第5章 水族館に行こう!

第14話

 一華は祥太朗との会話の後、しばらく家の前でぼんやりとしていた。


 何だか立て続けに不思議なことが起こりすぎて、頭の中がごちゃごちゃしているのだ。


 冷たい風が頬を撫でる。そろそろ家に入ろう。


「ただいまー……」


 家の中に入ると、夕餉の香りがする。この香りは煮物だ。成る程、和食なら冷めても美味しく食べられる。


 リビングでは、ユキと礼二が床に座ってテレビを見ている。


 この浪人生は、こんなことで良いのだろうか……。まぁ、一週間もの強制旅行に連れ出したあたしが言う台詞じゃないけど。


「ただいま。仲良くテレビ?」

「――ん? おお、お帰り。俺は部屋で勉強したいんだけどな。見ろよ、これ」


 そう礼二が示すのは、自分のシャツの裾だった。ユキが右手の人差し指と親指で、彼のシャツの裾をつまんでいるのである。


 近付いてみると、一応、参考書は近くに置いてあった。


「あらあら、どうしてそんなことになってんのよ」

「知らねぇよ。ココでテレビ見てろって言って、部屋に行こうとしたら、こうなったんだよ」

「……へぇ」

「おい、ユキ、姉ちゃん帰ってきたぞ。姉ちゃんいれば寂しくないだろ?」


 礼二はじーっとテレビを見ているユキに向かって問いかける。


「ユキちゃーん、イチカだよん。あたしと一緒にいようよ」


 一華はユキの顔を覗き込みながら話しかけた。しかし、ユキは口を固く結び、首を横に振って、尚も礼二のシャツを引っ張る。


「……何かいきなり好かれたみたいね。アンタ本当に心当たり、ないの?」

「……ない。と思うけど」


 ***


 急に走り出したユキに追いついたのは、家まであと数メートルというところだったが、手を伸ばしかけて、止めた。触れてはいけないのだ。


「――ユキ! おい! 止まれ! 止まれって!」

「嫌だ! 止まらぬ!」

「何なんだよ。いきなりどうしたんだよ!」

「何でもない!」

「何でもなくねぇだろ! 止まらねぇと、飯抜きだぞ!」


 言ってみたものの、当然、俺にそんな権利はない。あったとしても、果たしてこんなことで止まるものだろうか。


「――何だと?」


 そう言うと、ユキは急に走るのを止めた。もう家は目の前だ。


「何だよ……、こう言えば……止まるのかよ……」


 そこからはだらだらと走って近寄り、ゼイゼイと肩で息をする。


 こっちはこんなに息が上がっているのに、なんでお前は平気な顔をしてるんだよ!


「なぁ……本当にさ……。どうしちゃったんだよ。いきなりさぁ……」


 呼吸を整えながら、言う。ユキは俺の方を振り向かずに言った。


「……レイジ、冬は好きか?」

「――はぁ? 冬? まぁ、俺は暑いの苦手だし、冬は好きだぞ」

「いちばんか? いちばん好きか?」


 ユキはくるりと振り向き、俺をじっと見つめる。


「そう……だな……。そう言われると、一番かもしれないな。鍋料理も好きだし。ただ、浪人生にとっては厳しい季節だけど」

「……いちばんならそれで良い」


 それだけ言うと、また背を向け、家に向かって歩き出す。


「――ええ? おい、先に行くなよ!」


 俺は慌ててその後を追った。


 ***


「――そんで、後はさっき言ったとおりだよ」

「成る程ねぇ……」


 姉はユキの隣に座った。

 ユキはよほどテレビが珍しいのだろう、CM1つ1つまでも真剣に見ている。


「で、何の番組見てたの?」

「んー、何だろ。適当につけたやつだからなぁ」


 腕を組んで考えていると、ユキがシャツの裾をくいくいと引っ張ってくる。


「――お? 何だ? ユキ」


 ユキは「ん!」と言いながらテレビの画面を指差す。


 何てことはない、水族館のCMだった。ここからなら車で一時間くらいか。

 画面では、シロクマがプールへ飛び込む瞬間が映っている。


「おお、ここよく行ったな。ちょっと前にこのシロクマに嫁さん来たんだよな」

「そうじゃないでしょ。ユキちゃん、行きたいんじゃないの?」


 単純に感想を述べてしまった俺に対し、姉はごくごく冷静にそう言った。


「――え? あ、ああそうか。ユキ、行ってみたいのか?」


 俺が問いかけると、ユキは黙って首を縦に振った。


 そこで俺は姉と顔を見合わせた。


 ――行くか? 

