第15話
自室に戻り、机に座って問題集を取り出す。
開いて取り掛かろうとするが、頭が『浪人生モード』に切り替わらない。
「あー、くそっ!」
シャープペンを置き、頭を掻く。洗ったばかりのため、飛沫が飛んだ。
明日の準備でもするか、とタンスを開ける。基樹と姉に忠告したのに、まさか自分だけ薄着で行くわけにはいかない。
最近は長袖の肌着でも、若者向けの物が増えてきている。かくいう俺も、以前、基樹に釣りに誘われた時に一枚購入している。
ちなみに、魚はその時、一匹も連れていない。
中にそれを一枚着るとして、その上に白いシャツ、さらに黒とグレーのボーダーのセーターに、ジーンズ。ジーンズの下には……父さんから股引でも借りるか……。
ベッドの上にコーディネートを重ねて置いてみる。
俺は正直、センスに自信がない。これは以前姉が選んでくれたコーディネートだ。
まぁ、これで良いか、と思い、そのまま軽くたたんでベッドの脇に寄せる。
そこでふと、今日のユキを思い出した。
「アレも、一応あった方が良いかな……」
タンスの最上段にしまい込んでいた箱を取り出す。
流行りに乗って買ってみたものの、自分のガラじゃない気がして、結局一度も使っていない。でも、今日のユキの感じからして、コレはきっとあった方がいいだろう。
たたんだ服の上にその箱を置く。
ほら、明日の準備は終わったぞ! 俺!
さっさと勉強しろよ! 大学行くんだろ?
大学……行くんだよな? 俺……。
俺……、大学行って、何したいんだろう……。
姉ちゃんが大学に行ったから、自分にも行く権利がある、父さんはそう言った。
大学は楽しいぞ、とも。
特に理由もなく、大学に行くなんて……。社会に出ることをただ遅らせたいだけなんじゃないのか? 俺は。
ユキは。
ユキには、そんな時間なんてないのに。
明確な使命を持って生まれて、それを果たしたら終わる人生。
俺は、きっと、目的もなく生きていくのに……。
頬を涙が伝う。
「くそっ、もーマジで何なんだよ!」
右手の甲で涙をぬぐう。
昨日会ったばかりの女の子に、俺はなんでこんなに心を乱されてるんだ?
いままで、大学に行くことだって、何の疑問も抱いていなかったのに。
何なんだよ。ほんと、何なんだよ!
頭の中が混乱している。とてもじゃないけど、勉強どころではなかった。
***
「――もしもし、櫻井?」
「お、夏木。どうした」
一華は誰もいなくなったリビングに移動し、祥太朗に電話をかける。本日三回目だ。
これって、嫁に知られたら面倒なことになったりするんだろうか。何てことを考えて、ほんの少し背中に嫌な汗をかいた。
「何か動きがあったのか?」
「動きっていうか……、まぁ、明日水族館に行くことになってさ」
「――は? そんだけか?」
「うん。そんだけ。そんだけなんだけどさ。何かあの後……電話の後さ、ユキちゃん……って、コレ女王様の名前なんだけど、ユキちゃん様子が変でさ」
「変って?」
「何か元気なくなっちゃって。かと思えば水族館行きたいって。いきなり弟にべったりになるしさ」
「まぁ、俺は元々の女王様がどんな感じなのか知らないけどさ。夏木がおかしいって言うんなら、そうなんだろうな」
「まー、あたしもまだ出会って数時間だけどさ。それよりも長く接してる弟もなんか変だって思ってるみたいだし」
祥太朗は窓に近付き、カーテンを少し開ける。外はだいぶ寒そうだ。それに、風も強いらしい。木々が風に煽られ、身体を大きく揺らしている。
「この分だと、もうすぐなんじゃないのか?」
「もうすぐ? 何が?」
「……聞いてないのか? 何も」
