第7話

「いっちゃんも、礼二もご飯よー」


 キッチンから母の声がする。


「そうだ、ご飯だ!」


 そして、ユキの元気な声もする。何だか年の離れた妹みたいだ。


 テーブルの上には、パスタが並べられている。

 ほかほかと美味そうな湯気が上がっているものが3つ、そしてもう1つは当然のように冷製だった。


「ユキ、フォークは使えるか?」


 ユキの隣に座り、小声で尋ねる。


「フォークって何だ?」


 ……ほほう、そう来ましたか。


「良いか、俺の真似をして食うんだ。うまく食えないと『母さん』がきっと悲しむ」

「何だと! それは大変だ。早く手本を見せろ!」

「まぁ落ち着け。良いか、これがフォークだ。そして……、こう持って……」


 ユキは俺の手元をじっと見つめながら、同じようにフォークを持ち、パスタの山にそれを突き立てる。


「そうだ。そして……くるくる……くるくる……」

「くるくる……くるくる……」


 お、良いぞ良いぞ。ちゃーんと巻き付いてる。


「ある程度巻き付いたら……、ぱくっ。良いぞ、食え、ユキ!」

「承知!」


 フォークに巻き付いたパスタは結構な大きさになったが、ユキは口を開けられるだけ開けて一口で食べた。よくよく咀嚼して、ごくんと飲み込む。


「何だ、簡単だ! 『母さん』上手だろう?」


 ユキは得意げである。子どもか! ……あぁ、子どもか。


「上手よー、ユキちゃん。そんなにもりもり食べてくれると作りがいがあるわねー」


 母もつられて笑う。


「かっわいいわーユキちゃん! こんな妹欲しかったのよね~」


 姉はそこまで言って、向かいの席に座っている俺を見た。


「――いや、礼二も可愛いけど……ね?」

「良いよ、気持ち悪いな」


 ユキは一心不乱にパスタを食べている。

 パスタを巻き付けるときは「くるくるー、くるくるー」と楽しそうだ。


「母さんのパスタは相変わらず美味しいわー」


 姉もユキに合わせて「くるくるー、くるくるー」とフォークを回す。

 何だか、微笑ましい光景だった。



 昼食後は俺の部屋で作戦会議をすることになった。もちろん、母は抜きで、である。


 念のため、ユキの小腹が空いた時のためにリビングに残っていたせんべいとチョコレートを全て回収することにした。母はむしろ買い置きをすべて出すつもりでいたようだが、恐らくユキは出せば出しただけ食べてしまうのだ。そんなにホイホイと差し出してしまうとウチの家計が危険である。だからとりあえずここにあるのだけで良いとそれを阻止した。

 

 部屋に入ると、ユキは敷きっぱなしになっていた客用布団の上に胡坐をかいた。最早そこを定位置と決めたらしい。

 姉はベッドに腰掛け、仕方なく俺は学習机の椅子に腰を下ろす。


「さて……と」


 一息つくなり姉は小さなカバンから手帳を取り出した。その中に挟まっている写真を取り出してユキの前に置く。


「ユキちゃん、ちょっとこの写真見てほしいんだけど……」


 ユキは姉が手を引っ込めたのを確認してから写真に手を伸ばした。

 最初は上下もわからないようであったが、くるくると回すうちにこれが何の写真なのかわかったのだろう。


「あ……」


 そうつぶやくと、ふるふると肩を震わせ、涙を零した。


「――え?」

「――おい! どうしたユキ! 泣くな! 泣いたら体温が上がるぞ! ……やべっ、保冷剤忘れた! いま取ってくるからな!」


 俺はユキにそう言って、階段を駆け下りた。


 そして再びドタドタと音を立てて階段を駆け上り、部屋に飛び込む。


「――ユキ! 保冷剤だ! 早く冷やせ! 姉ちゃん、何見せたんだよ! 何でユキ泣かせてんだよ!」

「違うぞ、レイジ。イチカが悪いのではない。懐かしくなってしまっただけだ」


 持って来た保冷剤は3つ。

 それを布団の上に置いた。まかり間違っても彼女に触れてしまわないよう、20cmは離れた位置に。


 さっき入れたばかりのを含めて、冷凍庫に残っているのは5つ。このペースで使うと恐らく冷却が追いつかなくなるだろう。


「懐かしいってことは、ユキちゃん、やっぱり……」

「これは、我が同胞達だ。私のために身を捧げてくれた、同胞達だ……」


 ユキは手を伸ばして保冷剤を1つ取り、涙の上から頬を冷やした。写真を置き、それと交換するようにもう1つ取って反対側の頬も冷やす。両手が塞がった状態で残る1つはどうするのだろう、と様子を伺っていると、救いを求めるような――というか、「どうにかしろ」とでも言いたげな目で見つめられた。仕方なく、頭の上に載せてやった。