 ――行くしかないでしょ。


 目だけで会話出来るのは、さすが姉弟といったところか。


「ユキ……、ココ、行ってみるか?」

「……良いのか?」

「良いに決まってるでしょ! 行きましょ! 明日!」

「やったぁ!」

「明日? 明日かよ! 急だな!」

「だって『善は急げ』って言うし? それに、ユキちゃん、時間がないって言ってたじゃない」


 そうだ……。ユキはずっと『時間がない』と言っているのだ。


 しかし、何の時間なのかは結局まだ聞けていない。

 でも、もしかしたら、それはユキが死ぬまでの時間なのかもしれない。そう考えると、聞くのが怖い。


 それを打ち消すように、努めて明るく俺は言った。


「よぉぉっし、行こう! 明日! 行こうぜ! えーっと、車は……どうする?」

「そっか、明日も父さん仕事だし……。母さんの車は使えないかな」

「いや、使えたとしても、誰が運転するんだ? まさか、母さんに連れてってもらうのか?」


 俺達は2人共運転免許を持っていない。俺は大学が受かってから取りに行く予定だったし、姉に至っては交通の便が良いところに住んでいるため、必要ないと言って取らなかったのだ。


 かといって、母を連れて行けばどこかでボロが出そうな気がする。


 いや、あるぞ……、方法は……。ただ、それには犠牲が……。


「……姉ちゃん、一日だけ、我慢出来るか?」

「……何が?」

「……車付の運転手の当てがあるんだ」

「あら、良いじゃない。――で、あたしは何を我慢すればいいの?」

「その当てっつーのが、基樹なんだよな」


 そう、その『当て』とは唐橋基樹なのだ。『憧れ』のお姉様と水族館デートなどと言えば、どうなるのか容易に想像がつく。


「唐橋君か……。悩むなぁ……」


 姉はユキをちらりと見る。ユキは目を輝かせて姉を見つめ返した。


「イチカ、楽しみだな!」

「た、楽しみだね、ユキちゃん……」


 無理に笑顔を作り、答える。

 そして、俺の方を見て、ため息をついた。


「頑張るわ……、あたし」



 夕食は和食中心のメニューだった。ユキの分だけ、早目に準備をし、冷蔵庫で十分に冷ましてある。


 一番心配だったのは箸だったが、パスタで鍛えたフォークさばきで何とか対応出来た。もちろん『くるくる』の出番はなかったが。


 ユキと初対面である父は、母からあらかじめ電話で聞いていたようだが、やはり実物は違ったのだろう。初めてユキの姿を見た第一声が「こりゃあ白いな……」で、しばらくは二の句が継げない様子で彼女を凝視していた。

 それでも、豪快な食べっぷりを気に入ったようで、自分の分の刺身も次々とユキに与えている。


 犬猫じゃないんだから、餌付けすんなよ。


 ユキは何を食べても、冷めてさえいれば、うまいうまい、とよく食べた。


 皆、ユキを中心に楽しそうだ。

 きっと、明日も楽しい。明後日も、きっと。

 だけど、きっと、近いうちに、ユキは死んでしまうのだ。

 使命を、果たして。

 じゃあ、それを果たさなければ、生きていけるのか?

 いや、それでも、雪虫なのだ。永くは生きられないだろう。


 『その時』のことを考えると、胸が苦しかった。

 いまが楽しければ、楽しいほど。


 ユキは自分の運命をどう思っているのだろう。

 女王として生まれ、当然のように使命を果たして死のうとしている。

 少しでもその運命に抗おうとはしないのか……。


 いつもと変わらない、母の作った夕飯も、まるで砂を噛んでいるように感じられた。


 

