第10話
ダンテを出るころにはもう15時を回っていた。
せっかくだからと来た時と違う道を通って帰る。ユキはキョロキョロと辺りを見回しながら歩いた。見るものすべてが珍しいのだろう。何せ、生まれたばっかりの赤ちゃんなのだ。
しばらく歩いて、家が近付くと、それまでふわふわと踊るように歩いていたユキが急におとなしくなった。
「なぁ、レイジ。ここから、私の生まれたところは遠いのか?」
「え? 北海道の……どこだっけ?」
恥ずかしながら、俺には北海道の地理がわからない。札幌までなら何とかなるが、あの写真の場所がどこなのかなんて皆目見当もつかない。道民ならわかるのだろうが。
とりあえず姉に視線で助けを求めてみる。
「あれは、阿寒の方だったね。結構遠いかな。どうしたの? ユキちゃん」
「遠いのか……」
「どうしたんだ、ユキ。帰りたいのか?」
「……何でもない! ちょっと私は眠い。急いで戻る!」
ユキはそう言うなり駆け出した。
「――え? おい! 待てって、走ったら体温上がるだろ!」
俺も慌てて後を追う。ちょっと待て。こいつ意外と速いんだけど!
***
家に向かって全力疾走する2人を追うことはせず、一華はスマートフォンを取り出した。
電話帳のサ行から『櫻井祥太朗』を選び、発信する。
「もしもし、あたしだけどさ、いま、良いかな?」
「何だ? 夏木か。どうしたんだ」
祥太朗はまだ大学内にいた。課題を終わらせるために図書室に缶詰めしていたのである。ちょうど一区切りついたので、ラウンジへ移動し、缶コーヒーを開けたところだった。
「アンタの母さん載ってる雑誌買っちゃったー」
コーヒーを飲もうとして口をつけていたのを咄嗟に離す。
「なっ……! マジかよ。アイツいつの間に……。つうか、その報告か? わざわざ」
気を取り直して彼はコーヒーを一口飲む。
「まさか。別件別件。でも、相変わらず櫻井の母さん、良いキャラしてるよね」
「そこは否定しないけど、アレが身内ってのも結構きついもんだぞ?」
「小説、実名で出たんだって? 後で買って読もっかなー」
「止めろよ。恥ずかしい!」
「えー、でもさ、櫻井ん家に印税入るじゃん?」
「それは母さんの懐にだ。ウチにじゃねぇよ。もー何なんだよ、用件って!」
「ごめんごめん。あのさ、例の写真のこと。『氷柱』の」
「ああ、あれか? どうした? まさかもう解明したとかじゃないだろ?」
茶化すようにそう言って、コーヒーをもう一口飲む。
「それが、どうやらそうみたいなんだけどさぁ……」
「――っ!! ゲッホ、ゲホッ!」
かなりタイミングが悪かったようで、祥太朗は激しく咳き込んだ。
「ちょっ、ちょっと、大丈夫?」
「だ、大丈夫。ちょっとコーヒーが気管に……入った……だけ……」
大丈夫と言うものの、まだ咳き込んでおり、かなり苦しそうである。
「大丈夫だから、続けて……」
「えー……っとね。何でアンタに話すかって言うとね、写真の提供者だし、何かわかったら教えるって言ったからってのもあるんだけど……」
「何だよ、随分もったいつけるんだな」
「アンタの母さん、絵本作家だし、『多少』の不思議な話は聞き慣れてるかなーってのもあってね」
「まぁ、そりゃあな。で、何なんだよ」
「あれはさ、雪虫のバトルロイヤルじゃなくて……」
「じゃなくて?」
ここで軽く咳払いをしてからコーヒーをもう一口。
「……女王を誕生させる儀式だった。最後に飛び立っていったのはその女王。数匹の塊ではなかったの」
「女王……か。それは何でわかったんだ?」
それは当然の質問だった。
あたしだって、逆の立場なら身を乗り出して聞くだろう。一華はそう思った。
「ここからだいぶファンタジックになるけど、とりあえず笑わないで聞いてくれる?」
「お? おう……」
もう一口。ごくりと喉を鳴らす。
電話の向こうで深呼吸が聞こえ、一体どんな話が飛び出すのだろうと、祥太朗は身構えた。
「直接聞いたの……」
「直接? 誰に?」
「その、女王様によ」
「――は?」
「こないだ弟が遊びに来たときに、コートにくっついて、連れて来ちゃったみたい」
「いや、まぁ連れてきたまでは良いとしても、直接聞くって? お前虫と話せるの?」
祥太朗は意外にも真剣な口調で聞いて来た。
――連れてきたまでは良いんだ!?
