第5話
食後も母はユキと話したそうにしていたが、ボロが出る前にさっさと交番に連れて行かなくてはならない。
ならないのだが……。何て言えば良いのだろうか。
シンプルに不法侵入です、かな。
でもなんか可哀相だよな。
家出少女です、で乗り切れるかなぁ……。
などと考えていると、電話が鳴った。はいはーい、と言いながら母が腰を上げる。
「はい、夏木でございます。――あら、いっちゃん」
いっちゃん……。
つまり、電話の主は姉のようだ。昨日の今日で何なんだろう。
「あら、そうなのね。楽しみ。うん、礼二に代わるわね。――うん、はいはい。はい、礼二。いっちゃんよ」
母から受話器を受け取る。
ユキは新しくもらったカチカチの保冷剤で手と頬を冷やしている。まるでカイロのようだ。
「――もしもし。代わったよ」
「おー、礼ちゃん。久しぶり~」
「そんなわけないだろ! 昨日まで一緒にいたじゃねぇか! 何なんだよ」
「もー、冗談通じないんだからー。あんね、いきなりだけど、今日のお昼の便で帰るわ」
「――は? 何で? 大学は?」
「もー必要な単位は全部取ってるからヘーキヘーキ。だぁってさぁ、愛しの川俣教授がさぁ、一週間も出張なんだよぉ? 教授がいないんだったら行く意味なんてないじゃない!」
きっぱりと言い切りやがった。
おい、それ、学費払ってる父さんの前でも言えんのか……?
「まぁ、良いけどさ……」
「礼二買ったお土産着くの明日だよね? 良かったー、多めに買っといて。そんなわけで、あたしはお土産買わずに帰るから」
横から母が「迎え、必要かどうか聞いて」と小声で話しかけてくる。
「はいはい。姉ちゃん、母さんが迎えはいるかって聞いてるぞ」
「いっるいるー。ありがとーって言っといて。12時10分着の予定だから、よろしく!」
そう言って電話は切れた。
「随分急だったわねぇ。でも、楽しみね~。あ、礼二に女の子のお友達がいること伝えるの忘れてたわ! 母さんったらうっかりー」
「良いだろ、そこは言わなくても!」
俺達の会話をユキは不思議そうな顔で見つめている。
――待てよ。
姉ちゃんなら、なんかうまいアドバイスをくれるかもしれない。
女同士の方が話しやすかったりもするだろうしな。
「レイジ、『母さん』は何をそんなに嬉しそうなんだ?」
「ああ、今日、俺の姉ちゃんが帰ってくるんだ。面白いやつだからさ、きっとユキも気に入るよ」
「『姉ちゃん』か……。それは私も楽しみだ」
***
「――夏木、実家帰るんだって?」
一華が廊下を歩いていると、同じ学部の櫻井祥太朗が話しかけてきた。学部は一緒だが、普段はあまり会話をするような間柄ではない。
「うん。教授がいないからさー。単位も問題ないしね~」
「ほんっとにあの『変人』教授が好きなんだなぁ。女って結構おっさん好きだよな」
「『女』って、何? 櫻井の『嫁』もおっさん好きなの~?」
『変人』教授の研究室に入り浸る一華は学部内でも『変わり者』として有名だったが、この櫻井祥太朗もある意味有名人であった。
彼は入学時すでに妻帯者だったのである。しかも、その妻とは別居で、道外にある祥太朗の実家で舅姑と暮らしているらしい。
奥さん寂しくねぇのかよ。こき使われてるんじゃね? 浮気し放題じゃん。
周りからは様々な声があったが、彼は一向に意に介さない様子だった。
どうやらそれは妻、千鶴の希望で、曰く、「自分の親より好き!」なのだとか。
なので、この場合の『嫁』は本来の意味での『嫁』である。
「まぁな。俺の父さんを素敵素敵言ってるくらいだし」
「それ、大丈夫なの……?」
「大丈夫だよ。俺の父さん、母さん一筋だから」
そう言って笑う。
「そういう問題……?」
「ああいやいやそんなことよりさ、これ、やるよ」
祥太朗は鞄からノートを取り出し、間に挟んでいた写真を一華に手渡した。挟んでいたのは折れないようにとの配慮だろう。
