第1章 冬の訪れ
第1話
「――これと、それからこっちのクッキーね。ああん、あと、これこれっ! ここのチーズケーキは絶ッ対外せないから!」
姉の
「ちょっ、ちょっと、多いって! 姉ちゃん!」
どんどん重さを増していくかごを両手で持つ。増しているのは重さだけではない。もちろん、それに比例して金額もだ。財布の中身を思い出しながら、商品が一つかごに入る度に暗算していたのだが、姉のスピードに追い付くことが出来ず、それは早々に諦めた。それが懸命な判断ってやつだろう。
「あのね、北海道のお土産ってのは、定番と流行り、そして新商品を抑えるのが『常識』なのよ! アンタ何しに北海道来たの?」
「少なくともこの土産のためだけじゃねぇよ!」
抵抗してみるものの、この姉には敵わない。
俺の姉、夏木一華、22歳。
別に実家は農家というわけではないし、本人も農業にはさほど興味がないらしいのだが、この学部の『昆虫学会の変わり者』と呼ばれる
興味がない割には、それなりにそつなくこなしていたようで、早々と内定を取ってしまってからは、毎日のように川俣教授の研究室に入り浸って、熱い『昆虫論』を交わしているらしい。
特別美人でもないし、スタイル抜群というわけでもないが、人懐っこく世話好きで明朗快活な姉は、いつでも皆の人気者だった。
俺の回りにも、姉に憧れている奴らはたくさんいたし、友人の
それに引き換え、弟の俺はというと、滑り止めを含むすべての大学に落ち、現在は絶賛浪人中の18歳である。
昔から要領が悪く、何をやってもいまいちで、勉強だけではなく運動の方も正直さっぱりだった。恵まれているのは容姿だけ――と言いたいところだだけど、容姿も取り立てて良いわけではない。ただ、母に似て少し女顔かつ童顔と言うだけである。165cmの身長と相まってクラスの女子からは「可愛い」という、年頃の男にとってはあまり有難くない評価をいただいてしまう始末。
『お姉ちゃんの方が男だったら良かったのにね』
親戚からよくそう揶揄されていた。そして自分でもそう思っている。
俺は何をやっても姉ちゃんには勝てない。
そんな劣等感を抱いていた。
――で、そんな姉から、「たまには勉強を忘れてリフレッシュしなさい」という手紙と共に航空券が送り付けられたのは2週間ほど前。浪人生が勉強を忘れたらおしまいだろ、そう思ったが、何せ姉には逆らえない。
それに、北海道へは行きたかった。
何せ俺の志望校はすべて北海道の大学だ。ちなみに第一志望は姉も通っている北海大学なのだが、これといって学びたい学部があるわけではない。ただ、どうしても北海道に住みたかったのだ。
理由は、ただ一つ。
部屋の中を縦横無尽に、そして傍若無人に這いずり回る、『黒いアイツ(名前を出すことすらもおぞましい)』がいないから、である。
そんなことで?
――いやいやいや!
