第2章 夏木家とユキ

第4話

 もしかしたら夢なんじゃないか、などとほんのり期待をして目を覚ましたが、事態は何一つ変わらなかった。


 こっそりと客間から運び出した客用布団で、ユキはすやすやと眠っている。

 本当はベッドを使わせようと思ったのだが、床に布団を敷くと、


「こっちの方が涼しくて良いな」


 そう言って、寝転がってしまったのだ。


 俺が勧めた羽毛布団も「そんなものなどいらぬ」と不要らしかった。


 エアコンもつけず、冷え切った床で掛け布団も無し。

 身に着けている衣服はふわふわとした毛皮のようだが、ノースリーブで丈の短めのワンピースだし、見ているこっちが凍えそうだった。


 風邪を引くから、頼むから毛布くらい掛けてくれ、と言ってみたが、「私を弱らせる気か!」と返り討ちにあう始末。


 勝手にしろ! そう言って、頭から布団をかぶる。

 旅行の疲れもあったのだろう、気付いたら朝だったというわけだ。


 さて、問題は、親に何て説明するかだ。


 時計を見ると7時半。今日は早出だと言っていたから、父はもう家を出たはずだ。さて、母をどうごまかすか……。


 俺が考えあぐねていると、ユキが目を覚ました。


「おはよう、レイジ。食物を持ってこい」


 起き抜けにそれかよ。人の気も知らないで……。


「おはよう、ユキ。あのな、食いもんはちょっとだけ待ってくれないか。必ず食わせるから。ちょっとだけ今後の打ち合わせがしたいんだ」


 ユキは少々不服そうな表情であったが、『必ず食わせる』という言葉で何とか納得したようだった。


「何だ、打ち合わせというのは」


 布団の上に胡坐をかく。

 そんな短いスカートで胡坐なんてかいたらパンツ見えちゃうだろ!

 ……と思ったが、どうやらスカートではなく、ショートパンツのようになっているらしい。ほっとしたが、ほんのちょっと、ほんっとーにほんのちょっとだけ残念だった。


 邪な考えを必死に打ち消す。こんな子供に欲情したら、俺、ロリコンじゃんか!


 そう、とりあえず、今後のことをきちんと打ち合わせしておかないとまずい。

 おそらくこの子は家出少女だろう。ただ、この態度からしてそう簡単に帰るとも思えない。後で交番に連れて行くとして、まずは飯だ。


 母に見られずに食糧を調達するのは、この時間はまず不可能だ。母は俺が朝食を食べ終わるまでキッチンから動かない。

 とすると、ユキの腹を満たすためには、彼女を下に連れて行くしかない……。


「ユキ、あのな。俺としては、いますぐ腹いっぱい食わせてやりたい。ただな、俺はいままで彼女を連れ込んだことはないし(ていうか、いなかっただけだけど)、第一、クラスの女子だってウチに来たことはないんだ」

「ふんふん。それで」

「だから、本当はユキを連れて下に飯を食いに行きたいんだけど、ちょっとそれが難しいっていうのが現状だ」

「ふんふん」

「ていうか、女の子と一晩過ごしたなんてことが知れたら、母さん目を回しちゃうだろ……」


 俺はベッドの上で胡坐をかいたまま頭を抱えた。


「つまり、どういうことなんだ。わかるように説明しろ」

「つまり……だな……」


 打ち合わせだなんて言ってみたものの、考えなんてまったくまとまっていないのだった。


「せめて、『友達が遊びに来た』って感じで玄関からスタートしてれば違ったんだよなぁ……」


 そんなのいまさら無理だとわかっていたが、『せめて』の願望が口をついて出る。


「何だ。では玄関から入れば良いのだな。どれ」


 そう言うと、ユキはすっと立ちあがり、閉め切っていたカーテンと窓を勢いよく開けた。急に射しこんできた日の光が眩しい。キリッと冷えた外気が入り込み、起き抜けの冴えない身体に喝を入れる。


