第6章 下僕と水族館

第16話

「レイジ、起きろ。出かける、ぞ!」


 ぽすん、ぽすん、と掛け布団の上で何かが飛び跳ねている。


 重さ的に、何だ? 猫? いや、ウチに猫はいねぇ。


 薄目を開けると、ぼんやりとした視界に白いものが映る。


 やっぱり猫……いや、ウサギか……?

 ――違う!


「……っユキ! お前!」


 起き上がろうとして、途中で止める。この勢いで身体を起こしたら、ユキがバランスを崩して転げ落ちてしまうだろう。


 仕方なく、仰向けのままの状態で、話しかけた。


「起きた! 起きたよ! とりあえず降りろ。危ないだろ」


 ユキは俺の腹の辺りに立っていたが、ぴょん、とジャンプしてベッドから降りた。


「豪快な目覚ましだったな……。ていうか、軽いな、お前」


 たしかにユキは背も低く、痩せている。

 女の子は軽いものだと思っていたが、これほどとは……。


 っていやいや、それにしたって程がある。5、6歳の子供だって、もっと重いだろう!


「早く起きろ! 出かけるのだろう?」

「出かけるって、いま何時だ?」


 身体を起こし、枕元の目覚まし時計を見る。


「まだ6時じゃねぇか! 迎えが来るのは10時だぞ!」


 ユキは床にぺたりと座り込んで不服そうだ。


「何時だろうと関係ない! なぜ私より早く起きないのだ」

「それは……悪かったよ……」


 って、コレ俺が悪いのかよ。


「母さんはもう起きてるはずだから、飯、食いに行くか?」

「行く!」


 顔をぱぁっと明るくさせて、勢いよく立ち上がる。すると、白い毛皮のような衣服に引っ掛かっていたのだろう、丸めたアルミホイルが1つ転がった。


「……何だ? それは」

「レイジを起こす前に『母さん』に会いに行ったら、これをもらってな。中に入っていたおにぎりは食べてしまったが」

「もう先に食ってんじゃねぇか!」

「大丈夫だ。イチカは『別腹』だと言っていた」

「姉ちゃんも起きてんのかよ!」


 ベッドから降りる。たたんで寄せておいた服をベッドの上に置いた。


「ユキ、着替えるから、ちょっと出てってくれるか」

「何でだ」


 ユキは首を傾げて不思議そうな顔をしている。


「俺が恥ずかしいからだよ!」

「見なければ良いのか? 仕方がないから目を瞑っていてやろう。気にせずにやれ」

「そういうことじゃねぇんだよ!」


 ユキは両手で顔を覆っている。指をぴったりとくっつけている。本当に見るつもりなどないのだろう。ここまでされると嫌がっているこっちの方がおかしいような気になる。


 ――いやマジでそういうことじゃなくて!