何? こいつってここまで冗談とか乗ってくれるようなタイプだったの? いや、ていうか冗談ではないんだけどさ。
「うーんとね、ここからが最大のファンタジック・ポイントだから、心して聞いてね」
「……わかった」
「いまね、ウチにいるの。女の子の姿になって……」
「……」
「……何変な話してんだって思ってんでしょ。あたしも思ってるよ。話してる張本人だけど。まー、これで終わりよ、終わり。約束は果たしたからね!」
「待て! 切るな! 別に変な話だなんて思ってない!」
「――は?」
今度は一華が驚く番だった。
「いやいや何言ってんの? あり得ないっしょ、こんな話」
「あり得ないかもしれねぇけど、俺ならもしかしたらって思って話してくれたんじゃないのか?」
「んー、まぁ、そうだけどさぁ……」
それきり黙り込んでしまった一華に、祥太朗は、はぁ、と大きなため息をついた。
「なぁ、夏木の家の近くに本屋あるか?」
「え? まぁ、そんな近くではないけど、歩いて10分くらいかな」
「じゃあ、いますぐ俺の母さんが書いた小説買ってこい。タイトルはわかるか? 許可するから読め。言っとくけど、あれはマジでノンフィクションだからな。最初から、最後まで」
「え? 良いの? アンタさっき恥ずかしいから止めろって言ってたじゃん!」
「良いから! さっきの話、ちゃんと信じるから、夏木は俺の話を信じろ。良いか、あれはノンフィクションだぞ。読み終わったらまた連絡しろ」
そう言って、一方的に電話は切れた。
一応、信じてくれたらしい。
……信じた? あの話を?
それに、小説読めって言ってたな。
タイトルは……雑誌に書いてあったよね。
でも、さっきのインタビューでも魔法使いがどうとかって……。
一華は礼二に電話をして、買い忘れた本があるから本屋に行くと伝えると、もう一度商店街の中の本屋へ向かった。
走りこそしなかったが、無意識のうちに早歩きになっていたのだろう。本屋に着くころには息が上がっていた。
自動ドアの前に立つ。
ゆっくりと開く瞬間に軽く深呼吸をする。
彼は小説と言っていたが、さっきの雑誌の中ではライトノベルと言っていた。どっちが正しいのかわからないが、作者本人が言うのだから、ライトノベルなのだろう。
一華は、ライトノベルの棚に向かい、サ行の作家を探す。何作書いているかわからないが、作者名のプレートをざっと見ても見つけられない。
おそらくこっちの世界ではマイナーな作家なのだろう。『サ行』でまとめられたコーナーを一冊ずつチェックする。
さくらい、さくらい、さくらい……。
――あった! 『魔法使いと珈琲を』! これだ!
どうせこの後すぐに読むのだが、いつもの癖で裏に書かれたあらすじをチェックする。
『どこにでもいる普通の高校生・櫻井祥太朗は、シングルマザーの佳菜子と二人で住んでいる』
うーわ――……。本当に実名だ……。櫻井、災難だったなぁ。
あれ? お母さんシングルマザーだったのかな? でも、雑誌では主人がどうとか……。
この疑問は、あらすじを見ていくうちに明らかとなる。『なんと父親は魔法使いだった!』の一文を発見したからだ。
「ちょ……っ! 何これ……。櫻井、ノンフィクションって言ってたけど……」
とりあえず、あらすじは見なかったことにして、レジへ持っていく。そんなに厚いわけでもなく、ぱらりとめくったところ、一頁の文字数もそんなに多くはないようだ。
これがライトノベルってやつかぁ。
そう思いながら、会計をする。
これなら今日中に連絡出来そうだな。
家で読んでも良かったのだが、何となく、2軒隣の喫茶店に入ることにした。さすがに店内は暖房が強く、さっきまで温かいコーヒーが恋しかったのに、いまはアイスコーヒーでも良いような気がした。
こりゃー、ユキちゃん死んじゃうわ。テラス席無いし。
ウェイトレスにアイスコーヒーを頼み、買ったばかりの本を開く。
物語は櫻井佳菜子の絵本から始まる。
その絵本とは『いだいなるまほうつかい』。
魔法使いがお嫁さんを探しに旅に出るものの、声をかけた女性には「普通の人間が良い」と振られてしまう。しかし、盲目の少女は魔法使いの姿が見えないので、怖がらない。それどころか自ら嫁になる、とまで言い出す。
で、佳菜子はこの絵本がノンフィクションだと言う。そして、その少女は自分だとも。
魔法使いは、自分の目を材料として、佳菜子に新しい目を作った。それを結婚指輪代わりにし、2人は結婚する。やがて祥太朗が産まれ、魔法使いは姿を消す。祥太朗は少しずつ魔法が使えるようになり……。
――って、いやいやいやいや!