「聞くって……。特には……何も」
何も聞いていないのか? 女王の最期の大役を。祥太朗はそう思った。
何も聞いていない。ただ、そうだろうな、と予想しただけ。一華はそう思った。
「……女王様から直接聞くか? それとも、俺から話すか?」
「アンタ、知ってるの?」
「聞いたんだよ、父さんから」
ああ、魔法使い……か。魔法使いって何でも知ってるのね。
『魔法使い』ってやつが一体何者なのか知らないけど、少なくとも自分なんか――人間なんかよりはよっぽど物知りなんだろう。そう思うと悔しい。祥太朗に気付かれないように地団太を踏むくらいには。
「魔法使いって何でも知ってるのね」
一華は思った通りのことを口にした。ほんの少し嫌味も込めたつもりだった。でも、そうとは悟られないよう、出来るだけいつもの調子で。
「何でもじゃねぇよ。会ったことあるから知ってるんだってさ。で、どうすんだ?」
「うーん。本当は直接聞きたいんだよね。何かズルしてるみたいで」
「じゃ、女王様に聞けよ」
「いや、でも待って。もし、時間がないんだったら、いま聞かせて。女王様もう寝ちゃったから」
「まぁ、お前が聞きたいって言うなら……」
祥太朗はカーテンを閉める。開けていると、冷気が伝わってきてしまう。
「そんなに特殊なことじゃない。女王様ったって、雪虫は雪虫だ。雪虫は何を運んでくる?」
「雪虫は……雪を……って、それは迷信みたいなものじゃない! おとぎ話っていうかさぁ」
「迷信やおとぎ話だとしても、時期的には、そうだろ? 雪虫が現れると、その後に雪が降ってくる……」
「まぁ……、それは……たしかに……」
「父さんが言うんだから、そこは信じてくれ。ウチの父さんは嘘とか冗談とか、そういうタイプじゃないんだ」
「……まぁ、アンタの父さんのことよくわかんないけど、あの小説のまんまだとしたら、それも納得ね」
「で、その父さん曰く、すぐ溶けるような初雪とか、山に降るような雪は、普通の雪虫でも降らせるらしい。ただ、根雪になるような強い雪は女王にしか降らせないんだと」
強い、雪……。
そういえば、初雪って、もう降ったのだろうか。
雪虫を見た翌日にこっち来ちゃったからなぁ。
「ねぇ、櫻井。初雪って……?」
「……こっちは降ったよ。さっき。でも、だからじゃないのか? 女王様が元気なくなったのって」
今日が初雪……。だとしても、本格的に降るまではまだまだあるはず。
「でも、毎年、初雪の後ってしばらく降らないじゃない? 降ってもすぐ溶けちゃうし……」
「札幌はそうかも知んねぇけど、その女王様は札幌を中心に降らせるわけじゃないだろ?」
そうか……。北海道でも地域によって差がある。あたしは馬鹿か。
「じゃあ、『その時』がもうすぐだってことなんだ……。だから時間がないって……。ねぇ、降らせた後って……どうなるの?」
それは聞かなくてもわかる……。たぶん。
好奇心からついうっかり尋ねてしまったことを後悔する。
言うな。
言わないで。
その先なんて、わかってるから。
「死ぬ……だろうな。父さんも『最期に大役を』とか『一世一代の大仕事』って言ってた」
そう、彼女は雪虫なのだ。
女王といえど、雪虫。あの最弱の虫なのだ。
そんな大役を果たして無事で済むはずがないのだ。
「だよね……。雪虫……だもんね」
「明日、水族館って言ったよな? それって、どこだ? 県内か?」
「そうだけど。来てくれるの? 櫻井」
「俺じゃねぇよ」
「ああ、そうか。お父さんの方ね」
「俺が行ったって、何にも出来ねぇよ」
祥太朗はやや投げやりに言う。
何こいつ。拗ねてんの?