「ユキ、頼むって。そういうことじゃないんだよ」

「では、どういうことだと言うのだ。良いから早く済ませろ」


 両手で顔を覆ったまま、その場にすとんと座り込んでしまった。本気でここから動かない気らしい。


「あーもう、わかったよ! 絶対見んなよ!」


 手早く部屋着を脱ぎ、ジーンズをはく。股引は後で借りるとしよう。

 長袖の肌着、シャツ、セーターと、順番通りに身に着ける。昨日の夜のうちに準備しておいて良かった。


「ユキ、もう目を開けていいぞ。だいたい終わった」


 ユキは両手を外し、目を開けた。強く瞑りすぎたのだろうか、何度も瞬きをしている。

 ベッドに腰掛け、靴下をはく。そして、最後のアイテムを箱から取り出した。

 箱に入っていたのは、シルバー素材のウォレットチェーンであり。しかし、財布にはつけない。両端についているナスカンは、お互いの間隔を空けてベルトループに引っかける。


 ガラじゃないんだけどなぁ……。本来の用途とも違うし。


「それは何だ?」


 ユキは腰の辺りでジャラジャラと揺れるチェーンを凝視している。


「今日はセーターだからさ、引っ張ると伸びちゃうだろ。引っ張るなら、コレ、引っ張れよ」

「おお。成る程!」


 ユキは早速チェーンをつかんで左右に振る。


「これは良いな。レイジを捕まえておけるな!」

「……頼むから、トイレの時は放してくれよ」


 すっかりチェーンが気に入ったらしいユキを引き連れて、階段を下りる。

 ユキが危なくないように、一段一段慎重に。

 リビングを通ってキッチンへ向かう。キッチンには、もうすっかり朝食を済ませた姉が新聞を片手にコーヒーを飲んでいた。


「おはよー。ねぼすけさん。あらー、良いじゃない、それ。良かったわねー、ユキちゃん」


 姉は、機嫌よくチェーンを左右に振るユキを見て目を細めた。


「ふはは。これがあればレイジを見失わないぞ」


 ユキはそんな姉に応えるべく、より一層激しくチェーンを振る。


「考えたわね、礼二も。平日だし、まぁそんな混んでないとは思うけど、迷子になったら大変だしね」

「まぁね。頭良いだろ」


 自虐気味にそう言って笑う。本当に頭が良かったらキャンパスライフを満喫してるっつーの。


「ユキ、俺、飯食うけど。お前もまだ……食う……よな?」

「別腹だからな!」


 俺が席に着くと、ユキはその隣に座った。チェーンはまだつかんだままだ。

 洗面所から母が出てきた。洗濯機が動き始めた音がする。


「あら、礼二おはよう。ユキちゃんが起こしてくれたのね。おにぎり、まだまだあるわよー」


 そんなことを言いながら軽く手を洗い、大皿に盛ったおにぎりを運ぶ。


「えーとね、この海苔をぐるっと巻いてるのが、梅ね。ゴマがついてるのが鮭。それから、海苔が四角いのがおかかよ」


 3種類のおにぎりがそれぞれ3つずつ。計9個ある。


 母のおにぎりといえば、この3種類が定番だ。俺は説明を聞かなくてももうわかるが、これはユキに向けて言ったのだろう。


「ユキ、飯の時くらい手を離せよ。行儀悪いだろ」

「むー」


 ユキは不服そうだったが、しぶしぶ手を放した。放した手も添えて、両手でおにぎりをつかむ。


 ユキは冷たいお茶と漬物をお供に梅おにぎりをほおばっている。俺はそれを見ながら熱い味噌汁を啜った。


「おはよう。皆もう起きてたんだな」


 いつもならパジャマのまま下りてくる父だったが、若い娘がいるので気を遣ったのだろう、スーツ姿でキッチンへ入ってきた。


「お父さん、おはよう。あら、今日はバリっとスーツなのね」


 母も普段なら考えられない夫の姿に驚いている。


「いやー、一華もユキちゃんもいるのに、だらしない恰好は出来ないだろう?」

「もー。あたしの前ではいっつもだらしない恰好なのに。若い女の子に鼻の下伸ばしちゃって!」


 母は笑いながら父の分のご飯と味噌汁をよそう。

 父は洗面所で歯を磨き、顔を洗い、髭を剃る。タオルで顔を拭いて、軽く髪に櫛を通した。

 身仕度を済ませて席に着くころには、大皿の上のおにぎりは最後の1つになっていた。


「ユキ、まだ入るか? 食えるか? それ」