「さぶっ……。――って、おい、ユキ!」


 窓枠に足をかけて、ひらりとユキは飛び降りた。


 それは一瞬の出来事だったが、俺にはとてもスローに感じた。

 捕まえようと咄嗟に手を伸ばしたのに、俺の動きすらもスローモーションで届かない。最も、触れてしまったらまた烈火の如く怒られるのだろうが。


 両手を高く上げた万歳の姿勢のまま。足、腰、背中、肩、腕。

 最後に、白く、長い髪が日の光でキラキラと輝きながら、落ちて行く。


「――ユキ!」


 スローの呪いが解けた俺は慌てて窓に駆け寄り、下を見た。そこには平然とした顔でこちらを見上げているユキがいる。


「おおい、レイジ。玄関はどっちだ?」


 下から俺を見上げて、ユキは笑顔で言った。


「え……っと、そっち……だけど……」


 仮にも2階から飛び降りておいて、どこか痛がる様子もない。

 呆然としつつも玄関の方を指差す。

 あまりの衝撃に、俺は窓を閉めることも忘れ、その場に座り込んだ。いや、へたり込んだ、というのが正解かもしれない。


 やがて、玄関のインターホンが鳴る。

 ピンポーンという音で、俺は我に返った。


 ――ユキか? ユキだよな、絶対。


 たしかに玄関から入って来いとは言ったけどさぁ、まだどういう設定で行くか考えてないんだけど!


 俺は一気に階段を駆け下りた。

 何とか、母さんが応対する前に……!


「はぁーい」


 母の声がする。


 出遅れた――――――……!


「私はユキだ。レイジに言われて来た。何か食物を寄越せ」


 第一印象も最悪だ――――――……!


 階段を下り切ったところで俺はがっくりと肩を落とした。


 母は、目の前にいるやけに居丈高な少女を凝視して、固まっている。上から下まで真っ白なこの少女と、俺の接点が結びつかないのだろう。


 そりゃそうだ。俺だってぜんっぜん結びつかねぇもん。


「え――……っと、礼二のお友達なのかしら? 待ってて、いま呼ぶから。礼――っ!?」


 そう言って、後ろを振り向きながら大声で呼びかけようとして、すぐ後ろの階段に座り込んでいる俺の姿を見て驚く。


「ああびっくりした。後ろにいたのね。お友達来たわよ。もう、そんな恰好で! 女の子の前よ、着替えてらっしゃいな」


 そういえば、慌てて下りてきたので、着替える暇がなかったのだ。


 たしかに女の子の前に出てくる恰好ではない。くたくたの部屋着である。


 ただ……、まさか、この恰好で既に一晩過ごしていますとは言えない。


「ユキちゃん、ご飯まだなの? 簡単なもので良ければ準備するわね。ほら、礼二は着替えて来なさいったら」

「かっ、母さん! その子さ、超暑がりの猫舌なんだ。冷蔵庫にプリンかゼリーかあっただろ? とりあえずそれ食わせてやって!」


 この寒いのにー? という母の声を背に、俺は階段を駆け上がり、部屋に戻って急いで着替えを済ませる。机の引き出しから予備のノートとペンを持って部屋から飛び出した。

 階段を駆け下り、キッチンに入ると、保冷剤で頬を冷やしながらプリンを貪るユキの姿があった。


「保冷剤……?」

「あら、礼二。ユキちゃんって変わった子ねぇ。プリン出そうと冷蔵庫開けたら、中に入りたがってね。本当に暑がりなのね。そんなに暑いのかと思って、保冷剤渡したら気に入ったみたいで」