あたしの話もたしかに突拍子もなかったけどさぁー。
櫻井の話も大概でしょ、コレ。
絶対、フィクション! アイツにまんまとしてやられたわ!
という気持ちも無きにしも非ずだったが、彼の電話口でのやけに真剣な声を思いだし、最後まで読むことにした。
最後は無事に父である魔法使いが家族の元に戻り、彼女である千鶴との未来を感じさせて終わった。
うん、まぁ良い話だったんじゃない? このお父さん、超紳士だったし、彼女の千鶴ちゃんも可愛かった。櫻井は……まぁ、あのまんまだったかな。
一華は氷が溶けきって薄くなったアイスコーヒーを飲んだ。時計を見るともう17時である。
あんなにノンフィクションノンフィクションと言っていた祥太朗を思い出す。
あり得ない話だよ。だって、櫻井のお父さんが魔法使いで、櫻井も半分だけ魔法使いってことだよね。
でも、雪虫が人間の姿になって家にいるっていうこの事実がある以上、魔法使いの存在も否定するわけにはいかない気がする。
もう一口、と思ってストローを咥え、もうすっかり空になっていることに気付き、残っていたお冷を飲んで、席を立った。
家までの道中、電話をしようかどうしようか悩んだが、家の中だと却って話しづらいかと思い、スマートフォンを取り出した。『発信』をタッチし、待つ。思っていたよりも早く祥太朗は出た。
「――おお。もう読んだのかよ」
「……読んだよ。あのさ、これ、ノンフィクションなんだよね? ほんっとーに、ほんっとーにノンフィクションなんだよね?」
「そっちの話だって大概だろ。な、俺がすんなり信じた理由がわかるだろ? 俺も似たようなもんなんだよ」
「似たような……ファンタジーの世界の住人だよね……。じゃあさ、お父さんって、本当にあんな感じなの?」
「あんな感じだよ。で、そうそう、何で俺が小説読ませたかって話なんだよ。もしかしたら父さんの力がいるかと思ったんだ」
「……魔法使いの力が?」
「まぁ、必要なければ良いんだけど」
「うーん。まだ確信ないからアレだけど……。たぶん……力を貸してもらうと思う……。お父さんって、長距離の移動出来るんだよね?」
「長距離? 日本からブラジルくらいか?」
さすが、『いだいなる魔法使い』。長距離の規模が違うらしい。
「いや、全然国内だけど……」
「それならむしろ短距離だな。誰を乗せるかで速度が違ってくるけど」
「……何か、すごい話になってきたね。ただね、まだわかんないから」
「そうか。でもとりあえずさ、父さんに話しといて良いだろ?」
「……まぁ、櫻井のお父さん口固そうだし、良いよ。あー、もう家着いちゃうからさ。また何か動きがあったら連絡するよ」
「おう、こっちも何かあったら連絡するわ」
電話を切ってからも、しばらくは家の中に入れなかった。
現実が、いままで現実だと思っていた何もかもが、すべて妄想やら空想やら夢やら幻やら、実体のないおぼろげなもののように感じられ、ぐらりと眩暈がする。
硬いアスファルトの上に立っているはずなのに、柔らかい砂の上にいるようで、足元からずぶずぶと沈んでいくようだった。
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