「もちろんだ。良いのか?」

「俺はもう腹いっぱいだよ。食えるなら食っちまえ」


 俺が勧めると、ユキはためらいなく最後に残っていた鮭おにぎりに手を伸ばした。これでユキは5つ、先に食べたものを含めて6つ食べたことになる。


「お前……。すげぇ食うな。俺より食ったな」


 呆れた顔でユキを見つめる。母のおにぎりは市販のものよりもかなり大きいというのに。


「何だ礼二、ユキちゃんに負けたのか。まだまだだな、お前も」


 父はガハハと笑った。


「高校生の時ならまだ勝てたんだけどな」


 精一杯虚勢を張ってみたが……。いや、それでも負けたかもな。


 ユキはペースを落とさずに最後のおにぎりを食べている。しばらくして、口元にご飯粒をつけたまま最後の一口を食べ終え、キンキンに冷えたお茶をぐいっと飲み干した。


「ユキ、ご飯ついてるぞ。自分で取れよ」

「――お? ほんとだな。すっかり夢中で気付かなかった」


 口元のご飯粒をすべて回収し、ご満悦だ。


「飯食ったら出発まで少し寝るか? 体力温存しとけよ」

「そうよー、ユキちゃん。今日はたくさん見て回ろうね」


 姉が身を乗り出し、会話に入ってくる。


「そうか。それもそうだな。では、行くぞ、レイジ」

「――は? 俺は良いよ」

「駄目だ。レイジと一緒に寝たいんだ」


 父がお茶を噴き出す。それを見て姉が笑い、母が布巾を手渡す。


「――ゆ、ユキちゃん! それは良くないぞ! それはよろしくない!」


 父は母に渡された布巾でテーブルに飛び散ったお茶を拭きながら、かなり狼狽している。


「どうしてだ?」

「どうして……って言われても……。――なぁ? 母さん」

 母に助けを求めるが、女性陣は互いに見つめ合って笑った。


「そんなんじゃないわよねぇ? いっちゃん」 

「そうそう。お兄ちゃんに甘える妹みたいなもんよねー」

「姉ちゃんの言うとおりだよ。そういうんじゃねぇって、父さん。それに、寝るったって、リビングで横になるだけだからさ」


 リビングで、と聞いて父は少し安心したようだ。自分の父がこんなに動揺しているところを初めて見た気がする。なんか新鮮だな。そう思った。


 それでもまだ半信半疑そうな顔でこちらを見つめている父の視線に気付かない振りをして、俺は半ばユキに引っ張られるような形でリビングへと移動した。


「ユキ、寝るならソファ使え。迎えが来たら起こしてやるから」

「そうだな。じゃ、レイジもこっちに来い」


 あくまでもチェーンは放さない気らしい。ぐいぐいと引っ張ってソファの方へ向かう。


「あのなぁ、ユキ、これそんなに長くないんだから、この状態で寝転んだら俺の背中に触っちゃうんじゃないのか?」

「むー。では、仕方がない。その代わり、出来るだけ近くにいろ」

「はいよ。ちょっとリモコン取るから、離れるぞ」


 俺が承諾したことに安心したのか、ユキはごろりと寝転んだ。


 ローテーブルの上からリモコンを取り、テレビのスイッチをつける。ニュース番組が流れる。とりあえずつけてみたものの、特に興味のあるニュースはない。


 いまのところ気になるのは今日の天気くらいだ。


 リモコンを操作し、天気予報を流しているチャンネルを探す。3局目で天気予報に当たった。


 ――良かった、今日は晴れのち曇り。雨は降らないようだ。

 

 最高気温は10℃、最低気温は2℃。風はやや強く、波も高いとのこと。今日もかなり寒そうだ。


「今日も寒そうだぞ、良かったな、ユキ」


 そう言って振り向くと、ユキはもう寝息を立てていた。


「早ぇな、寝んの」


 そぅっとその場を離れ、キッチンへ行くと、3人はまだいた。シャリシャリとリンゴを食べている。


「あら、ユキちゃんはもう寝たの? リンゴ、食べる?」

「寝た寝た」


 そう言って、姉から手渡されたフォークでリンゴを刺す。


「何だか急にべったりになったのね。どう? お兄ちゃん気分は」

「……結構大変だな」


 シャリ、と音を立ててリンゴをかじった。

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