「んー? 何の写真? ――あれ……これって……。すごい、櫻井! これ、『氷柱』? どこで撮ったの?」
「先週の土日に親と嫁がこっち来てさ、みんなで阿寒の方に行ったんだよ。そん時」
「アンタんとこの家族って、ちょいちょい来るよね。仲良いのね~。そうか、阿寒かぁ。具体的な場所、覚えてる?」
「えーと、正確なところはわかんないんだ。オンネトーを見てみたくて阿寒国立公園に行ったんだけど、だいぶ暗くなってたし、一体どの辺なのか……」
オンネトーは阿寒国立公園内にある湖で、雌阿寒岳の噴火によって出来た堰止湖らしい。
そう大きくはないが、季節や天候などで色が変わることから五色沼とも呼ばれている、美しい湖だ。
写真を見ると、たしかに木々の様子からして公園内なのかもしれない。
「いやー、でもよく撮れたね。教授が戻ってきたら見せないとなー。ねぇ、櫻井はさ、この『氷柱』って何だと思う?」
「いまのところは『雪虫達のバトルロイヤル』説が有力だろ?」
「まぁ、そうなんだけどさぁ。あの雪虫だよ? そんな獰猛な感じする? これに関しては、あたしも教授も違うと思ってるんだよね」
「じゃあ、何だと思うんだ?」
「それがわかったら学会騒然だよ。まだわかんないよ。第一、目撃情報が少なすぎるんだよねー。ほんっと、櫻井、これはすごいよ!」
そう言って、一華は写真をまじまじと見つめた。
『氷柱』とは、ユスリカの蚊柱に似た、雪虫の異常行動である。
通常、雪虫は風に漂って飛行するため、起こりえない行動とされていたが、20年程前に冒険家の布施定孝に発見されてからは数年に一度のペースで目撃されている。
数年に一度しか目撃されないのは、風に漂う習性からか、発生場所が特定出来ないからだ。そのため、学者達の間では幻と言われている。現在のところ、道南を除く様々な地域で目撃されている。
そんな稀少な行動であるために、一体これが何の目的で行われているのかはいまだ解明されていない。
運よく『氷柱』に遭遇したある学者が収めた映像を、一華と祥太朗も授業で見たことがある。
数千匹もの雪虫によって作られたその柱は、まさに宙に浮かぶ『氷柱』だった。
午前2時の闇夜の中で、月の光に照らされ、ほの白く光っている。
そして、10分程経過すると、徐々に柱の下方からはらはらと崩れていく。
舞い落ちる雪虫は、まさしく雪のようだった。
やがて、ほとんどの雪虫が風に舞って散り行く中に、1匹なのか、はたまた数匹の群れなのか、通常の個体よりもやや大きな白い塊が闇夜の中へ消えていくのが見えた。
映像は、その塊を追うことは出来なかったらしい。その代わりに、地面に散乱している雪虫の死骸を映したところで終了している。懐中電灯の光に照らされたその雪虫達に白さはなく、単なるアブラムシの死骸にしか見えなかった。
蚊柱は交尾に関係の深い行動であるといわれているが、この『氷柱』の後には大量の死骸が出ること、そして、最後に大きめの個体(もしくは数匹の群れ)だけが生き残ることから、縄張り等を守るためか、より強い個体が生き残るための争いと考えられ、『雪虫達のバトルロイヤル』ではないかとの説が有力だ、という一言で、その授業は締めくくられたのである。
「……櫻井はさ、何だと思う?」
「それがわかったら学会騒然なんだろ? だいたい、虫の分野でお前がわかんねぇなら、俺にわかるわけがないだろ」
「櫻井は何気に褒め上手だね。あー、あたしそろそろ行かないと」
「悪いな、引き止めて」
「ううん、こういうのなら大歓迎! ありがとね。何かわかったら櫻井にも教えるから!」
そう言うと、写真を慎重に手帳に挟んで、一華は足早に去って行った。
「――こういうのは、俺じゃなくて、お前が解明してくれよ」
一華の背中に向かって、祥太朗はつぶやいた。
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