極度の虫嫌いにとっては何よりも重要な志望動機となりうるのだ。
もちろん、北海道は自然が豊かなので、虫がいないわけではないのはわかっている。しかし、『黒いアイツ』がいないのは大きい。それに、北海大は札幌の町中にあるので、周りも『大自然』というわけでもない。
かくして、俺は姉からのありがたいお誘いにより、1週間の北海道旅行を満喫した、というわけである。
「だいたいさぁ、これって、空港でも買えんじゃねぇの? 何でココで買うんだよ」
「そりゃー空港でも買えるけどさぁ、まずここで発送しちゃうわけよ。――で、空港内では、買い忘れたやつとか、あとはストラップとかのこまごましたものを買うの! いま千歳空港なんて見るとこいーっぱいあるんだから、のんびりお土産見てたら乗り遅れちゃうんだから!」
「それも『常識』なのか?」
「あたしのね」
姉は笑うと、俺からかごをひったくり、颯爽とレジへ持っていく。
えっ、財布……と慌てて鞄を漁る俺を尻目に、さっさとカードで支払いを済ませてしまった。
「お姉ちゃんが買ってあげるって。アンタは発送伝票係に任命するから」
そう言って、極上の笑みと共にクール便の発送伝票とボールペンを手渡してくる。
ほんと、姉ちゃんには敵わない。勝てる気がしない。
店を出ると、きりりとした北風が頬に刺さる。
4年間の大学生活で姉はだいぶ慣れたようだが、俺にとっては凍てつくような寒さである。いや、一応俺も北国出身なんだけどな? 何つーの、寒さの『質』ってやつが違うんだよ。寒いっつーか、最早『痛い』。
これくらいで寒がってたらココには住めないんだよなぁ。
そう思い、首に巻いていたマフラーを口元まで引き上げた。
「お、礼二君。それは正しい判断だよ」
姉が感心したような態度で言う。
自分はティッシュで唇のグロスを丁寧にゆっくりと拭き取ってからマフラーで口元を覆った。
「正しいってなんだよ」
「うひひ。よーっく見てみぃ」
そう言って、人差し指を宙に走らせる。その指の先には、白いものがちらちらと舞っていた。
「おわぁ、雪か。これって初雪? はぁ~、やっぱ北海道は早いな」
成る程、寒さはこのせいかと、俺は得心した。
「ふはは。雪じゃないよ、これ。礼ちゃんには刺激強いかな~?」
雪じゃない、と聞いて、俺は目を凝らした。
眼鏡をかけるには至っていないものの、特別目が良いわけではないので、眼前の白いものがなんなのか理解するまでに多少時間がかかる。
数秒の後、徐々にピントが合って来て、その白いものが小さな小さな虫であることに気付いた。気付いてしまった。
「――うっ、うわぁぁぁあっ! む、虫ぃっ? 虫かよっ、コレぇっ!」
情けない声を発して、俺は飛び上がった。どうやら期待通りの反応だったらしく、姉は上機嫌である。
「これはね、雪虫っていうんだぁ。北海道の冬の風物詩だよ。この子達が雪を運んで来てくれるの。ちなみに、雪虫ってのは通称で、本当はアブラム――ってごめんごめん。やっぱりこれくらいの虫でもダメ?」
危うく雪虫の詳細を語り始めるところだったが、そこはぐっとこらえた(本当は大いに語りたそうにしていたが)ようだ。俺は思考がフリーズしてしまい、道端にしゃがみこんだ状態で動けない。
「おーい、礼二! 礼ちゃーん! そんなところでしゃがんでたら通行人の邪魔だよぉ~」
姉は俺の腕を取り、どうにか立ち上がらせようと引っ張っている。しかし腕力はやっぱり女性だ。いくら俺が小柄といえども、彼女の力だけで引っ張り上げるのは容易いことではない。
ぐいぐいと引っ張られながら、やっと落ち着きを取り戻した俺はよろよろと立ち上がった。
「さーって、空港に向かいますか。電車乗ろ乗ろ。寒いから地下通って行こー!」
努めて明るくそう言って、姉は俺の手を取った。
本当は寒いからではなく、俺がこれ以上雪虫に触れないようにだろうということは容易に想像が出来た。だって数日前は地上を歩いて移動してたんだから。
何やら心配そうにチラチラとこちらに視線を送りながら、姉は地下鉄の入り口を探す。「ここで良いか」なんて呟いて適当な入口から地下に潜り、地下街を通ってJR札幌駅へと向かった。
すいすいと人の波をかき分けて、迷うことなく目的地に向かう姉の背中を必死に追いかける。
俺、1人でココ歩けるようになんのかな。
地元の秋田県では空港でだってなかなか見られないような混雑ぶりに、思わずそんなことを考えた。
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