「来たいんなら、アンタも来なさいよ。あたしら、アンタの父さんと面識ないし。ついでにこっち観光してけば? 単位が大丈夫ならね」
「単位は……。まぁ、大丈夫だけど……」
「だったら、嫁さんも連れて来なよ」
「んー、まぁ、そうだな。でも、先に着くのは父さんだぞ。俺は普通に飛行機で行くしかないんだからな」
「何でよー。アンタも飛んで来なさいよ」
「お前、この時期の上空の気温がどれくらいかって考えたことあるか? 俺は父さんみたいに暖房の機能はついてないんだよ」
そう言って、祥太朗は自分の右手を見つめる。
俺は父さんみたいに熱を溜めたりなんて出来ねぇんだよ。
「……お父さんの方には搭載されてるのね。ハイスペック……」
「生粋の魔法使いと比べんな!」
「ごめんごめん。じゃあさ、櫻井家は皆で待ち合わせて一緒に来ればいいんじゃない? さすがに一分一秒って事態でもないでしょ」
「まぁ……そうか。とりあえず、ウチに確認してみるわ。たぶん大丈夫だろうとは思うけど、いまウチで一番忙しいのは母さんだからな」
「そうなんだ。お父さんって働いてないの?」
「働いてない……わけじゃないかな。一応、母さんのマネージャーっぽいことしてる。何せ普通に働ける人じゃないからな」
それもそうか。ハイスペックの規模が違うのだから。
「じゃ、確認取れたら連絡して」
「おう」
電話を切って、ソファに寝転ぶ。
想像はしていたけど、やっぱり、ユキちゃんは死んじゃうのか。
「礼二は知ってんのかな……」
礼二のシャツの裾をつまんでいたユキの姿を思い出す。
人間には触れることも触れられることも出来ない彼女なりの『甘え』の表現なのかもしれない。
辛いな……。
「――ああ、もしもし、父さん? ごめんな、さっき電話しといてアレなんだけど……」
「どうしたの? もしかして、何か動きがあったのかい?」
何か動きがあったら連絡する、たしかにさっきはそう言って電話を切ったのだ。
「そうなんだ。こっちで初雪降ったからか、何か女王様の様子がおかしいんだって」
「そうか……。女王はきっと感じ取ったんだ。もうそろそろだからね」
そう話す信吾は何だか寂しそうだった。信吾は女王の最期を見たことがあるのだろうか。
「それで……、最期……の思い出なのかはわかんないけど、明日水族館に行くんだって」
「思い出か……」
「で……、やっぱり、そろそろかもって思ったらさ……」
「僕の出番かな? もしかして」
「うん……。でも、女王様から言われたわけじゃないんだ。その、知人の子に言われただけなんだけど……」
「そうか……」
「近くで待機ってのは駄目か? せっかくだし、皆で行かね?」
「待機か……。そうだね。最終的には僕が必要になるかもしれないし……。皆で行くとなれば、なおさら早目に行動した方がいいね」
この父は、息子の学業に関して思うところはないのだろうか……。
そう思わないでもなかったが、恐らくは、というか、ほぼ確実に彼にとって『学業』というのはさほど優先順位の高いものではないのだ。
女性陣は二つ返事でOKだった。佳菜子の仕事さえどうにかなれば、この2人は特に反対する理由もないのである。
祥太朗はパソコンで飛行機の空席を照会する。大丈夫だろうとは思っていたが、案の定スカスカだ。一番早い便で10時発。
信吾達は車で空港へ迎えに行く。一応、その水族館がある町へ向かう予定だが、そこで夏木ご一行と合流するかは未定である。連絡があるまで別行動をする予定だ。何せ『待機』である。
宿はどうするかなぁ。行き当たりばったりで取れるだろうか……。
ごろりとベッドに横たわる。
でも、俺は何しに行くんだろうな……。観光か……?
寝ながら一華にメールを送る。
『件名:明日
本文:俺は朝イチの便で行く。家族もそれに合わせて来るってよ。夏木から召集かかるまで適当に観光してるから、連絡よろしく』
返信は5分と経たなかった。
『件名:了解
本文:わざわざごめん。飛行機代くらいは出すから。そんじゃよろしく』
――いらねぇよ。飛行機代なんてよ。
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