第2話
それから40分ほど電車に揺られ、空港に到着した。
搭乗時間までは、姉の案内で空港内をぐるぐると見て回ることにした。というよりも、彼女の案内がなければ、俺はこのだだっ広い『新千歳空港』という名の
何せこの『新千歳空港』って野郎は、実家のある秋田県の空港とは違い、土産物屋も多く、さらには温泉までありやがるのだ。こんなのが地元に出来たらテーマパークと勘違いした家族連れが連日入り浸ること間違いなしである。
途中、ペアルックしようか、と『熊出没注意!』とでかでかと書かれたTシャツを買わされそうになったが、それは何とか阻止に成功した。どこで着るんだよ、そんなの。
――が、気付くとおそろいのストラップは買わされていた。
やけにリアルな熊が鮭を口に咥えているデザインで、これは可愛いのか俺には判断出来ない。キモカワとも評しがたく、強いて言うなら『怖カワ』だろうか。
姉はというと、俺と同じ熊のストラップを付けたスマートフォンを揺らし、おっそろい、おっそろい、と喜んでいる。
こんなのが春から社会人かよ。
そう思って、ため息をついた。
おそろいのストラップが揺れるスマートフォンで、家に電話をかける。出たのは母の景子だ。手短に、もうすぐ飛行機に乗ることを伝え、切る。切った後で、ちょっと素っ気なかったかなと反省する。毎回、電話の度に反省するが、改善はされない。つまり、形だけの反省ってやつだ。
搭乗時間が近付いてきたので、姉とは手荷物検査場の手前で別れた。
あんなにべったりだった癖に、別れは実にあっさりしたものだ。ストラップを揺らしながら、スマートフォンを持った手を振り「じゃ、また電話かメールするね」とだけ言って、姉は踵を返して行ってしまった。
それでもきっと、映画か何かみたいに、途中で振り返ったりすんだろ。
そう思ってしばらくその後ろ姿を見守っていたが、一向にその気配はない。
しかも、電話まで始めたときたもんだ。
いつまでも気にしているのは何だか女々しいようで、俺は諦めて手荷物検査場へと向かった。諦めてなんて言っちゃう辺りが既に女々しいのだが、そこは目を瞑ってもらいたい。
1時間もかからず、飛行機は秋田空港の滑走路へ着陸した。
こうもあっという間だと、いちいちシートベルトなんて外していられない。
俺は道中一度も外さなかったシートベルトを外し、頭上の収納スペースから荷物を取り出した。
到着ロビーで荷物を受け取り、市内へのリムジンバスの時刻を確認しにバス停へ向かう。
バスは運よくあと5分ほどで来るようだ。運よく――というか、飛行機の到着に合わせているのだから当然といえば当然である。
外は寒かったが、やはり北海道の比ではない。
とりあえず手に持っていたダウンのコートを羽織ったが、ファスナーは開けておくことにした。さすがにマフラーはまでは必要ないので、土産の入った紙袋の中に丁寧にたたんでしまう。
リムジンバスと市内バスを乗り継ぎ、自宅へ着くころには17時を過ぎていた。
まだ父は帰って来ていないようだ。お帰りなさいという言葉と共に、ぱたぱたと母が小走りで出迎えてくれる。
「お姉ちゃん、元気そうだった? 寒かったでしょう、あっちは」
専業主婦の母は、家の中での話し相手に飢えていたのだろう。1週間ぶりの息子に
まとわりついて離れない。姉が人懐っこいのはこの母に似たのだ。
「元気だったよ。っつーか、あのまんま。変わってねぇ。ちょっと荷物置いてくる。あと、これ、土産。明後日にはもっと届くから」
土産は発送したものの、さすがに手ぶらで帰宅するのもと思い、搭乗ぎりぎりに適当なクッキーを一つ買っておいたのだ。俺にしては気が利いてるじゃん、と思う。
男の荷物なんて、たかが知れてる。
1週間の滞在ではあったが、キャリーバッグの中は割とスカスカだった。中を開けて、洗濯の必要なものを取り出す。ダウンのコートはコートハンガーに掛けた。
北海道ではちょうど良かったけど、こっちではまだ早いかもな。このフードなんか南極越冬隊かよってくらいフッサフサだしな――……あ?
