第12話

 一華には「皆で」と言ったが、佳菜子と千鶴は阿寒温泉で待機させ、阿寒国立公園に行ったのは信吾と祥太朗だけだった。


 目的は、魔法の修行である。


 祥太朗は、自分が魔法使いの息子であることを知るまで、魔法というのは、呪文を唱えたり、杖を振ったりさえすれば簡単に使えるものだと思っていた。なぜなら、漫画やゲームの世界ではそうだったからだ。もちろん、呪文を覚えるのには魔物と戦ったりして経験を積まなくてはならなかったし、杖もそうやすやすと手に入れられるものではないのだろうが、『魔法使い』という条件さえ整っていれば、ある程度の魔法は使えると思っていた。


 しかし、佳菜子から自分が魔法使いであることを知らされ、師である信吾が不在の中、見よう見まねで最初に出来たのは、自分の体内の物質を体外へ放出させることだった。簡単にいうと、指先から塩分を放出させて、液体に塩味をつけることしかできなかったのだ。


 祥太朗が佳菜子の絵本の中にある『いだいなるまほうつかいが コップのみずを かきまぜると どんどんどんどんあふれてきて ついにはまちじゅうを みずびたしに してしまうほどでした』を再現出来るよう(それでも町中は無理だったが)になったのは、魔法に必要な要素『利用したい物質への敬意と感謝の気持ち』を祖父に教わってからだ。それを知るまでは、勝手に使える『自分の身体』の物質しか扱うことが出来なかったのである。


 それから祥太朗は信吾に魔法を教わるようになった。ただ、教わると言っても、信吾は特に『教える』ことはしなかった。海や山へ行き、祥太朗とのんびりと過ごす。それだけだった。

 でも、そうしているうちに不思議と魔法の扱い方がわかってくる。信吾は語らずに、自然への敬意と感謝を伝えていたのだろう。


 他の魔法使いのことはわからないが、信吾は『誰かの役に立つため』に魔法を使うことをポリシーとしている。山火事を消火するために川の水を借りたり、遠くへ人を運ぶために空気中のヘリウムを集めて舟を作ったりもした。よって、自然への敬意と感謝が信吾にとっては最も重要なのだ。

 そして、当然、この世に存在しているものしか使うことが出来ない。たとえば、既に機能を失ってしまった臓器を復活させたり、咲く力を失ってしまった桜の木に花を咲かせることは出来ない。魔法使いは神ではない。全能の力を持っているわけではないのだ。何だか、祥太朗が思い描いていた魔法使いより、ずっと現実的だった。

 ただ、生粋の魔法使いである信吾は自分の姿形を変えることが出来る。本来、決まった形のない信吾は、佳菜子と共に生きていくため、人の姿でいることを選択しているに過ぎない。以前、咲かない桜の木に花を咲かせてほしい、と依頼された際には、自らが桜の花になったこともある。こればっかりは人間とのハーフである祥太朗には出来ない。


 その日も、信吾と祥太朗はのんびりと、国立公園内を散策していた。祥太朗は大学生活の話題を振り、信吾は最近の佳菜子と千鶴のやり取りを話す。休憩しながら歩き回り、お目当てのオンネトーが見える展望デッキに着くころには、辺りはどっぷりと更け込んでいた。


「さすがに、誰もいないな」

「そうだね。どうする? 僕らも帰るかい?」

「まさか。せっかく来たんだから、オンネトーにゆっくり挨拶させてよ」


 湖を『眺める』ではなく『挨拶』と表現するようになった息子に、信吾は驚いた。

 しかし、あからさまに驚いた顔はしない。いつも通りの優しい笑みを浮かべる。


「そうだね。僕はここに来るのは随分久し振りだよ」


 辺りは暗く、五色沼自慢の色の変化はわからない。静かな水面をじっと見つめる。


 2人はしばらく無言で湖を見つめていた。

 さて、と信吾が小さく呟く。


「そろそろ帰ろうか。佳菜子も千鶴ちゃんも待ってるだろうし」


 湖に背を向けた信吾に祥太朗も続く。


「待ってるかなぁ。いまごろ、温泉入って一杯やってるんじゃねぇの」

「――それは大変だ! 急いで戻らないと!」


 信吾が祥太朗の方を振り向いて言う。やけに真剣な顔だ。


「――え? 何で?」

「千鶴ちゃんと同じペースで飲んでしまうと、大変なんだ。僕がいないと、たぶん佳菜子は布団の上では寝られない」


 珍しく動揺している信吾をなだめ、とりあえず、千鶴に電話をし、佳菜子の安否を確認することにした。


「――あ、祥太朗。あたし達もう温泉入っちゃったー。――え? 酒盛り? してないしてない。お義母さんこないだつぶれちゃったの気にしてて、お義父さんが戻るまで飲まないーって」


 千鶴の言葉をそのまま伝えると、信吾は安心したようだった。


「過保護なんだよ、父さんは。母さんだってもう立派な大人なんだからさ」


 自分で言っておいて『大人』という単語にやや引っかかるものがある。年齢はたしかに『大人』だけど、果たして、それだけで『大人』の条件をクリアしていると言えるのだろうか。


「わかってはいるんだけど、どうしてだろうね。佳菜子の身に何かあったら思うと、この辺りの臓器が痛むんだよ。人間の身体って不思議な作りだよね」


 そう言って、心臓の辺りをさすっている。


 それって……。


「……父さんさ、それきっと病気だわ。魔法使いでも人型になると人間と同じなんだな」


 祥太朗はややあきれながら言った。


 まったく、何年生きてるか知らねぇけど、こっちもこっちで『大人』ではなかったかもなぁ。


「病気? それは大変だ。でも、僕って人間の病気になるのかなぁ。風邪とかも引いたことないんだけど」


 信吾は心臓の辺りをさすりながら考えている。やはり、この分野に関しては『子供』なのかもしれない。


「やっぱり父さんにはちゃんと言わないと通じないか……。あのさ、それ俗に言う『恋の病』ってやつだよ」

「『恋の病』?」

「だーかーらー、人間はさ、人を好きになると、ちょっとしたことでこう心臓の辺りがぎゅーってなんだよ。もう言わせんなよ、恥ずかしいなぁ!」


 自分の口から『恋』なんて単語が飛び出すだけで、顔から火が出そうだった。


 顔を真っ赤にして力説する息子を、信吾はきょとんとした顔で見つめている。


「成る程。これが『恋をしている』という状態なのか……。僕もまだまだ勉強不足だなぁ。佳菜子と出会ってから頻繁に痛むもんだから、おかしいなぁとは思っていたんだけど」


 この乙女親父! 出会ってからいままで何年経つと思ってんだ! いまだに恋愛中かよ!


 長年(彼にとってはそうでもないのだが)の疑問が解消され、信吾は上機嫌だった。


「とりあえず、宿に戻ろうぜ。何かどっと疲れちゃったよ、俺」


 身体的な疲労にとどめを刺したのはもちろん信吾の乙女発言だった。


 まさか父親にとどめをさされるなんてな。


「疲れたかい? おぶろうか?」


 自分がとどめを刺したことも知らず、この父親はのん気なものだ。


「いや、さすがにそこまでは」


 さくさく、じゃりじゃりと草道と砂利道を歩く。辺りはすっかり夜の闇だった。三日月がぽっかりと浮かんでいる。


 信吾はランタンに火を灯した。辺りがほんのりと明るくなる。

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