「姉ちゃん、この写真は何なんだよ」


 ユキは少し落ち着いたようだった。頬の赤みが引いてきている。


「あ――……、これはね……」


 姉が話すのをユキが遮った。


「これは、私が生まれた時だ。このようにして見たことはないが。――ほら、ここに私がいる」


 そう言って、細く、真っ白い柱と、夜の闇の境界線を指差す。しかし、俺にはよくわからなかった。姉も難しい顔をして首を傾げている。


「これは、ユキちゃんの誕生の儀式だったのね……。さっき同胞達が身を捧げたって言ってたけど、それは……?」

「私は――いや、私達は、たくさんの同胞達の生命を集めて、この世に生まれるのだ。雪虫達の女王として」


 女王……。

 そうだ。ユキは女王だって言ってた。もっとも、その時はぜんぜん信じてなかったけど。


「女王誕生だったのね……。なーにがバトルロイヤルよ」

「姉ちゃん1人で納得すんなよ。俺にもわかるように説明してくれ」

「説明しても良いけど、虫の話だよ? 本当に良いの?」

「うっ……。出来るだけ……ソフトに……お願いします……」

「しっかたないなぁー」

「イチカ、レイジ、私はまた少し眠るぞ。用があったら起こせ」


 ユキはその場にごろりと横になった。泣くのも体力を使うようだ。


「お休み、ユキちゃん。さぁーて、どこから話すかなぁ」


 虫の話、と聞いて、俺はごくりと唾を飲んだ。


 それから姉は、ごほん、とそれらしい咳払いをしてから、写真の入手経路と『氷柱』と呼ばれる雪虫の異常行動について説明した。

 だいぶ身構えてみたものの、雪虫に関してはだいぶ免疫が出てきたようで、さしたる問題は無かった。


「成る程ねぇ。でもさ、じゃあ、これでその学者さん達も一安心だな。解明されたわけだし」

「なーに言ってんのよ。どうやって証明すんの? まさかその学者さん達の中にユキちゃん放り込めって?」


 その言葉で、テレビのコントで見た、胡散臭い宇宙人の人体実験の様子を思い出した。


 まぁ、そこまでとはいかなくても、何かしらの実験とか研究に使われちゃうんだろうか。


「それは……出来ないな」

「――でしょ」

「でも、良いのかよ。すんげぇ発見なんじゃねぇの? その……もったいない……っつーかさ」

「そりゃ、ね。でもさ、女王様がまさかこんな姿で現れるとはねぇ。単なる親指の爪くらいの個体だったら、否応なく捕獲してたと思うけど。……そう考えるとさ、結局、見た目なんだよね」


 姉はすやすやと眠るユキを見つめる。


「アンタの大大大ッ嫌いな『黒いアイツ』がさ、もし小さい黒猫だったら、こんなに嫌われてないじゃん、絶対」

「……そうだな」

「同じ虫でも、カブトムシやクワガタは男の子に人気だし、蝶々だって女の子のアクセサリーのモチーフになったりするでしょ」

「う……、うん……」


 あんまり固有名詞は出してほしくなかったな――……。


「何か、勝手だよね。人間って」


 それは、そうなんだよな。

 そう言われると、こんなにも虫を毛嫌いしてる自分がものすごい悪人のように思えてくる。


「まぁ……そうだな」

「っていうかぁ、こーんなペーペーの学生が何言っても信じてもらえないしねー。いつかウチの教授が解明するからヘーキヘーキ」


 ケラケラと笑ってチョコレートを口に放り込んだ。


「んでさ、どうする? 今後」

「そう、それなんだよ。母さんには一応家出少女ってことにしてるけど……」


 そうね……、と言って姉はユキを見つめ、考え込んだ。


「一芝居……うちますか」



 俺はすっかりぬるくなってしまった保冷剤を交換しにキッチンへ向かった。


「あら、礼二。それ、ユキちゃんのね。いっちゃんといるの? お茶でも持って行こうか? お菓子もまだあるわよ」

「良いよ、腹が膨れて眠くなったみたいで、いま寝てんだ」 

「そうなのー。食べてすぐ寝ちゃうなんて赤ちゃんみたいねー」 


 たしかに、生まれたばっかりなわけだから、赤ちゃんみたいなものか。


 冷凍庫を開けて保冷剤をしまう。


「ねぇ、夕飯は食べるかしら。家出って言ってたけど、お家の人に連絡した方が良いんじゃない?」

「ああ、とりあえず、ウチにいることだけはさっき電話したんだ。――ん?」


 俺の尻ポケットに入っているスマートフォンが振動する。


「あれ? ユキん家からだ。さっきかけたばかりなのに」


 そう言いながら、『応答』をタッチする。


「もしもし……。はい。さっきはどうも。……いえ。どうかしたんですか? ええ? それは急でしたね……。そしたら、ユキはどうしますか? そちらに送り届けましょうか? ……え? シッターさんに?」


