が力なく笑っている。


 ごめん、マジで。


「ちょ、おい、ユキ。――そうだ、姉ちゃん。俺ら昼はおにぎり食べるからさ、適当に温かいもん食ってて良いから!」


 ぐいぐいと強く引っ張られ、それだけ言うのがやっとだった。


 まっすぐ進むと壁一面の巨大な水槽がある。やはり、平日だけあって、館内はがらんとしていた。

 ユキは2階の天井にまで吹き抜けになっている水槽をじっと眺めている。


 まるで海の中みたいだ。


「ユキ、どうだ? すごいだろ?」

「すごいな……。こんなの、空からは見えなかった……」

「そうだな……。海の上から見たって、こんな景色は見えないよなぁ」


 せっかくなので水槽の前にある案内看板を見ながら、魚の名前を教えようと思ったのだが、何せ魚は一箇所に止まってくれるわけではないのだ。ほら、これが……と言ってるうちにその魚はいずこかへ泳いでしまう。仕方ないので、大物のカメやエイのみ、指差して教えた。


「すごいな。きれいだな。私の知らない世界はたくさんあるんだな」

「そりゃ、あるさ。俺だって知らないとこいっぱいあるぞ」

「レイジにもあるのか?」


 ユキは水槽から目を離して、俺の方を見る。目をまんまるくして、驚いたような顔をして。


「あるさ。それこそ、俺は北海道だってぜんっぜん知らないからな」

「そうか! 北海道ならば私は少し知っているぞ。それなら私の方が物知りだな」


 ユキは無邪気に笑う。


「そうだ。北海道のことなら、ユキに負けるよ」


 また水槽の方を見る。余程気に入ったのだろう。


「ユキ、水族館はここだけじゃないんだぞ。テレビで見たシロクマもいるぞ」

「テレビで見たシロクマ……? ――あの白いモコモコか?」

「そうだ。……白いモコモコって、お前の服もまぁ、そうだけどな」

「行こう! モコモコ!」

「よしきた」


 階段を上って、2階へ行く。

 シロクマへ向かう途中にもたくさんの水槽があり、その一つ一つをじっくりと鑑賞していく。


 そのルートには姉と基樹もいた。2人の間は絶妙に離れている。基樹はあれで意外と奥手なのかもしれない。


 ユキはクラゲが気に入ったようだ。特にミズクラゲがいいらしい。


「シロクマといい、クラゲといい、ユキは白いのが好きなのか? まぁ、クラゲは白を通り越して透明っぽいけど」

「そうだな。白いのが好きだ。白は雪の色だからな」

「雪の色か……。そうだな。雪の色だし、ユキの色だ」

「そうだ。私の……色だ……」


 ユキはクラゲの水槽を見つめていたが、クラゲは見ていないようだった。


 もしかして泣いてるんじゃないのか? 


 俺はユキの手に触れないようにチェーンを軽く引っ張った。

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