俺はフードのファーを凝視した。
真っ白いファーの中で、どこかで見た白い物体が弱弱しく動いている。
もしかして……あの時の……。
「雪虫? いや、でも、こんなにデカかったか……?」
自分の口から『虫』という単語が出てきたことにまずは軽く驚く。そしてぶるりと身震いをした。
何でだよ、何でまだいるんだよ。
つまんで引きはがしたかったが、気持ち悪くてそれも出来ない。そういうのは昔から姉の役目だったのだ。
姉は「もー、礼ちゃんってば~」などと茶化しながらも嫌な顔一つせず、取ってくれたものだった。
母さんを呼ぼうか。
一瞬そんな考えがよぎったが、姉には見せられても、母にそんな情けないところを見せたくなかった。心のどこかでは『大の男が虫を怖がるなんて』という思いがある。いくら小柄で『可愛い』俺でも男としてのちっちゃなプライドがあるのだ。
と、なると。
俺がやるしかないわけで。
とりあえず、出来るだけ雪虫を見ないようにして、再度ハンガーからコートを外し、両手で肩をそれぞれつまむように持って、ゆっくりと窓の方へ向かう。
ここへ来て、両手がふさがっていて窓を開けられないという致命的なミスを犯していることに気付く。
はぁ、とため息をつき、なるべくコートを揺らさないようにゆっくりと左手を離して、カーテンと窓を開ける。そーっとコートのみを外へ出して、目を瞑ってバサバサと振った。上下に振ると顔に飛んでくる気がして、左右に大きく振る。
ぼちぼちいいだろうかとうっすら目を開けて確認すると、雪虫はいなくなっていた。
「……良かったぁ」
コートをベッドの上に投げ、窓とカーテンを閉める。だいぶ外気を入れてしまったので、室温はかなり下がってしまっただろう。エアコンをつけて部屋を暖めようとリモコンを探していると、階下から母が呼ぶ声がした。
適当に返事をして、コートをベッドに放置したまま電気を消して部屋を出た。
ドアを閉める直前に洗濯物の存在に気付き、くるりとUターンをする。
「馬鹿か俺は」自虐気味にそう言って、廊下の灯りだけを頼りに、洗濯物が入ったビニール袋を回収する。
扉が閉まる直前、ベッドの上のコートが一瞬ぶるりと震えた気がした。
リビングへ行くと、父もちょうど帰宅したところだったらしく、立ったままスーツの上着を左手に抱えて、俺が買ってきた土産をつまんでいた。
「おお、お帰り礼二。これうまいな。母さん、お茶入れてくれないか。あったかーいやつ」
父――孝義は母に煎茶を所望し、ソファに身を沈めた。この恰好のまま、本格的に食べるつもりらしい。キッチンでは「私の分も残しておいてよー」という声が聞こえる。
いや、それよりも着替えを勧めるんじゃないのかよ。っつーかもうすぐ夕飯なんじゃねぇのかよ。
こんな両親のやり取りを見ていると、俺って恵まれてるよなぁ、と思う。
俺が最初に不合格通知を受け取った時、父と母は「次があるさ」と笑ってくれた。
不合格通知が2通、3通と増え、頼みの綱の滑り止めすらも駄目だった時も、2人は大して気にしていない様子だった。一番ショックなのは俺だからと、いつも通りに接するように努めたのだろう。
就職するか、浪人するか、との選択の段になって、父は浪人を勧めてきた。
「一華も大学に行ったんだし、礼二にも行く権利はある。それに、大学は楽しいぞ!」
この一言だった。
のん気な父親のこの言葉に後押しされ、俺は浪人することにしたのである。
しかし、浪人を勧めた割に、勉強勉強と言われたこともない。あまつさえ、隙あらば家族団らんに加えようとしてくるこの父の真意が、俺にはさっぱりわからない。
ウチは特別裕福ってわけでもないと思うんだけど。
「もーやだー、お父さんったらー、スーツのままだったのね。ちょっと中断して着替えてらっしゃいよー」
お盆に湯呑を3つ乗せて、母がやって来た。どさくさに紛れて自分もつまむ気のようだ。
「せっかくのお茶が冷めちゃうだろ。大丈夫大丈夫、気を付けて食べるから」
などと言っているが、スラックスには既に結構な量の食べカスが落ちている。
「そんなこと言って、ぽろぽろこぼしてー。食べ終わったら玄関で払ってきてね」
母は煎茶を啜って土産のクッキーに手を伸ばす。膝の上のエプロンをぴんと張り、その上でゆっくりとかじっている。どうやらこのクッキーはどんなに頑張ってもポロポロとカスが落ちてしまうようだ。ごめん。
『払う』という言葉で、さっきの雪虫を思い出して身震いをする。
そんなにでかい虫でもないのに、遠くから見れば雪にしか見えないのに、俺って 本当に情けねぇやつ。
蝶々やカブトムシなら、それもある程度デフォルメされたイラストなら我慢出来る。でも、どんなにデフォルメされても、腹の部分だけは駄目だ。脚が六本ある、そのことを考えるだけで鳥肌が立つ。
理科の教科書の昆虫の写真やイラストには、恥を忍んで姉に紙を貼ってもらった。その分野のテストは重要語句のみを覚えて適当に書いたのだが、案外当たっていて驚いたものである。
結局、夕飯前にも関わらず、土産はすべて食べてしまった。
父は、食べカスをこぼさないようにスラックスをつまんでそーっと玄関へ行く。
パン、パン、とそれを払う音が聞こえる。粗方払い終えると、そのまま寝室へ向かったようだ。さすがに着替えるのだろう。
リビングで母と2人きりになった。
母は空になった土産の箱を様々な角度からまじまじと見つめている。しっかりした作りの箱なので、再利用出来ないか考えているようだった。ウチにはそういったリサイクル箱の類が結構活躍の場を与えられているのだ。
そして、何らかの目処がついたのだろう。その箱を持って立ち上がる。
「ねぇ、礼二。夕飯入る?」
「俺は大丈夫だけど。母さんは?」
「うーん、おかずだけにしとこうかしら。お父さんも晩酌だけよね、きっと」
「――じゃね?」
などと話していると、部屋着に着替えた父が戻ってきた。
「はー、母さん、今夜はおかずだけで良いかな」
やっぱりね。俺は母と目を合わせ、ほぼ同時に肩をすくめた。
夕飯はトンカツに千切りキャベツ、ほうれん草の胡麻和えと豆腐の味噌汁だった。
白米も食べたのは俺だけだった。父はごくごくと喉を鳴らしてビールを飲んでいる。
いつもの光景だ。少なくとも、いま、この場においては。
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