 ここまでしゃべると、受話口を手で覆い、何事かと見守る母に向かって「ユキ、何日か預かってもいいよな?」と尋ねた。眉間に皺を寄せ、やや早口でしゃべるのがポイントだ。

 非常事態を察したのか、母は無言で何度もうなずき、指でオッケーサインまで作っている。


「ああ、すみません。もしよろしければ、ウチでしばらくお預かりしましょうか。いま、姉も戻ってきてて……。はい。……いえ、だいぶ仲良くやってますんで大丈夫ですよ。え? お礼? いえいえそんな。はい、……もちろん。はい。では」


 眉間に力を入れたまま『通話終了』をタッチし、再び尻ポケットにしまう。

 案の定、母は心配そうな顔でこちらを見つめている。


「何かさ、ユキの親戚に不幸があったんだって。――で、ユキの母さん、実家の……シベリアの方に急遽行かなくちゃならなくなったみたいでさ」


 母は「あらー」とか「シベリア?」など合いの手を挟みながら聞いている。


「だったら家に送り届けようかって聞いたんだけど、ちょっと複雑な事情でユキは連れて行けないみたいなんだよ、そんで、シッターさんに見てもらうとか言うからさ」

「それで、ウチで預かるってわけね。たしかにシッターさんはプロだけど、ちょっとユキちゃんには寂しいかもしれないもんねぇ。良いのよ、困った時はお互い様なんだし」


 ――よっしゃ! 信じた!


 作戦成功と確信した俺は冷凍庫から冷えた保冷剤を2つ取り出すと、母から深く追及されないよう、早々にキッチンを出ることにする。


「シベリアの子ってやっぱり日本は暑く感じるのね~。成る程~」


 母はユキがシベリア出身と聞いて、納得したようだった。


「さーて、じゃあユキちゃんが食べられそうな料理考えなくちゃね」


 とレシピ用の本棚に向かって、そこから数冊抜き取る。


「あら? でも向こうにも煮込み料理ってあるんじゃない?」


 そんな母の言葉は、俺の背中に到達する前に閉められた扉に跳ね返された。俺は、背中に当たらなかったからノーカン、と言い聞かせながら、聞こえなかった振りをして階段を駆け上った。




「……ああ、礼二郎君? 何度もごめんなさいねー。あのね、ちょっといま急に実家の方で不幸があって、シベリアに帰らなくちゃならないのよ。ええ、ほんと急で。……そうなのよね、ユキなんだけど、ちょっとあの子の苦手な親戚のところなもんだから、出来ればシッターさんにでも預けて行こうかと思っててねー」


 ここで一呼吸。


「……よろしいの? 助かるわぁ。……あら、お姉さんが? ご迷惑じゃないかしら? ……そう? じゃあ申し訳ないんだけど、お願いしようかしら。……このお礼は明日届くチーズケーキ3分の1でいいわよ。じゃ」


 そう言って一華は電話を切った。


 別にここまでしなくても、と言ったのだが「一人芝居だと絶対にボロが出る!」という礼二の懇願により、存在しない『ユキの母親』を演じることになったのである。

 それにもちろん、「一言ご挨拶しないと」と景子が代わろうとするかもしれない。そうなったら、あの礼二では対応出来ないだろう。


 まぁ、話した感じ、棒読みってわけでもなかったし、母さんもユキを気に入ってるみたいだったので心配ないとは思っていたけど……。


「イチカ、もう良いか?」


 ユキは両手で口を抑えていたが、手と手の間をわずかに開けて小声で問いかける。


「あー、もう良いよ。協力ありがとうね」


 一華がそう言うと、ぷはぁ、と言いながらユキは両手を離した。


「よぉーっし、これでしばらくココにいられるよ、ユキちゃん。これからどうしようっか。どうしたい?」

「どうしたい……か。私はとにかく栄養を蓄えなければならぬ。したいことといえばそれくらいだ。たぶん、もう、時間がない」

「時間? 何の?」

「まだ言ってなかったか。私には使命があるのだ。この分だと、たぶんあともう少しだ」

「使命……。それって……?」


 一華が身を乗り出す。ユキは手元にあったせんべいを手に取り、包装をピリピリと破る。


「女王として、しっかりやり遂げなければならぬのだ」


 せんべいにかぶりつき、バリっと音を立てて真ん中から割る。

 しかし、一口では入りきらなかったのだろう、空いている方の手で口に咥えたせんべいを抑えながら噛んでいる。


「女王としての使命って?」

 一華は尚も問いかけたが、せんべいをバリバリと噛む音で聞こえないのだろう、ユキはその質問には答えず、機嫌よくせんべいを齧っている。


 仕方ない、これを噛み終えるまで待つか、と一華もせんべいに手を伸ばす。

 トン、トン、と階段を上ってくる音がする。礼二だろう。


「おーい、うまくいったぞー」


 そう言いながら、ドアは開かれた。

 急いで賭け上がって来たのだろう、礼二はほんの少し息を弾ませながら部屋の中をぐるりと見回すようにして2人の姿を確認し――、


「2人してせんべいかよ。まったく」


 と、呆れたように言った。



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