「その手があったか……。いや、この間に……!」


 俺はノートにペンを走らせ、書いた文章をユキの目には入らないようにして母だけに見せた。


『この子は知り合いの子なんだけど、ちょっと訳ありで家出中。アニメで日本語覚えたから言動がおかしいけど、否定すると可哀相だから、あまり突っ込まないでやって』


 母は眉間に皺を寄せつつふんふんと読み、右手でオッケーのサインを作った。

 この深く考えないところがとてもありがたい。この性格にまたしても助けられた形である。


「えーと、ユキちゃん、プリンだけじゃお腹膨れないんじゃない? 礼二も来たことだし、一緒にご飯お食べなさいな」


 そう言って、炊飯器の蓋を開けると、ほわっと湯気が上がった。

 その湯気を見て、昨夜の一件がフラッシュバックしたのだろう。ユキは肩を震わせた。


「あぁ、母さん、ユキはその飯だとちょっと熱すぎるんだ」

「え? そんなに猫舌なの? どうしようかしら……。冷たいおそばでも作る?」

「もんのすごい猫舌なんだ。舌だけじゃないけど……」


 ユキは炊飯器から上る湯気を、まるで恐ろしいものを見るかのような目で見ていた。


「じゃ、ユキちゃん、ちょっと時季外れだけど、冷たいおそばにするわね。でも、お箸は大丈夫かしら……」


 大鍋にたっぷりと水をいれ、火にかけた。

 そうか、冷たい麺っていう手があったよな。


「箸か……そうだよな。ユキ、箸って使えるか? ていうか、箸ってわかるか?」


 ユキは手持無沙汰なのか、柔らかくなった保冷剤をもんでいた。


「箸はわかる。見たことがあるぞ。でも、使ったことはないな」

「あらー、やっぱり外国の子には難しいかしらねぇ。……あ、そうだ!」


 そう言って、冷蔵庫を開けて何やら探している。


「何? 何か良い方法あるの?」

「うふふ。母さんに任せなさいって」


 母は何だか楽しそうだ。おそらく、姉が出て行ってしまったので、久しぶりの女の子とのやり取りが嬉しいのだろう。


 しばらくしてそばは茹で上がった。ミトン型の鍋つかみを装着し、ザルにあける。

 炊飯器の時よりも大きな湯気を見て、ユキは口をあんぐりと開け、保冷剤をぽとりと落とした。


「れっ、レイジ、何をしている! あんなに熱いところに当たったら『母さん』が死んでしまうぞ! 早く『母さん』を助けに行かんか! 馬鹿者が!」


 プリンと保冷剤を与えてくれた『母さん』に恩義を感じているようだ。うっすらと涙ぐんでいる。目の端が赤い。


「大丈夫だって、ユキよりも熱さには強いんだから。そんなことより、泣いたら体温上がるんじゃないのか?」

「泣いてなど!」


 そう言って目をこする。やっぱり泣いていたのだろう。


 そんなやり取りがあることなどつゆ知らず、母はせっせとそばを流水で冷やし、薄めた麺つゆに浸している。

 そして、先ほど冷蔵庫から取り出した真空パックの『味付き稲荷あげ』の中に冷えたそばを詰めているようである。大量に白米が残った時などに、母はよく稲荷ずしを作るので、冷蔵庫には必ずストックしてあるのだ。


「さーて、ユキちゃん、これならどうかしら~?」


 優に2人前はありそうな量のそば稲荷を大皿に載せて、母が振り向く。


「おおおおっ! これはなんとうまそうな!」


 母が皿を置くと同時に、ユキは手を伸ばす。成る程、これなら手づかみで食べられる。


 泣いたカラスがもう笑った、……か。


 にこにこしながらそば稲荷にがっつくユキの姿を母は微笑ましそうに見ている。


 お茶でも……と、急須に手を伸ばしかけて、あ、そうね、とつぶやき、冷蔵庫から麦茶を取り出す。コップになみなみと注いで、ユキの前に置いた。


「外国の子でも、こういう味ってウケるのねぇ。良かったわー」


 幸せそうな顔で次々とそば稲荷を口へ運んでいくユキと、それを見守る母の顔を見て――、


 とりあえず、これからどうしよう……と俺は思った。


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