 夕食後、さっさと風呂を済ませ、基樹の携帯に電話をする。

 時刻は20時を少し過ぎたところだ。

 基樹は家業の花屋を継ぐための修行中である。その花屋『花のからはし』の閉店時間はたしか19時だったはすだ。


 単調なコール音に飽きてきたころ、やっと基樹の声が聞こえた。


「悪いな、最後の客の注文がちょっと厄介で」

「いや、こっちこそ。もう、良いのか?」

「もちろん。今日のレジは親父が締めるって言うし。俺はシャッター下ろしたら業務終了よ」


 俺はベッドの上に腰掛ける。ユキは、いまごろ姉の部屋でテレビでも見ていることだろう。


「あのさ、明日仕事休めないか?」

「明日? 明日かぁ……急だな。まぁ、休めなくもないけど。何だよ」

「実はさ、いま知り合いの子を預かってるんだけど、その子をな、水族館に連れてってやりたいんだ」

「知り合いの子って……、女の子だな?」

「そう来ると思った。女の子だよ。ただ、お前の守備範囲外だと思うけどな」

「……何だよ。お姉さまじゃねぇのか」


 姉に惚れているだけあって、基樹の好みは年上のお姉さまだ。


「安心しろ、『お姉さま』もいる」

「何? マジか?」

「マジだ。俺の姉ちゃんだ」

「うおぉぉ! 一華さぁん! でかした! 我が義弟おとうとよ!」

「うるせぇ! 義弟と呼ぶな! まぁちょっと話を聞いてくれ。その知り合いの子なんだけど、ちょっと事情があってな……」

「――ん? 何だ?」

「その子な、ちょっと特殊な病気でな。めちゃくちゃ暑さに弱い子なんだ」

「何だ? 暑がりさんか」

「いや、お前の思ってるレベルじゃない。お茶の湯気でやけどするレベルだぞ」

「……それは相当だな」

「……だろ?」


 ここまでは姉との打ち合わせ通りだ。だが、ここから先は――。


「で、その子、たぶん、もう……永くないんだ……」

「は……? それって……」

「ああ……。だから、もしかしたら、最後の思い出になるかもしれないんだ」

「そうなのか……」

「悪いな。黙ってても良かったんだけど、俺が耐えられなかったんだ。ただ、姉ちゃんもその子も口に出すことはないと思うんだ。だから、お前も知らない振りしてほしいんだよ」

「……任せろ」

「あと、ちょっと癖のある子だけど、あまり突っ込まないでやってくれ」

「癖?」

「話し方とか、態度とか……。ああ、あと、見た目もな」

「見た目?」

「まぁ、そういうことだ! じゃ、明日10時に迎えに来てくれ!」

「お? 随分強引に締めようとするな。まぁ、良いけど。10時な。そんで、もう当然のように俺の車なんだな」

「頼むぜ、車付運転手!」

「……任せろ」

「じゃ、明日な。……あ! そうだ。明日は完全防寒仕様で来い。その子のために窓全開だからな。じゃ」


 基樹の返答を聞かずに電話を切る。大丈夫、返事なんか聞かなくたってわかってる。アイツは俺の誘いを断ったりなんかしない。それにこっちには『姉』という基樹にとっちゃ最強のカードがあるのだ。



「基樹、OKだってさ」

「そ。良かった。ユキちゃん、良かったね」


 報告のため、姉の部屋を訪ねると、ユキは床に敷いた布団の上ですやすやと眠っていた。


「さっきまで起きてたんだけどね。明日のために早く寝なきゃねって言ったら、すぐにコレよ。よっぽど楽しみなのね」

「そうだな……」


 ユキの枕元に座り、顔を覗き込む。口をぽっかりと開けて眠る様はまるで赤子のようだ。


「ユキさ、時間がないって言ってたよな」

「言ってたね」

「何の時間かって聞いた?」


 姉は首を横に振る。


「何となく想像はつくんだけど」

「そうだね……あたしも」

「だから、明日はさ、楽しくやろうぜ」

「……そうだね。そうだよね!」

「姉ちゃんも明日は完全防寒でな。窓、開けっぱなしで行くからな」

「うっ……。わかった。恥ずかしいけど、モッコモコで行くわ」

「じゃ、俺部屋戻るわ。さすがに勉強しないとだし」

「おう、頑張れよ。浪人生!」


 それには答えず、立ち上がる。ユキの寝顔をもう一度見て、俺は姉の部屋を出た。

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